日常

一杯をきっかけに考え直す人たちのアニメ

ネタバレの範囲 ネタバレなし 2006年のテレビアニメ『バーテンダー』の始まりの設定(フランス帰りのバーテンダー佐々倉溜の一杯は『神のグラス』と呼ばれ、悩みを抱えた客がその一杯をきっかけに自分を見つめ直す、一話ごとの話)と、原作・新しいアニメ化の基本情報まで。個々のお客さんの話の中身と結末には触れません

シリーズ『わたしだけの推し』。店の定休日の昼すぎ、カオルが、月曜を休みにしているミサを公園に呼び出した。アニメが苦手なミサに、どうしても一本だけ渡したい。カオルのまわりでは誰も観ていない、バーテンダーが主人公の昔のテレビアニメでした。

こんな人に
アニメは少し苦手だけれど、一話で終わる大人のドラマなら観られる人へ。人の話を聞く仕事をしている人にも。
話している人
カオル × ミサ
帰り道 ミサの家の近くの公園、噴水の前のベンチ 十月の月曜、昼すぎ

店の定休日の昼すぎ、カオルはミサの家の近くの公園まで来ていた。月曜を美容とドラマの日にしているミサは、髪をまとめて、日傘を手にベンチに座っている。夜のカウンター越しではない場所で二人が並ぶのは、めずらしいことだった。

ミサ

昼のカオル、やっぱり別人ね。声が三割大きい。

カオル

昼はこっちが地やねん。夜のほうが、よそゆきの声。

ミサ

で、今日はなに。わざわざ月曜に呼び出して。

カオル

ミサさんに、一本だけ観てほしいアニメがあんねん。アニメ、苦手なん知ってて言うてる。

ミサ

あら。カオルが私にアニメ。

カオル

『バーテンダー』。そのまんまの題名。

ミサ

職場のアニメじゃない。

カオル

せやねん。……店の常連さんに言うても、バーの人がバーのアニメ観てどうすんの、って笑われる。同業の人も、まず観てへん。うちのまわりで推してるの、たぶん私だけや。

カオル

昔のテレビアニメ。主人公は佐々倉溜っていうバーテンダーで、フランスから、日本に帰ってきた人。[1]

2006年10月からフジテレビで放送。アニメーション制作 パルムスタジオ。監督 渡辺正樹、脚本 今川泰宏

ミサ

フランス帰り、ね。ドラマなら、だいたい鼻につく役よ。

カオル

それが、私には鼻につかへんかった。溜の出す一杯は『神のグラス』って呼ばれてる。[2]

ミサ

神のグラス。名前は強いわね。

カオル

だいたい毎回、何かしら抱えたお客さんが店に来る。溜が一杯を出して、お客さんは、その一杯をきっかけに、自分のことを考え直していく。[2]

ミサ

一話ごとに、別のお客さん?

カオル

だいたいそう。だから、どこから観てもええと思う。ミサさんがアニメ苦手でも、一話で区切れる。

ミサ

そういうとこ、ちゃんと考えてくるのね。

ミサは日傘をたたみながら、噴水の水が落ちるところを眺めた。カオルは膝の上で、見えない野球のボールの縫い目を指でなぞっていた。

カオル

私が好きなのはな、カウンターの内側の人が主人公なとこ。

ミサ

バーテンダーは聞く仕事だものね。

カオル

そこやねん。主役やのに、話の真ん中にはいつもお客さんがおる。私には、そう見えた。店に立ちはじめたころにあれを観て、私は待ち方を覚えた。

ミサ

待ち方。

カオル

店に立って最初の冬にな、お客さんに黙られるのが怖くて、野球のたとえを三つも並べてもうたことがある。あとでひとりでカウンター拭きながら、しゃべりすぎたなあって。

ミサ

カオルにも、そんな時期があったの。

カオル

あったあった。そのあとで、このアニメを観て、ああ、これや、って。キャッチャーがサイン出す前に、まずバッターの足もとを見るのと一緒。

カオル

お客さんが黙ってるとき、こっちが何か言いたなるやろ。そこを一拍、待つ。氷が鳴る音のほうが、私の言葉よりええこと言うてくれるときがある。

ミサ

それは、ダンスも同じよ。振付で全部埋めると、踊る子の顔が見えなくなる。

カオル

ほら、ミサさんのほうがうまいこと言う。

ミサ

当たり前よ。何年、人に振りを渡してると思ってるの。

カオル

……あ、年の話はなしで。

ミサ

はいはい。

ミサ

私の好きなドラマも、男が黙ってる時間がいいのよ。言わない男は、だいたい名作。

カオル

ミサさんの名作の基準、そこなん。

ミサ

そこよ。しゃべりすぎる男は、三話で飽きるもの。

カオル

いや、なんでやねん。全国の、しゃべる男に謝って。

カオル

もう一個。このアニメ、お酒の話やけど、飲め飲めって話やないねん。一杯は、話のきっかけ。お客さんが自分と話すための、間を作る道具。そこが、私の仕事の考え方とおんなじで。

ミサ

そこは大事ね。私、お酒の自慢話をするドラマは、すぐ止めるもの。

カオル

原作は漫画。城アラキさんの原作で、長友健篩さんが描いてる。そのあと、新しいアニメも作られてる。[2]

原作は『スーパージャンプ』(集英社)で2004年から連載。2024年には新しいテレビアニメも放送

ミサ

新しいのがあるなら、そっちを観ればいいんじゃないの。

カオル

新しいほうもええよ。でも、私が最初に観たのは古いほうで、あの間の取り方が、うちの店の間に近い気がする。……知らんけど。

ミサ

知らんけど、で逃げないの。

カオル

逃げてへん。好みの話やから、言い切らんだけ。

ミサはしばらく黙って、スマホのメモに題名を打ち込んだ。打ち終えてから、画面をカオルに向けて見せる。

ミサ

で、準備は? 私が一話観たら、カオルの店で答え合わせ?

カオル

夜は聞き役やから、答え合わせは昼にしよ。ここのベンチで。

ミサ

そう。昼のほうが、本音が出るのね。

カオル

昼の私は、隠すのが下手やから。

ミサ

知ってる。だから昼に呼んだんでしょ。いいわ。一話だけ観る。背筋を伸ばして。

ミサ

ハルにも言っとくわ。カウンターの向こうの人のアニメ、私は一話観るわよって。

カオル

ハルくんには、昼の私から渡しとく。夜の話はまだ早いやろ。

ミサ

もう二十六よ、あの子。……でも、いいわ。昼のカオルからのほうが、あの子は聞く。

カオル

ほな、決まり。来週の月曜、ここで。私、なんか甘いもん持ってくるわ。

この記事の作品

話した人 カオル 夜は品よく、昼はよく笑うバーテンダー カオルの記事をもっと読む →

次に読む

記事一覧へ

ページの先頭へ