日常

封印したノートを大人が本気で書いた本

ネタバレの範囲 ネタバレなし 小説『星界の紋章』の始まりの設定(アーヴの国に降伏した星の首長の息子ジントが貴族の子になり、アーヴの社会を学んだあと、帝都へ向かう旅で皇帝の一族の娘ラフィールに出会う)と、アーヴ語という言葉があること、作者と賞、アニメ化まで。二人の旅の出来事と、戦争の行方には触れません

シリーズ『わたしだけの推し』。学食に置き忘れた文庫本を、エマが拾って持ってきた。カバーの下は、宇宙の帝国と、アーヴの言葉が出てくる小説。帝国の話に目がないソウマが、バイト先の本屋の棚の奥で見つけた一冊です。

こんな人に
宇宙の帝国の話を、戦いより暮らしと決まりごとから読んでみたい人へ。架空の言葉を眺めるのが好きな人にも。
話している人
ソウマ × エマ
学校 大学の学食、窓ぎわの四人がけの席 十月の火曜、三限のあと

昼のピークが過ぎた学食は、半分ほどの席が空いていた。ソウマが日替わりの定食の味噌汁に口をつけたところで、トレーを持ったエマが向かいに座った。トレーの上には、うどんと、文庫本が一冊。

エマ

ソウマ、その本。本屋さんのカバーがかかってて、題名が見えないの。

ソウマ

俺の。さっき、席に置き忘れた。

エマ

知ってる。だから持ってきたの。で、それ、なに?

ソウマは文庫を受け取って、少し迷ってから、カバーを外して表紙を見せた。

ソウマ

『星界の紋章』。小説。……別に、隠してたわけじゃない。

エマ

聞いたことない。教えて?

ソウマ

だろうな。バイト先の本屋の、文庫の棚のいちばん奥で見つけた。俺の周りで読んでるやつ、見たことない。

ソウマ

シフトの最後に棚の並びを直してたら、背表紙が少しだけ奥に引っこんでた。誰かが立ち読みして、適当に戻したんだと思う。直すついでに一ページ目を開いて、気づいたら閉店の放送が鳴ってた。

エマ

立ち読みしてたのは、ソウマのほう。

ソウマ

……仕事の一部だ。

エマ

どんな話? 宇宙?

ソウマ

宇宙。森岡浩之って人が書いた、宇宙の国の話。[1]

早川書房(ハヤカワ文庫)から1996年4月〜6月に全3巻で刊行

ソウマ

主人公はジントって少年。生まれた星が、アーヴの国に攻めてこられる。で、そこの首長だったジントの父親が、降伏する。代わりに、向こうの貴族の位をもらう。[1]

エマ

え、なんで? 降伏したのに、貴族になれるの?

ソウマ

なれる。だからジントは、自分の星の人間なのに、侵略した側の貴族の子になる。どっちの側にも、きれいに立てない。[2]

エマ

それ、つらいやつじゃん。

ソウマ

つらい。でも、読んでると不思議と重くならない。そこがいい。

エマ

私、親の仕事で、子どものころから何回も国を引っ越したの。行くたびに、その国の言葉と、食べ方と、あいさつの順番を覚え直す。ジントって、それをずっと一人でやってる子なんだ。

ソウマ

……そうか。エマのほうが、たぶんジントに近い。

エマ

でしょ。だから読む資格、あるよね。

ソウマ

資格とかない。読みたいやつが読めばいい。

ソウマ

ジントは、アーヴの言葉と作法を学ぶために、よその星の学校に送られる。何年もたって、帝都の軍の学校へ向かう。その旅で、迎えに来た見習いの操縦士に会う。それがラフィール。皇帝の一族の娘。[2]

エマ

お姫さまが迎えに来るの? Nice。

ソウマ

迎えに来るのは、ドレスのお姫さまじゃない。軍の見習いとして来る。最初の山は、この二人が会うところ。

エマ

で、ソウマはどこが好きなの? 帝国?

ソウマ

帝国。

エマ

やっぱり。

ソウマ

いい意味で、手触りのある国なんだよ。貴族の位とか、軍の階級とか、細かい決まりが、物語のうしろにちゃんとある。

エマ

ルールが細かい国の話?

ソウマ

階級や位に、細かい決まりがある。そういうのを読むだけで、俺は楽しい。

エマ

空手の帯の色みたい。私、子どものころ、道場で最初に覚えた日本語、帯の色だったの。

ソウマ

……帯の色、か。それなら、エマはこの話にすぐ入れる。

ソウマ

それと、言葉。アーヴには、アーヴ語っていう自分たちの言葉がある。[2]

エマ

待って。言葉ごとあるの?

ソウマ

……それ以上は、読んでから。

エマ

それ、最高じゃん! 私、知らない言葉の綴りを見るの、大好き。

エマはうどんを置いて、身を乗り出した。ソウマは目をそらして、味噌汁の椀を持ち直した。

ソウマ

中学のころ、俺もノートに、自分で作った国の言葉を書いてた。国の名前と、階級の名前と、乾杯の言葉。

エマ

見たい!

ソウマ

見せない。実家のどこかに封印してある。……今のは忘れて。

エマ

忘れない。メモした。

ソウマ

だから、この本を棚の奥で見つけたとき、俺の封印したノートを、ちゃんと大人が本気で書いたやつだと思った。笑われる側の遊びを、最後までやり通すと、こうなるのか、って。

エマ

分かる、ちょっと。笑われるくらい本気、ってこと。

ソウマ

……別に。そこまでは言ってない。

エマ

言ってた。

ソウマ

壮大な話だけど、戦争で何かを壊す話というより、違う生き方の人間どうしが、隣の席に座る話だと俺は読んでる。生まれた場所も、当たり前も違う二人が、一つの船に乗る。

エマ

違う当たり前の二人、か。……転校した初日の私と、クラスの子みたい。

ソウマ

それは、ちょっと分かる。

エマ

賞とかは?

ソウマ

取ってる。SFの賞。……でも、俺はそれで読んだわけじゃない。[1]

第28回星雲賞 日本長編部門

エマ

アニメは? 私、二時間の映画より、アニメのほうがソウマに向いてると思う。

ソウマ

なってる。長い映画が最後まで観られないのは、関係ない。[2]

エマ

関係あるでしょ。

ソウマ

ある。

エマ

じゃあ、最初の一冊だけ貸して。読んだら、いちばん好きなアーヴ語の単語、一個だけ言うから。

ソウマ

一冊だけな。続きは、自分で本屋で買え。俺のバイト先で。

エマ

商売、上手。

ソウマは文庫にもう一度カバーをかけてから、エマのトレーの端に置いた。昼の学食の音が、少しだけ戻ってきた。

ソウマ

一巻の終わりまでは、たぶん止まらずに読める。……長い映画よりは、ずっと楽だ。

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