声をかけたのはミサだった。実家の用事で出てきたシズカに会うついでに、人数が多いほうが楽しいからと、カオルとガクとスイも呼んだ。テーブルにはナポリタンとオムライスとホットサンド、それに紅茶とコーヒーとクリームソーダ。カオルの夜の営業は、今日は六時から。
カオルのスマホが、皿の横で一度だけ震えた。カオルは画面を見て、そのまま裏返した。
今の、おばあさまでしょ。顔に書いてある。
せや。ゆうべも寝る前に電話で、いい人はおらんの、て。今のは、その続きのスタンプや。
返し方が、ずっと分からへんねん。……なあ、みんなやったら、結婚するならどのキャラにする? 返す練習に、聞いときたい。
結婚は宿題じゃないわよ。おばあさまのために、答えを用意しておく必要はないの。
宿題ちゃうのは分かってる。ほな、自由研究や。今日のお題、それでええ?
あらあら。楽しそうなお題ですね。私は、もう提出してしまった身ですけれど。
結婚という制度は、もともと財産と家の継ぎ方を決めるための――……ごめん、またやった。キャラの話だね。
私は、少し考えてから返すね。誰か先にどうぞ。
ネタバレはどうする? 結婚て、最後まで見んと決められへんやろ。
私、結末は帯みたいに裏返しておきたい人なんだけど……今日は聞く。知ってる作品なら、なおさら。
全部言って。知らない作品なら、聞いてから観るかどうか決めるから。
こうして、結末まで話してかまわない「結婚するなら」が始まった。最初に手を挙げたのは、五人のなかでいちばん若くして結婚したシズカだった。
私は、マシュウさんにします。『赤毛のアン』の。
え、あの、ひげのおじいちゃん?
テレビアニメの『赤毛のアン』は、日本アニメーションが制作し、1979年の1月から12月まで、フジテレビ系列の日曜の夜に全50話が放送された。監督は高畑勲。マシュウ・カスバートは妹マリラとの二人暮らしで、アンを家に迎えたのはこの二人だ。暮らしを支えているのは畑と、銀行に置いた蓄えから入る利子。ひどい人見知りで、とりわけ女の人が苦手なまま、六十を過ぎても独り身でいる。[1]
シズカ、マシュウは結婚してないじゃない。
ですから、結婚するなら、です。……私、あの方が畑から戻ってくるときの、肩の落とし方が好きでした。
肩の落とし方て。どこ見てんねん。
台所に立っていると、帰ってくる人の肩ばかり見えるんです。今日はくたびれているのか、うれしいことがあったのか。マシュウさんは、うれしい日ほど黙っています。
黙っているのに、うれしいのが分かる。そこを見るのが、シズカさんの持ち場なんですね。
アンが袖のふくらんだ服をうらやましがっていて、女の人の苦手なマシュウさんが、それに気づくんです。
お店に行っても言い出せなくて、結局、ご近所の奥さまに仕立てを頼む。私はあの回のマシュウさんを、言えないまま何週間も気にかけていた人として観ました。
言えないまま、気づいてる。……それ、少しわかる。
私は言えない男は苦手。でもね、言わないで服を一着そろえてくる男は、嫌いじゃないわ。
それから、ここから先は、お金の話になってしまうので……畳んでおきます。
結末・正体原作とアニメの結末押すと開きます
アンはクイーン学院を一番の成績で出て、奨学金で大学へ進むはずだった。その矢先、マシュウは蓄えを預けていた銀行がつぶれたことを知った衝撃で心臓の発作を起こし、急に亡くなる。蓄えは一つの銀行にまとめて預けてあったので、全部が消えてしまった。兄を失い、目も悪くしたマリラは、家を手放すことまで考える。アンは大学をあきらめ、グリーン・ゲイブルズに残って、近くの学校で教える道を選ぶ。
シズカ「蓄えは、一つのところにまとめて置かない。台所を預かる者としては、そこだけは言わせてください。……でも、あの方が残したのは、お金ではなかったと思うんです。アンが家に残ると決めたのは、マシュウさんが黙って手を動かしてきた家だったからでしょう。」[2]
畳んだところ、そこでお金の話を持ってくるのが、あなたらしいわね。
黙って手を動かしてくれる人。私は、そこだけは譲れません。
じゃあ次は私。リ・ジョンヒョク。『愛の不時着』の。
出た。ミサさん、それ言うと思てた。
『愛の不時着』は韓国のtvNで放送された全16話のドラマ。脚本はパク・ジウン。韓国の財閥の令嬢ユン・セリは、自分の会社のスポーツウェアを着てパラグライダーの試験飛行をしている最中、竜巻に巻きこまれて北朝鮮側に降りてしまう。木に引っかかった彼女を見つけ、自宅にかくまうのが、北朝鮮の軍人リ・ジョンヒョク。若いころはピアノで身を立てるつもりで、スイスで学んでいた人だ。セリのほうは、自分で興した会社の社長でもある。[3]
私が見てるのは、あの人がセリの仕事を一度も取り上げようとしないところ。自分の足で立ってる女を、立たせたまま守るの。私にはそう見えたわ。
守るなら、おそばにいるのが一番ではありませんか。
そばにいるのと、寄りかからせるのは別よ。私は一回結婚して、一回やめた。だから、そこははっきり分けて観ちゃうの。
分けて観る、か。お金の話も入りますか。
入るわよ。財布が別でも、相手の暮らしの段取りまで考えてくれる男。最後の回までの話だから、ここは畳むわ。
結末・正体中盤から最終話まで押すと開きます
村が停電して泣いていたセリに、ジョンヒョクは市場で見つけてきた韓国の生活用品を渡す。物語の終盤には、セリに聴かせるピアノの曲を自分で録音し、セリが一人でも家でちゃんと食べられるように、台所の食材をそろえておく。最終話でジョンヒョクは北へ送還され、二人は同じ国で暮らせなくなる。セリが頼りにするのは、彼が残していったメールと、次の年の誕生日に届いた言葉。それを信じて、セリは毎年スイスへ行く。
ミサ「いなくなる前に、相手が一人で暮らせる準備をしていく男なの。同じ家に住めなくても、私はあれを、結婚にいちばん近い形だと思って観たわ。お金も仕事も、二人とも自分のを持ってる。どっちも、相手の人生を背負わされていないのよ。」[3]
……読みました。私には、少し重いお話でした。
準備していく人なのよ。そこが私の譲れないところ。
シズカさんは毎日のごはん、ミサさんは毎日の準備。いきなり割れたな。
じゃあ僕も割りにいこうかな。ヤン・ウェンリー。『銀河英雄伝説』の。
宇宙で戦争をする話の人?
うん。でも結婚の話なら、先に弱点を言っておかないと公平じゃない。この人、家のことが本当にできない。
ヤン・ウェンリーは、自由惑星同盟の側の軍人で、戦場では「魔術師」と呼ばれるほどの用兵家。ところが家事や身の回りのことにはまるで関心がなく、少年のユリアンを養子として迎えるまで、家はごみに埋もれていた。それからは、結婚するまでの家事をユリアンがほとんど引き受けている。仲間からは暮らしの能力がないと言われ、本人もそれを笑って認めていた。[4]
……それは、困りますね。
いまシズカさんの目、一瞬だけ温度下がったで。
でもね、老後の計画だけは本気なんだ。もともと歴史を学びたくて、ただで学べるからと士官学校の戦史の学科に入った人で、十年勤めたら軍を辞めて年金で暮らす、と何かにつけて言っている。[4]
僕は、先の話を先にできる人と暮らしたい。楽しい話の前に、毎年いくら残るかを決めておく。町内会で言えば、夏祭りの予算を最初に組む係が好きなんだ。
年金の話から入る恋なんて、聞いたことないわよ。
ガクさん、けんかのときは? その人、どうやって言い合うの。
いい質問だね。ヤンは、考えの違う人に自分の考えを分からせることに、あまり熱心じゃない。面倒になると、そこで引く。生まれつき物ぐさな人なんだ。僕は逆で、相手が黙るまで説明してしまう。足して二で割れたら、ちょうどいいんだけどね。[4]
黙るまで説明する人と、黙って引く人。……どっちも、相手の顔を見る前に決めてる気がする。
……耳が痛い。そこから先は、畳んで話すよ。
中盤まで中盤の展開(原作小説の中盤)押すと開きます
ヤンは、副官のフレデリカに早くから心を寄せていた。けれど、人を死なせる仕事をしてきた自分が家庭を持っていいのか、年も離れているのに、と考えて、なかなか言い出せない。気持ちを打ち明けたのは、死ぬかもしれない大きな会戦を前にしたときだった。戦いのあと、敵の新しい皇帝から元帥として迎えたいと誘われても断り、軍を退いて一人の市民に戻ると、すぐにフレデリカと結婚する。新婚の暮らしは、減らされた年金で足りるように組み立てていた。
ガク「あれだけ年金の話ばかりしていた人が、本当に年金で暮らす設計図を引く。僕はここで、この人を信用した。」[4]
結末・正体後半の展開(本伝第8巻まで)押すと開きます
結婚の翌月には政府に命を狙われ、仲間に助け出されて首都を離れ、ふたたび戦いの場に立つことになる。そして、ようやく和平への道が見えたところで、皇帝との会談に向かう途中、地球教徒のテロに襲われて命を落とす。三十三歳だった。
ガク「老後の設計図を引いた人に、その老後が来ない。僕はこの人を推しておいて、この最後だけは、何度読んでも段取りが合わない気がするんだ。」[4]
畳んだところ、読みました。……ガクさん、それでもこの方を選ぶんですか。
選ぶ。家事ができなくても、先の話を本気でしていた人だから。一緒に年表を引ける人がいい。
シズカは黙ってうなずき、店の人を呼んで、冷めかけたオムライスを指さした。
……まずは、ごはんにしましょう。温め直していただけるそうです。
スイ、考えまとまった?
うん。私は、馬締さん。『舟を編む』の。
辞書の人や。名前からして、まじめやん。
『舟を編む』は三浦しをんの小説で、のちに石井裕也が監督して映画になった。出版社の営業部で浮いていた馬締光也が、言葉への鋭い感覚を見込まれて辞書編集部に移り、新しい国語辞典『大渡海』づくりに没頭していく。映画で馬締を演じたのは松田龍平。下宿で出会う板前見習いの林香具矢は、宮﨑あおいが演じた。[5]
馬締さんは、すぐには返事ができない人。でも黙ってるあいだ、ずっと相手の言葉を考えてる。私は、そういう沈黙と一緒に暮らしたい。
沈黙と暮らすのは、私には無理ね。三分黙られたら、私から先にしゃべっちゃう。
その先は、映画の後半の話。
結末・正体後半から結末まで(映画版)押すと開きます
馬締は香具矢への気持ちを手紙にするが、それは筆で書いた行書で、同僚の西岡が見るなりあきれるほど読めない代物だった。勤め先の大将に読み解いてもらった香具矢は、恥ずかしさに腹を立てて下宿に帰ってくる。大事なことは自分の言葉で言って、と求められて、馬締はやっと口に出して気持ちを伝え、香具矢も同じ気持ちだと答える。物語はそこから十二年後へ飛び、二人は籍を入れている。最後は、亡くなった監修者の墓参りの帰り道、海を眺めながら馬締が改まって妻に礼を言い、香具矢が苦笑する場面で終わる。
スイ「私は、あの手紙を書く馬締さんより、読めないって怒る香具矢さんのほうを見てた。待つだけじゃなくて、言葉にしてって言える人。何年たっても改まってお礼を言う夫に、笑って返せる人。」[5]
いいじゃない、その香具矢さん。私、気が合いそう。
ミサさんと香具矢さん、少し似てると思う。
当たり前よ。いい女は、どこかで似てるの。
スイさんは、馬締を推して、香具矢を見ている。推しとは別のところに、譲れない一点があるんだね。
うん。黙ってる時間を、怒ってるって決めつけない人。でも、大事なことは遅れても言葉にする人。……両方ほしいのは、欲張りかもしれない。
カオルさんは? 言い出した人が、まだですよ。
カオルはクリームソーダのストローを指で回し、それから耳の鍵のイヤリングに一度だけ触れた。
……私は、銀さんや。『銀魂』の坂田銀時。
まあ。あの、甘いものばかり召し上がる方ですね。
坂田銀時は、空知英秋の漫画『銀魂』の主人公。かぶき町で、頼まれれば何でも引き受ける「万事屋銀ちゃん」を営む侍で、ふだんはやる気のない目をした怠け者だが、決めるべき場面では決める。甘いものが切れると機嫌が悪くなるほどの甘党で、血糖値は病気の一歩手前、パフェは週に一度までと決められている。賭けごとも好きで、たいていは負けて一文無しになる。[6]
お砂糖と賭けごとは、台所を預かる者としては筋が通りません。
で、準備は? その人と暮らす準備よ。
準備はでけへん人や。それは認める。せやけど、背負うもんはちゃんと背負う人やねん。
私が読んだんは、今の店で働きはじめた年の夏。休憩室に単行本が積んであってな。ふざけた回で笑うて、次の回で背筋が伸びる。それが、ずっと続いていく漫画やねん。[7]
原作漫画は『週刊少年ジャンプ』2004年2号から2018年42号まで連載。完結編は2019年に「ジャンプGIGA」と公式アプリで発表
結婚で一番長いのって、たぶん何もない日やん。その何もない日を、一緒に笑える人がええ。
何もない日、か。年表には載らない日ですね。
せやろ。ほんで、私が銀さんにした理由は、最後の最後にあるねん。畳んどくわ。
結末・正体結末(原作漫画の最終話まで)押すと開きます
長い戦いが終わったあと、仲間の神楽が宇宙へ行くと決めたとき、銀時も自分にやり残したことがあると言って、万事屋をたたむと言い出し、江戸から姿を消す。二年たって江戸に戻ってきた銀時は、離れていたあいだのことを片づけていき、最後のページでは、新八と神楽を連れて、急ぎの依頼に出かけていく。そこで物語は終わる。
カオル「看板下ろして、出ていって、それでも帰ってくるねん。結婚の約束なんか一個もしてへんのに、帰る場所はちゃんとある。うち、あそこで、家族って宿題みたいに作るもんやないんやなって思た。」[6]
……ずるいわね。そういう話を最後に持ってくるの。
お砂糖のことは、まだ許していません。
カオルの推しだけ、相手がいないね。結婚相手の話じゃなくなってる。
いや、なんでやねん。結婚するならの話やったやろ。……でも、ほんまやな。
なあ、最後に一個だけ。熱出して寝込んだとき、そばにおってほしいのも、さっきの推しなん?
マシュウさんは、黙って枕元にお水を置いて、黙って畑に戻る方だと思います。私は、それで十分です。
ジョンヒョクは、寝込む前に冷蔵庫をいっぱいにしていく人よ。……私は寝込んでも、人には言わないけど。
存じております。
ヤンは、看病は無理だろうな。せめて病院の予約くらいは……いや、それもユリアンに頼みそうだ。
馬締さんは、おかゆの作り方を辞書で引いてから作りそう。
時間かかりすぎやろ。作ってるあいだに治ってまうで。
銀さんは、たぶん甘い牛乳持ってきて、自分で飲んでまう。
でも、それで笑えたら、熱が少し下がる気がする。
熱は下がらないわ。……でも、気分は上がるかもね。
テーブルの上には、五つの推しと、五つの譲れない一点が並んだ。黙って手を動かす人。自分の足で立ったまま隣にいる人。先の話を一緒にできる人。黙る時間を待って、言葉にしてと言える人。何もない日に一緒に笑える人。誰の意見も、誰とも重ならなかった。
で、おばあさまには何て返すの。
何もない日に笑える人を探してる、て。ほんで、まだ見つけてへん、て正直に言うわ。
三行にしなくても、それで十分届くと思う。
ほな、おばあちゃんに一行だけ返してくる。みんな、ナポリタン冷めんうちに食べといて。
カオルは裏返していたスマホを表に戻し、店の入口の外へ出ていった。ガラス越しに見える背中は、店に立つときと同じように、まっすぐだった。