十月の日曜の夕方。模型の展示会を見た帰りに、ユナとタカシは駅前の喫茶店に入った。会場でタカシは、ユナの出した機体の前から長いこと動かなかった。泥の跳ねた脚を見ながら、ずっと続けてこられたんですか、と聞いた。その答えが、この話になった。
何も残らない毎日
会場では、ユナさんの機体の足元から目が離せませんでした。あれは、手を止めずに続けてきた人の泥だと思ったんです。好み
ううん、ぜんぜん。ガンプラから何年も離れてたよ。戻ったのは、仕事でけっこう詰んでたころ。
詰んでいた……それはどういう意味ですか。
あ、ごめん。行き止まりってこと。毎日ちゃんと行って、ちゃんと帰ってるのに、一歩も進んでる気がしなかったの。覚えることが多くて、同じことを何回も聞いて、そのたびに「まだそれ?」って顔をされる気がして。だんだん、聞くのが怖くなった。
お昼は非常階段の踊り場でパンかじって、午後に聞くことを頭の中で何回も練習するの。で、結局聞けないで一日が終わる。そういう日がずっと続いてた。
で、聞かないで自分でなんとかしようとして、また失敗する。帰りの電車ではスマホも見ないで、窓に映った自分の顔ばっかり見てた。爪も塗ってなかったな。いまは毎週、塗ってる機体の色に合わせてるのに、あのころはそんな元気もなかった。手がずっときれいなままだったの。どこにも、何の跡も残ってなかった。
そのころ、ご家族には話せましたか。
言えなかった。実家では元気なふりしてた。でも、あとで分かったんだけど、筆を持ってるあいだだけは、ふりをしなくてよかったんだよね。
跡が残らない仕事というのは、疲れますね。私も、仕事で行き詰まった夜に、台所でプラモデルを組んでいたことがありました。逃げているようで、手を止められませんでした。
タカシさんも? 何を組んでたの。
敵の側の機体です。昔から、そちらばかりで。……その話は、また今度にします。
台所の新聞紙と夜のアニメ
ユナが手を動かす場所を取り戻したのは、実家の台所だった。父と弟が模型の大会に出ることになり、週末だけ帰って手伝った。テーブルに新聞紙を広げて、弟の機体の足元に土の色を入れる係。手伝いが終わった夜、子どものころの部屋で観はじめたのが『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』だった。火星の民間警備会社で働く少年兵の三日月・オーガスたちが、火星の独立運動を率いる少女クーデリアを、地球まで送り届ける仕事を引き受けるところから始まるテレビアニメ。事実[1]
台所で久しぶりに筆を持ったら、手が勝手に動いたの。それがちょっと怖かった。仕事じゃ一歩も進まないのに、こっちはすいすい進むんだって。弟には「姉ちゃん、手が覚えてるじゃん」って笑われたけど、逃げてるみたいで、素直に喜べなかった。
逃げ込む場所と戻ってくる場所は、外から見ると同じ形をしています。違うのは、そこから月曜にもう一度出ていけるかどうか、かもしれません。解釈
……それ、あのころのあたしに聞かせたかった。
三日月たち少年兵の多くは、字の読み書きができない。地球へ向かう道中で、クーデリアは三日月たちに読み書きを教えはじめる。三日月には、いつか農場をやりたいという夢がある。事実[1]
いちばん強い子が字を習う
最初に観たときは、正直そこ、流してたんだよね。次の週、弟の機体に土の色を重ねながら流しっぱなしにしてたら、その場面で筆が止まった。
あたしが止まったのは、そこ。機体に乗ったらあんなに強い子が、仲間といっしょに、字を一個ずつ習ってるの。できないことを、できないまま、顔色も変えないで習いにいく。解釈
仕事でいちばん怖かったのが、それだったんだよね。できないのがばれること。三日月は、ばれるとか気にしてない。農場をやりたいから字がいる、だから習う。それだけ。解釈
先に目当てがあって、恥ずかしさは後ろに回っている。そういう順番でしょうか。
それな。あたし、順番が逆だった。恥ずかしいのが先に来て、何のために覚えてるのかが見えなくなってた。
字を習う目当てが農場、というのが良いですね。何と向き合うかより、その先で何を育てるかのほうを見ている。解釈
そう。で、あたしも考えたの。自分は何を育てたいんだろって。答えはすぐには出なかったけど、考えてるあいだは、ちょっとだけ顔が上がってた。
上に立つ人が「分かりません」と言える組織は、案外もろくないものです。私も若いころ、それが言えずに遠回りをしました。解釈
タカシさんでも? ちょっと安心した。
さきほど、何のために覚えているのかが見えなくなっていた、とおっしゃいました。いまなら、何と答えますか。
週末に、気持ちよく筆を持つため、かな。平日をちゃんと終わらせないと、土曜に塗る泥までにごる気がするの。……変な答えだけど、本気。好み
いい答えだと思います。私には、そういう答えが出るまで、ずいぶん時間がかかりました。
一日一個のノート
次の週から、一個だけ変えたの。分からないことを小さいノートに書いておいて、お昼の前にまとめて聞く。三日月が字を一個ずつ覚えるみたいに、一日一個でいいって決めて。
一日一個、ですか。
うん。最初は声が震えたけど、聞いたら案外ふつうに教えてくれた。怖い顔は、あたしが勝手に想像してただけだったのかも。平日に聞いたことが一個ずつ増えて、週末には弟の機体の泥が一層ずつ増えていく。どっちもちゃんと跡が残るって分かったら、息がしやすくなった。
あの作品が、ユナさんの背中を押したのですね。
押したっていうか、きっかけかな。ノートを買ったのも、聞きに行ったのもあたしだし。でも、あの子が字を習ってるとこを観てなかったら、たぶんまだ黙ってたと思う。好み
いまも引き出しにある
そのノート、いまも作業机の引き出しに入ってるよ。最初のページは電車の中で書いたから、字がガタガタで、習いたての字みたいでちょっと笑える。最近は塗装のことばっかり書いてるけど。……旦那にも、たまにそこから聞いてる。小声で。
新しいキットで分からないとこがあっても、いまは説明書の端に一個だけ書いとく。全部いっぺんに片づけようとしないで、一個。字を習ってたあの子のペースでいいやって。
ふふ。実は今日、会場で分からなかった言葉を手帳に三つ書いてきました。帰り道に一つ、聞かせてもらえますか。
いいよ。一個ずつね。駅まで歩きながら。
できないことを、できないまま教わりにいく。いちばん強い子がそうしているのを観て、あたしは一日一個から聞けるようになった。