日常

山帰りのブーツの泥と三つの色

ネタバレの範囲 ネタバレなし 『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』が、火星の少年たちが地球へ向かうところから始まる話であることだけ。物語の展開には触れません

十月の日曜の夕方、郊外の駅前。模型の即売会の帰りだったユナは、山から下りてきたトウゴの泥だらけのブーツに目を奪われる。汚し塗装の参考に見せてほしいと頼むと、トウゴは目をそらしたまま、靴底をそっとこちらに向けた。

こんな人に
本物の泥や錆を、資料ではなく自分の目で見てみたくなる人へ。口数の少ない人と並んで歩く時間が、案外きらいではない人にも。
話している人
ユナ × トウゴ
帰り道 山から戻る人の多い郊外の駅前(改札の外の屋根の下から、広場の隅の水道まで) 十月の日曜、夕方四時すぎ

日曜の夕方四時すぎ。郊外の駅前には、山から下りてきた人たちのザックが、いくつも並んでいた。ユナは公民館で開かれていた模型の即売会の帰りで、紙袋の中では、古いキットの箱がかさかさ鳴っている。

改札の外の屋根の下に、ひときわ背の高い男が立っていた。短く刈った髪に、大きなザック。知り合いの集まりで何度か顔を合わせたことのある、トウゴだった。会うたびに会釈はしてくれるが、声を聞いた覚えはほとんどない。

ここ二週間、ユナの作業机の上では、一体の機体が足首から下だけ灰色のまま止まっていた。手持ちの資料の写真をいくら並べても、足元の泥だけが決まらない。即売会に来たのも、半分は気晴らしだった。

ユナの目は、トウゴの顔より先に、足元で止まった。ごつい登山靴が、くるぶしの上まで泥にまみれている。つま先のほうは乾いて白っぽく、かかとのあたりはまだ黒く湿って光っていた。

ユナ

あ、トウゴさんだ。山帰り?

トウゴは小さくうなずいた。目は、ユナの肩の少し先、駅の時刻表のあたりに向いている。

トウゴ

……はい。

ユナ

そのブーツ、すごいね。ねえ、変なお願いしてもいい? 泥、ちょっとだけ近くで見せてほしいの。あたし、模型に汚しを入れてて、本物の山の泥って、ちゃんと見たことないんだよね。

トウゴの動きが、一瞬止まった。耳の先が赤くなる。それから、目を合わせないまま、屋根の柱に片手をついて、左足をゆっくり持ち上げた。靴底が、ユナのほうを向く。

トウゴ

……どうぞ。

ユナはしゃがみこんだ。紙袋を膝にのせたまま、顔を靴底に近づける。深い溝のひとつひとつに、泥がぎっしり詰まっていた。小石の粒、ちぎれた葉の切れ端、細い枝のかけら。溝の縁は乾いて灰色に浮き、奥のほうほど色が濃い。

ユナはそれきり黙った。筆を持っているときと同じ顔で、溝を端から一本ずつ目でたどる。そのあいだ、トウゴは柱に手をそえたまま片足で立ち、少しも揺れなかった。

ユナ

うわ、一色じゃない。縁が乾いて白っぽくなってて、溝の奥はまだ黒くて、で、ここだけ赤い。三色ある。

ユナ

あたしが塗ってた泥、ぜんぶ一色だった。茶色一本で、濃いとこと薄いとこを作ってただけ。本物って、乾き方で色が分かれるんだね。

ユナ

てか、ずっと片足なのに、ぜんぜんぶれてないよね。体幹どうなってんの。

トウゴは答えなかった。耳の赤みが、首のほうまで下りてきた。

ユナは紙袋からスマホを取り出しかけて、手を止めた。撮っていいかと聞く代わりに、トウゴの横顔を見上げる。トウゴは時刻表を見たまま、ほんのわずかにあごを引いた。ユナは靴底を三枚だけ撮った。

ユナ

この縁のとこ、明日になったら、もっと白っぽくなる?

トウゴ

……なります。

ユナ

じゃあ、乾いたとこのほうが古い泥ってことか。で、この赤いのは? 溝のいちばん奥に入ってるやつ。

トウゴは少し考えるように、靴底から目をそらしたまま黙った。

トウゴ

……沢の、下のほう。

それきりだった。ユナはしばらく、その一言を口の中で転がしていた。沢の下のほう。いちばん最初に踏んだ場所の泥が、いちばん奥に押しこまれて、その上に、あとから歩いた道の泥がかぶさっている。靴底の溝は、今日一日の地図を、下から順に重ねたものだった。

ユナ

そっか。最初に歩いたとこの泥が、いちばん奥に残ってるんだ。上にあるのが帰り道の泥。……これ、地層みたい。

トウゴは、ゆっくり足を下ろした。ユナが立ち上がると、トウゴは半歩だけ下がって、またザックの肩ひもを握り直した。

ユナ

ありがと。めっちゃ助かった。いまね、ロボットアニメの機体を、地面に立たせる情景を作ってるの。『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』って、火星の子たちが地球へ向かうところから始まるアニメで、その機体の足元。火星の土なんて誰も本物見たことないから、何色にしてもいいんだけど、だからこそ、本物の泥の重なり方は、ちゃんとまねしたくて。[1]

トウゴは何も言わなかった。ただ、ユナの紙袋からのぞいている箱の角を、ちらりと見た。それから、駅前の広場の隅を、あごで小さく示した。登山客が靴を洗うための水道が、石の囲いの中にある。

ユナ

あ、洗うんだ。ちょっとついてっていい? 落ちてくとこも見たい。

二人は並んで、広場を横切った。トウゴの歩幅は大きいのに、ユナが置いていかれることはなかった。少し進むたびに、トウゴの足がわずかにゆるむ。ユナはそれに気づいて、何も言わずに、少しだけ早足になった。

ユナ

今日はどこまで登ってきたの? 沢があるってことは、けっこう奥?

トウゴは立ち止まり、駅舎の屋根の向こうを指さした。夕方の光の中に、いくつも重なった尾根が青く沈んでいる。指の先は、そのいちばん奥の、まだ少しだけ日の当たっている稜線を差していた。ユナはその指と自分の足元のアスファルトを見比べて、あそこからここまで、と小さくつぶやいた。

水道の前で、トウゴはザックを下ろし、外ポケットから柄の短いブラシを取り出した。蛇口をひねる。流れる水に靴底を当て、つま先から、かかとへ。ブラシの動きは迷いがなく、同じところを二度こすらない。

ユナ

ブラシ、いつも持って歩いてるの?

トウゴは靴底から目を離さずに、こくりとうなずいた。

最初に落ちたのは、縁の乾いた灰色だった。粉のようにほどけて、水にさらわれていく。次に、溝の中ほどの黒い泥が、かたまりのまま押し出された。最後に、いちばん奥の赤い泥が、細い筋になって、石の囲いの底を流れていった。

ユナ

落ちる順番も、逆なんだ。最後についたのから先に取れて、最初についたのが最後まで残る。……やば、これ、いますぐ塗りたい。

ユナは、水に流れていく三つの色を、まばたきもせずに見ていた。トウゴはブラシを動かしながら、一度だけ横目でユナを見た。その顔に、ほんの少し、笑ったような気配があった。

ユナ

トウゴさんって、いつもこうやって、帰りに洗ってから電車に乗るの?

トウゴ

……泥、置いてくんで。

電車の床を汚さないためなのか、山のものを山の近くに返すためなのか。ユナには、どちらとも聞き返せなかった。たぶん、両方なんだろうと思った。トウゴは洗い終えたブーツを軽く振って、水気を切り、ブラシを元のポケットに戻した。きれいになった靴底には、溝の形だけが残っていた。

ユナ

あたし、泥だらけで帰ってくる機体ばっかり作ってるんだけどさ。こうやって、帰る前にちゃんと落としていくのも、なんかかっこいいなって思った。汚れるのも、落とすのも、どっちも山に行った人の手なんだね。

トウゴは返事をしなかった。蛇口をしっかり締め、ザックを背負い直し、改札のほうへ向き直る。ユナも紙袋を持ち直した。

ユナ

帰ったら、旦那にも見せよっと。あの人、プロのくせに、本物の山の泥は持ってないから。……あ、写真のほうね。

改札の前で、トウゴは足を止めた。ユナとは反対方向のホームの表示を見上げている。ユナが手を振ると、トウゴは目を合わせないまま、深く頭を下げた。

トウゴ

……足元、濡れてるんで。気をつけて。

ユナが下を見ると、さっきの水道からここまで、トウゴの靴の跡が、うっすらと濡れて続いていた。自分のスニーカーのつま先も、少しだけ湿っている。振り返ったときには、背の高い背中はもう、階段の上に消えかけていた。

帰りの電車で、ユナはスマホのメモに三行だけ書いた。縁は白、なかは黒、いちばん奥に赤。塗るのは奥から、つまり、赤から。最初に歩いた場所の色を、いちばん下に置く。

鉄血の子たちの機体も、たぶん、こうやって何日分もの地面を足の裏に重ねて帰ってきたんだろう。ユナはそう思いながら、窓の外の暗くなっていく線路を見ていた。一番下に置く色が決まると、その上に重ねる色は、もう迷わなかった。

その週の休み、作業机の上で、火星の機体の足首に、最初の赤が入った。会話と呼べるものは、ほんの数言だった。それでも、筆を持つユナの手には、あの靴底の溝が、ちゃんと残っていた。

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