あの作品に助けられた

一年遅れた春に『マクロスゼロ』の空を見た

レースに夢中で出席日数が足りず、高校2年をもう一度やることになった年。家にひとりの夜に観た空のアニメが、行き先をひとつ決めてくれました。聞き手は隣の家のタカシさん。庭の花ごしの話です。

こんな人に
まわりより一年遅れてしまった人へ。家でひとりの夜が長い人や、自分の得意なことに意味があるのか迷っている人にも。
ネタバレの範囲
ネタバレなし 『マクロスゼロ』の公式サイトの紹介にある設定と、作品全体の空の描き方まで。物語の展開や結末には触れません
話している人
ハヤテ × タカシ
主張の種類: 事実 作中の観察 根拠のある推測 解釈 好み
目次 全6節・約6分
  1. 二度目の高校2年
  2. 夜9時のリビング
  3. 機械が運転する時代
  4. 一時停止を押した空
  5. 行き先が一つ決まった
  6. いまの小さな習慣

夕方、庭の花に水をやっていたタカシさんが、垣根の向こうから声をかけました。「ハヤテくん、少し話を聞かせてもらってもいいですか。あの年のことを」。ハヤテは少し考えてから、垣根のそばまで来ました。

二度目の高校2年

タカシ

無理にとは言いません。ただ、あの春のハヤテくんは、いつもより窓の明かりが遅くまでついていた気がして。

ハヤテ

……気づかれていたんですね。高校2年を、もう一回やることになった春です。レースと練習を優先していたら、出席日数が足りなくなっていました。

タカシ

大会が続いていましたからね。

ハヤテ

言い訳にはできないです。勉強の計画もいつも後回しで、出席日数の計算まで後回しにしていました。早起きは得意なのに、そういうところだけ、ずっとだめなんです。

タカシ

私も、大事な計算ほど後回しにして、あとで困ったことが何度もあります。……聞いていて、耳が痛いです。

ハヤテ

連絡が来たのは、3月の終わりの夕方でした。ガレージでタイヤを磨いていて、スマートフォンを見たら、学校からの連絡が入っていて。その日は、タイヤを最後まで磨けませんでした。

タカシ

あの日、ガレージの明かりがいつもより早く消えたのを覚えています。声をかけようか迷って、結局、花に水をやるふりをしていました。

夜9時のリビング

タカシ

その春は、毎日どんなふうに過ごしていたんですか。

ハヤテ

学校から帰って、カート場に寄って、家に着くのが夜の8時くらいでした。両親はまだ帰っていなくて。台所で自分の分だけ温めて、9時ごろにリビングで食べていました。テレビをつけても、何を観ていいか分からなくて。

タカシ

広いリビングでしたね。

ハヤテ

はい。小さいころは、それがあまり気にならなかったんです。でもあの春は、時計の音がよく聞こえました。新しいクラスで、一つ下の学年の人たちに敬語で話しかけられて、どう返していいか分からなくて。その日のことを思い出していると、もう10時になっているんです。

タカシ

その時間は、私の家も、だいたい私ひとりでした。……いえ、私の話はいいんです。

ハヤテ

いえ。なんとなく知っていました。窓の明かりの消える時間が、うちと同じくらいだったので。

機械が運転する時代

ハヤテ

それと、そのころ、ちょっと考えてしまうことがあって。

タカシ

どんなことですか。

ハヤテ

車が自分で運転するようになる、というニュースをよく見かけていました。もしそうなったら、一年遅れてまで続けてきた僕の腕って、意味があるのかなって。……すみません、大げさですね。

タカシ

大げさではないと思います。私の仕事でも、機械に任せられることが増えて、自分は何をする人なのか、考える日があります。答えはまだ出ていませんけれど。

ハヤテ

タカシさんでも、そうなんですね。

ハヤテ

オンラインのレースゲームで、よく一緒に走るクロさんという人がいるんです。顔も声も知らないんですけど、その夜、チャットで同じことを打ち明けたら、いつもより長い返事をくれました。中身は、内緒です。

タカシ

それは、大事にしたほうがいい返事ですね。

一時停止を押した空

タカシ

その夜に、空のアニメを観たんでしたね。

ハヤテ

はい。何か空を飛ぶものが観たくて探していて、『マクロスゼロ』に行き着きました。全部で5話なので、夜の10時ごろから観はじめて、気づいたら日付が変わっていました。

『マクロスゼロ』は、公式サイトでは『超時空要塞マクロス』の前日譚を描いた全5話の作品として紹介されている。原作・監督・メカデザインは河森正治さん。主人公の工藤シンは「地球統合軍の戦闘機パイロット。」と書かれている。事実[1]

ハヤテ

戦闘機の話なんですけど、僕がずっと見ていたのは空でした。雲に入って、抜けて、真っ青になる。その一瞬を、何度も一時停止しました。リビングの電気を消して観ていたので、画面の青が部屋じゅうに広がって。

タカシ

それは、きれいだったでしょうね。

タカシ

私は戦闘機の作品と聞くと、つい昔の戦いの話に結びつけてしまって。……また歴史の話にしてしまうところでした。

ハヤテ

僕も、戦いの場面をかっこいいとは思っていないです。空は、本当は争うための場所じゃないと思うので。見ていたのは、ずっと空の色と、飛び方でした。

ハヤテ

はい。それと、主人公が島で、風を感じる人と出会うんです。機械を操る人と、風を読む人。観ているうちに、乗り手の腕は、機械の代わりをするためだけのものじゃないのかもしれない、と思えてきました。空の色を見て、風を感じて、どう飛ぶかを決める。そこには、人が座っていてほしいなって。解釈

行き先が一つ決まった

タカシ

それで、パイロットになると決めたんですか。

ハヤテ

はい、あの夜に。……観終わってから、ノートに「空」とだけ書きました。一年遅れたぶん、時間はあるので、その年にドローンの国家資格を取りました。空のことを、まず小さいところから知りたくて。

タカシ

一年遅れたことを、いまはどう思っていますか。

ハヤテ

……まだ少し恥ずかしいです。でも、あの一年がなかったら、空のことをちゃんと考えなかったと思います。カートだけを見ていたら、行き先はずっとサーキットのままでした。

タカシ

なるほど。……それでしたら、私が何か、教材の費用でも……いえ、また応援しすぎるところでした。

ハヤテ

ありがとうございます。でも、自分で飛びたいので。

タカシ

そうでした。ハヤテくんはいつもそう言いますね。

ハヤテ

最近は、朝の通学の電車で、目を閉じて頭の中のコースを一周しています。前はサーキットだけだったんですけど、いまは空のコースも少しだけ。離陸して、雲を抜けて、また降りてくる。まだ想像だけですけど。

タカシ

電車の中で目を閉じているハヤテくんを見かけたら、声をかけないようにしますね。

ハヤテ

それと、18歳になってすぐ、普通自動車の免許も取りました。教習所では、いちばん慎重な生徒だと言われました。

タカシ

それは、隣に住む者として、いちばんうれしい話です。……一つ下の学年の人たちとは、いまはどうですか。

ハヤテ

敬語は、まだ少し使われます。でも、カートの話をしたら、一人が観に来てくれることになりました。

いまの小さな習慣

タカシ

いまでも、あの作品は観ますか。

ハヤテ

全部は観ないです。ひとりの夜に、カートのタイヤを磨いて、それが終わったら、空の場面だけを少し観ます。それから目を閉じて、頭の中のコースを一周して寝ます。機械が運転する時代のことは、いまも考えます。でも、考える日があってもいいのかなと思うようになりました。

タカシ

窓の明かりが早く消える日が増えたのは、そのせいだったんですね。

ハヤテ

……見られていたんですね。タカシさんの家の明かりも、僕、見ています。お互いさまです。

一年遅れた春でも、空の色は変わらなかった。行き先が一つ決まれば、遅れた一年も助走になります。

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