あの作品に助けられた

標準語を覚えた夜と『日常』

高校を出て東京の飲食店で働きはじめた春。言葉の違いで笑われるのが悔しくて、丁寧な標準語を一から覚えた。疲れきった夜に観たのは、何も起きない一日を描くアニメでした。聞き手は、いつもは話を聞いてもらう側のタカシさん。

こんな人に
知らない街に出てきて、言葉や習慣の違いに肩身のせまい思いをしている人へ。疲れた夜に、笑う元気も残っていない人にも。
ネタバレの範囲
ネタバレなし アニメ『日常』の公式サイトの紹介にある設定と、作品全体の間の取り方まで。個別の話の中身には触れません
話している人
カオル × タカシ
主張の種類: 事実 作中の観察 根拠のある推測 解釈 好み
目次 全6節・約6分
  1. 待つ番の交代
  2. おおきにで笑われた日
  3. 夜十一時の六畳間
  4. 何も起きない一日のアニメ
  5. 間は言葉より先にある
  6. いまの小さな習慣

閉店の札を返したあと、カウンターの端にタカシさんがひとり残っていました。湯のみの番茶はもう冷めています。カオルが布巾を手に取ると、タカシさんは珍しく自分から口を開きました。「今日は、私が待つ番にしてもいいですか。カオルさんが話しはじめるまで」

待つ番の交代

カオル

……タカシさんにそう言われると、困りますね。いつもは私が待っているほうなので。

タカシ

ええ。いつも最後まで聞いていただいて、ひとつだけ質問を返してもらう。たまには逆をやってみたくなりました。急ぎませんから。

カオル

では、カウンターを磨きながらでもいいですか。手を動かしていないと、話せない性分で。……東京に出てきたころの話にします。高校を出た春です。

タカシ

どうぞ。私は、番茶のおかわりだけいただけたら。

おおきにで笑われた日

カオル

最初の職場は、駅の近くの小さな定食屋さんでした。ホールで注文を取って、お皿を運んで、夜は洗い場にも入る。体を動かすのは得意なので、仕事そのものはつらくなかったんです。

タカシ

では、何がつらかったんですか。

カオル

言葉です。お会計のとき、地元の癖で「おおきに」と言ったら、お客さんのテーブルがどっと笑って。悪気はないんですよ。「本物だ」って、むしろ喜ばれていたくらいで。それでも、その夜は布団の中で、ほんま悔しかってん……いえ、本当に悔しかったんです。

タカシ

笑われる、と、笑わせる、は違いますからね。

カオル

そうなんです。子どものころから、人を笑わせるのだけは得意だったので。勉強は兄と弟に任せて、食卓を笑わせるのが私の役目でした。自分で笑わせるのはうれしいのに、意図していないところで笑われると、急に足もとがぐらつくんです。

タカシ

都に出てきた人が言葉で苦労する話は、昔からよく聞きますね。……いえ、今日は私が聞く番でした。歴史の話はしまっておきます。

カオル

ふふ。続きはあとで聞かせてください。

夜十一時の六畳間

タカシ

標準語は、どうやって覚えたんですか。

カオル

閉店して、洗い場を片づけて、アパートに着くのが夜の十一時ごろでした。六畳の部屋で、ニュースの読み上げをまねして、声に出して繰り返すんです。「いらっしゃいませ」「かしこまりました」「少々お待ちください」。抑揚をひとつずつ直して。壁が薄いので、小声で。

タカシ

毎晩ですか。

カオル

毎晩です。負けず嫌いなので、やると決めたら止まらないんですよ。少年野球のころ、負けた日に家の前の壁にボールを投げ続けたのと、同じことをしていました。ボールが言葉に変わっただけで。

カオル

ただ、そうしているうちに、だんだん笑わなくなっていったんです。お店では言葉を間違えないように気を張って、部屋では練習。祖母から「ちゃんと食べてるんか」と電話が来ても、短く切ってしまって。あのころの私は、話す前に一回、頭の中で訳していました。だから返事がいつも半拍遅れる。

タカシ

半拍遅れる。……職場での私も、そうかもしれません。言ってもいいことかどうか、一度確かめてから口を開くので。

カオル

ええ。タカシさんがこの店に初めて来た夜も、そういう間でした。……あ、私が質問する番ではなかったですね。

何も起きない一日のアニメ

タカシ

そこで、アニメに出会ったんですね。

カオル

はい。六月の、雨の続いた週でした。休みの前の晩に、駅前のレンタル店で『日常』を借りてきたんです。疲れていたので、物語を追う元気はなかった。何も起きない話がいい、と思って選びました。

京都アニメーションの作品ページでは、『日常』は、時定高校を中心に「町中に広がるちょっと不思議でビミョーにシュールな「日常」」が始まる物語として紹介されている。研究所の場面については「今日も一日あったかぽかぽかの、のんびりとした一日が過ぎて行くのでした。」とも書かれている。原作・構成協力はあらゐけいいちさん、監督は石原立也さん、アニメーション制作は京都アニメーション。事実[1]

カオル

ところが、何も起きないどころではなくて。ちょっとしたことが、とんでもなく大げさに描かれるんです。気づいたら、夜中の一時に、六畳間で声を出して笑っていました。東京に出てきて、初めてです。笑いすぎて、隣の部屋から壁をこつんとやられました。

タカシ

それは……なんと言いますか、よかったですね。壁は気の毒でしたが。

カオル

なんでやねん、と画面に言いかけて……いえ、そこは本当にそう言いました。部屋でひとりなら、誰にも笑われませんから。

間は言葉より先にある

タカシ

どこが、いちばん効いたんでしょう。

カオル

間です。このアニメは、何かが起きる直前の、静かな一拍がとても長いんです。それから一気に大げさになる。観ているうちに気づきました。笑いを生んでいるのは、関西の言葉そのものじゃなくて、この間なんだって。間なら、標準語でも持っていける。解釈

カオル

それと、登場する人たちが、自分のちょっとした失敗をものすごく真剣に受け止めるんです。はたから見るとおかしいのに、本人は必死。私が「おおきに」で笑われた夜も、外から見たら、きっとこのくらいの大きさの出来事だったんだろうな、と。そう思えたら、肩の力が抜けました。解釈

タカシ

自分の一大事を、少し離れた席から眺める。歴史の本を読むときの……いえ、これは本当にしまっておきます。

カオル

しまわんでええのに。……失礼しました、しまわなくてもいいんですよ。それからは、標準語の練習のやり方を変えました。言葉を直すより先に、間を覚える。お客さんが話し終わるのを待って、一拍置いてから短く返す。そうしたら、返事が半拍遅れるのが、気にならなくなったんです。むしろ、待ってもらえる間になった。

タカシ

それが、いまの、話しはじめるまで待つ、につながっているわけですね。

カオル

そうかもしれません。……タカシさん、ひとつだけ質問を返すの、上手ですね。

いまの小さな習慣

タカシ

いまでも、観ることはありますか。

カオル

出勤の前に、一話だけ観ます。昼の部屋で、着替える前に。そうすると、その夜の会話のテンポが少しよくなる気がするんです。それから、店を閉めたあと、カウンターを磨きながら、その日いちばん笑ったお客さんの話をひとつだけ思い出す。大げさに思い出すのがこつです。好み

タカシ

今夜は、どの話になりそうですか。

カオル

決まっています。いつも待っている人に、今日は待たれた話です。……祖母に話したら、また「その人は、ええ人なんか」と聞かれそうなので、そこは黙っておきますね。

タカシ

それは、私も黙っておきます。番茶、ごちそうさまでした。

言葉は覚え直せるし、間は言葉より先にある。笑われた夜のことも、少し離れて眺めたら、ちょうどいい大きさの出来事になります。

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