十月の水曜。日付が変わるころ、隣の家の物置の屋根に、白い猫が座っていた。首元の星のチャームが、街灯を一つだけ拾っている。部屋の中でモニターの明かりが揺れて、窓が指二本ぶんだけ開いた。
テンさん、こんばんは。今夜は鰹の、いちばん柔らかいところをご用意しました。窓の桟に置いておきます。
くるしゅうないにゃ。……うん、今日のは顔がいいにゃ。
スイは今夜、早く寝たにゃ。寝顔を一回見てから来たにゃ。
クロの膝で丸くなっていた黒い猫が、黙って床に降りた。テンが来る夜は、いつもそうする。窓の内側にちょこんと座って、外の白い猫をじっと見ている。
今夜は、テンが話す番にゃ。クロ、黒猫の話をしてもいいかにゃ。
ぜひ伺いたいです。どなたのお話でしょうか。
ジジにゃ。『魔女の宅急便』の。
最後のほうまで話したいにゃ。クロは、ネタバレはうるさい人にゃ?
あの映画は、最後まで観ています。ですので、どこまで伺っても構いません。今夜は結末まで、テンさんの言葉で聞かせてください。
よろしいにゃ。じゃあ、入口から。
魔女の女の子キキが、十三歳の夜にひとり立ちの旅に出るにゃ。そのとき一緒に家を出るのが、黒猫のジジにゃ。[1]
テンは、スイの部屋のテレビでも観たにゃ。テレビの上に寝そべって、しっぽを画面にかけながら観たにゃ。映画は、テンがスイの部屋に来るずっと前からあるにゃ。
1989年7月29日公開。スタジオジブリ制作、原作は角野栄子の児童文学
ジジは男の子で、年はキキと同じ十三歳。自分のことは、ぼくって言うにゃ。[1]
キキと同い年なのですね。相棒というより、同じ学年の友だちに近い距離なのかもしれません。
テンが最初に好きになったのは、ジジの口の悪さにゃ。
着いたばかりのころ、キキが何か言うたびに、ななめから返すにゃ。海を見てはしゃいだら、ただの水たまりあつかい。街に感心したら、大きすぎるって文句にゃ。[1]
旅のはじめに、隣で水を差す役ですね。浮かれている人の横に、冷静な一言を置いておく。
そうにゃ。でも、キキが落ちこむと、急に気をつかうにゃ。キキのやることをたしなめたり、落ちついて言い当てたりもするにゃ。小さいのに、お目付け役にゃ。[1]
生意気なのに、肝心なときは横にいる。テンは、そういうのに弱いにゃ。
俺は、仕事の連絡で、最初に軽口を言う人ほど、障害のときに静かになるのを何度か見ています。ジジも、そちらの側の猫に見えます。
俺にも、お目付け役のような人がいます。返信の速さだけで、寝ていない日を見抜かれます。
……その人の話は、今夜はいいにゃ。
承知しました。理由は伺いません。
それと、ここが大事にゃ。ジジは、しゃべれる猫じゃないにゃ。
……と、おっしゃいますと。
話せるのは、キキの魔法のほうにゃ。キキが魔法の力で、ジジと話してるにゃ。[1]
回線が、キキの側にあるということですね。ゲームでいうと、相棒の台詞の窓を開いているのは、プレイヤーのほうだった、という仕組みです。……それは、知りませんでした。
原作の本だと、もっとすごいにゃ。女の子が生まれた魔女の家では、その子と誕生日のそろった猫を見つけてきて、ずっと隣で暮らす相棒にする。そういう習わしが語られてるにゃ。[1]
生まれた日から、隣が決まってるにゃ。テンは、それを聞いたとき、しっぽが一回まるまったにゃ。
選んだのではなく、最初から隣にいる。俺はどちらかというと、あとから選んだ相棒の話ばかり好きになってきました。だから、少しうらやましい決まりです。
テンは鰹を一切れ食べて、前足で口のまわりを拭いた。窓の内側の黒い猫は、まだ動かない。
ジジは、映画ができる前から働いてたにゃ。
前から、ですか。
題名の宅急便は、運送の会社の登録商標だったにゃ。その会社ははじめ、いい顔をしなかったにゃ。でも、会社の印の黒猫が、たまたま物語に出てくる。それで少しずつ乗り気になって、スポンサーを引き受けたにゃ。[1]
黒猫は、話の外でもひと仕事してたにゃ。テンは、それがちょっと誇らしいにゃ。猫として。
交渉の席に、顔を出さずに座っていた黒猫、ということになりますね。……他人とは思えません。
最初に応募した役と、決まった役が違う。採用の面接でも、ときどきあります。その人の声を、別の席で聞いてみたくなるんです。
パン屋といえば、おやじさんも好きにゃ。パンを焼くのを見てるジジに、トレイをひょいと出して、得意そうに目をやるにゃ。ウインクまでするにゃ。[1]
無口な人が、猫にだけ見せる顔にゃ。テンは、ああいう人のいる台所の窓が好きにゃ。
無口な人が猫にだけ見せる顔は、たぶん、この部屋にもあります。テンさんにはお見せしていると思います。
もう一つだけ、小さいのにゃ。字幕をつけて観ると、ジジの台詞は緑の字で出るにゃ。キキは黄色にゃ。[1]
緑は、草むらの色にゃ。黒い猫がいちばん落ちつく色にゃ。ジジに似合ってるにゃ。
話し手ごとに字の色を分けるのは、チャットで名前に色をつけるのと同じ仕組みですね。色を見れば、誰が言ったか一目で分かります。
知ってるにゃ。……ここから先は、中身を話すにゃ。テンがいちばん好きな場面にゃ。
中盤まで中盤の展開(前半の山場)押すと開きます
テン「キキのはじめての仕事は、鳥かごに入った黒猫のぬいぐるみを、男の子の誕生日に届けることにゃ。見た目がジジとうりふたつにゃ。でもキキは、飛んでる途中の突風で、それを森に落としてしまうにゃ」
テン「約束の時間は迫ってるにゃ。キキは考えたすえに、ジジを籠に入れて、ぬいぐるみのふりをさせて届けるにゃ。ジジは犬が苦手なのに、届け先には大きな犬がいるにゃ。しかも男の子は、ぬいぐるみだと思って、ジジを手荒にあつかうにゃ」
テン「そこにいるのが、ジェフにゃ。年をとった、大きな雄の犬。籠の中でぬいぐるみになりきってるジジを、本物の猫だと見抜くにゃ。それで横に寄り添って、ずっと見守っててくれるにゃ。最後はジジを助け出す手伝いまでしてくれるにゃ。本当の名前は、ジェファーソンにゃ」
テン「苦手な相手が、いちばん近くで見守ってくれてた。テンはここで、毎回しっぽが太くなるにゃ。あの大きな体、垂れた耳、年をとった毛並みの、もっさりした重さ……顔をうずめたら、きっと日なたのにおいがするにゃ。あの犬のおなかに一晩もぐりこめたら、テンは何も言わずに朝まで眠れるにゃ……顔をうずめたいにゃ……!」
テン「キキはそのあいだ、森で落としたぬいぐるみを探して、拾ってくれた人の小屋の掃除を引き受けて、直してもらって、届け先に戻ってジジを救い出すにゃ」[1]
テンさん、窓の桟から落ちないでください。
……落ちてないにゃ。前足がちょっと出ただけにゃ。
ひとつ伺ってもよろしいでしょうか。テンさんは、犬はお嫌いではないのですか。
テンは平気にゃ。大きいのは、むしろ好きにゃ。テンが苦手なのは、掃除機の音にゃ。
掃除機は、この部屋ではほとんど出番がありません。……ご安心ください、という意味で申し上げました。
畳んだところで、俺は犬のほうの立ち位置が気になりました。何も言わずにそばにいる役は、物語の中で、だいたい最後まで名前を呼ばれません。あの犬には、ちゃんと名前があった。
そうにゃ。見守る者にも、名前はあるにゃ。……もう一匹、どうしても話したい猫がいるにゃ。
中盤まで中盤の展開(その少しあと)押すと開きます
テン「キキのはじめてのお客さんは、パン屋の近くに住んでるデザイナーのマキさんにゃ。そのマキさんが飼ってるのが、白い雌猫のリリーにゃ」
テン「ジジは最初、リリーのことを、すましてるって理由で嫌ってたにゃ。ジジは猫にもきびしいにゃ。先輩の魔女が連れてた黒猫のことも、ひと目で嫌がってたにゃ」
テン「でも、だんだん仲よくなるにゃ。おたがいに好き合うところまで行くにゃ」
テン「……白い猫にゃ。ジジは見る目があるにゃ。テンは何も言ってないにゃ。言ってないけど、白い猫を選ぶ黒猫は、話が分かる猫にゃ」[1]
草。……失礼しました。テンさんの毛並みのお話を、遮るつもりはありませんでした。
いいにゃ。笑っていいところにゃ。
風が少し出てきた。テンは耳を一度だけ外へ向け、すぐにクロの窓へ戻した。窓の内側の黒い猫が、そこで初めて小さくあくびをした。
ここからは、最後のほうの話にゃ。テンが、いちばん長く考えた場面にゃ。
結末・正体結末押すと開きます
テン「映画の後半、ある日キキは、ジジの言うことが聞き取れなくなってるのに気がつくにゃ。同じころ、空もうまく飛べなくなるにゃ」
テン「最後のほうで、ジジが鳴き声で話しかけて、キキがほほえんで返す場面があるにゃ。でも、言葉が戻ったかどうかは、はっきり描かれないにゃ」
テン「監督さんはあとで、キキの魔法はもっと深いところへ行った、何かを手に入れたら何かをなくすものだ、という意味のことを話してるにゃ。だから、気持ちは通じても、言葉のやりとりはもうできなくなった、と受け取られてるにゃ」
テン「原作の本では、キキとジジは最後まで話せるにゃ。映画だけが、そこを選び直したにゃ」[1]
俺は、あそこは喪失の場面として観ていました。相棒の台詞の窓が、もう開かない。いちばん近くにいた声が、鳴き声に戻ってしまう。正直に言うと、寂しかったです。
テンは反対にゃ。
言葉がなくなっても、ジジはキキの横を離れてないにゃ。鳴いて話しかけて、キキは笑って返す。それで足りてるにゃ。それに、ジジにはジジの暮らしが始まってたにゃ。
ジジの暮らし、ですか。
結末・正体結末(エンドロール)押すと開きます
テン「エンドロールの絵の中で、ジジとリリーのあいだに、子猫が四匹生まれてるにゃ。三匹はリリー似の白、一匹はジジ似にゃ」
テン「キキと話せなくなったころ、ジジはジジで、自分の家族のほうへ歩きはじめてたにゃ。相棒の言葉がなくなったのは、さみしい話じゃなくて、それぞれの暮らしの音が増えた話にゃ。テンには、そう聞こえるにゃ」
テン「それでも、ジジはキキのそばにいるにゃ。家族ができても、相棒はやめないにゃ。テンは、そこで毎回、目を閉じる前に一回だけ、画面の顔を見るにゃ」[1]
……そう聞くと、言葉が届かなくなったのではなく、言葉のいらない距離に着いた、と読めますね。俺の読みは、片方の窓からしか見ていなかったようです。
半分合ってるにゃ。もう半分は、四匹の子猫の毛並みが最高、という話にゃ。
記録しておきます。テンさんの読みと、毛並みの評価の両方を。
テンは最後の一切れを食べ終え、窓の桟に残った匂いまで丁寧に嗅いだ。それから、窓の内側の黒い猫と、しばらく目を合わせた。どちらも鳴かなかった。
クロの猫も、しゃべらないにゃ。
はい。ずっと何も言いません。テンさんが来る夜は、黙って膝から降ります。俺は、それで十分だと思っています。
それでいいにゃ。言葉より先に、膝を空けるのが猫の礼儀にゃ。
ジジの話をすると、テンはしっぽが落ちつかないにゃ。今夜はこれで帰るにゃ。スイの寝顔を、もう一回見ないといけないにゃ。
お気をつけて。来週も、ご用意してお待ちしています。
クロも、窓を閉めたら目を閉じるにゃ。来週は、ジェフの毛並みの話から始めるにゃ。
白い猫は物置の屋根の端まで歩いて、一度だけ振り返った。窓が閉まる。モニターの明かりが一つ消えて、部屋の中で、黒い猫がクロの膝に戻った。