カウンターは七席。雨の水曜は、客が少ない。カオルは磨き終えたグラスを照明にかざし、ドアベルの音に顔を上げた。
いらっしゃいませ、ミサさん。お足元の悪いなか、ありがとうございます。
雨の日の髪、ほんと最悪。……いつものを、軽めで。
ミサはスツールに浅く腰かけ、背筋を伸ばした。その姿勢のまま、濡れた前髪を指先で整える。
その背筋、やっぱりきれいね。何度見ても。
恐れ入ります。母が厳しかったものですから。
厳しい母親に育てられた子は、背中で分かるのよ。……うちの子は、背中が丸いの。誰に似たのかしら。
ハルさんですね。この前の昼に、バッティングセンターでご一緒しました。
聞いた。空振りばっかりだったって。……でも、楽しそうに話してた。ありがとう。
ハルの話になると、ミサの声はいつも一段やわらかくなる。カオルは何も言わずに、ミサの前へグラスを置いた。
いいスイングをされる方ですよ。当たらないだけで。
それ、褒めてる?
褒めております。当たらないうちから思い切り振れる人は、強いですから。
カオル、今日、目の下が少しむくんでる。
お分かりになりますか。昨晩、延長戦を最後まで観てしまいまして。
内緒よ。冷やしたスプーンを、目の下に三十秒。私、ドラマの最終回の前の夜は、いつもそれ。
ミサさんでも、むくまれるんですか。
むくむわよ。最終回の前の夜は、眠れないんだから。
冷蔵庫に、スプーンを一本入れておきます。
ドアベルがもう一度鳴った。大きな体に、雨粒の光るカラフルなシャツ。スケッチブックを脇に抱えたルカーノだった。
Buona sera! カオルさん、今夜も美しい。雨の夜に灯る、一本の蝋燭みたいだ。
ありがとうございます。溶けてしまわないように、気をつけます。
ああ、その返し! それが聞きたくて来たんだ。……おや、ミサさん。今日もお美しい。
はいはい。で、締め切りは?
衣装は来週の木曜。試着は月曜でどう?
日曜。月曜はレッスン。
……日曜で。La vita è bella.
ルカーノはスケッチブックを開き、カウンターの向こうのカオルを描きはじめた。顔ではなく、ボトルに伸ばした腕と、背中の線だけを。
描いていただくほどのものでは。
背中がいいんだ。シャツの肩の縫い目が、背筋の上にまっすぐ乗ってる。こういう人に、服はいちばんよく似合う。
それは本当。私が若いころのあなたに、いちばん最初に叩きこんだのも、それ。
叩きこまれました。いまでも撮影の現場に行くと、ミサさんの声で「顎!」って聞こえる。
顎、いまも少し前に出てるわよ。
ルカーノは無言で顎を引いた。カオルがグラスを拭く手を、ほんの一瞬だけ止めた。笑いをこらえるときの止め方だった。
ミサさん、いまからアニメの話をしてもいい?
だめ。……冗談よ。でも私、アニメは苦手なの。どこで泣けばいいのか、分からないのよ。
ミサさんが最初に夢中になったドラマは、何だったんですか。
冬のソナタ。母が夢中になってね、付き合いで隣に座ったら、私のほうが抜け出せなくなったの。初恋って、何年たっても終わらないのよ。少なくとも、ドラマの中では。
現実では?
現実の初恋は、終わらせないと次の仕事が来ないの。
……肝に銘じます。
あなたは銘じなくていいの。
美大受験。
描いて、行き詰まって、また描く。才能の話に見えて、ほとんどが練習の話なんだ。僕は観ながら、何度か画材屋に走りたくなった。……しまったままの絵のことも、少しだけ思い出す。
ルカーノは一瞬だけ遠くを見て、すぐにいつもの顔で笑った。
……ま、それでもいいさ。
練習の話なら、私は毎日見てるのよ。ダンスの教室で。……ふうん。
ミサさん。もしよろしければ、私からも一つだけ、ご提案してよろしいですか。お酒ではなく、作品のほうで。
どうぞ。バーテンダーのお勧めは断らない主義なの。
後宮?
はい。
後宮って、お妃さまたちの? 嫉妬と、毒と、身分違いと?
薬のお話ですので、毒は、しっかり出てまいります。
早く言いなさいよ。韓国の時代劇、何本観てきたと思ってるの。
僕のときと顔が全然違う!
あなたのは真面目すぎるの。美大のお話は、私が元気な日に観る。後宮は、今夜観る。
衣装が、きっときれいだよ。宮廷のお話は、袖の色と帯の結び方だけで、その人の立場が分かることがある。僕はたぶん、二回目は衣装しか観ない。
それは私も観たいところ。……あなた、たまにはいいこと言うのね。
たまには、が余計だ。
……ま、それでもいいさ。順番があるだけで、どっちも観てくれるなら。
カオルさん自身は? ミサさんに、じゃなくて、カオルさんがいちばん好きなもの。
私ですか。……日常、というアニメが好きです。何も起きない一日を、全力で大げさに描くお話で。
何も起きないの? 私がいちばん苦手なやつ。
はい。ですから、ミサさんにはお勧めいたしません。強いお酒のあとの、お水のようなものです。仕事の前に一話観ると、会話の間がよくなる気がいたしまして。
間! カオルさんの返しの間は、そこから来てるのか。
半分は。もう半分は、母の生け花の稽古です。花を一本置いて、何もしない時間がありまして。
そう言いながら、カオルはボトルを一本、軽く宙へ放った。くるりと一回転したボトルが、何事もなかったように手の中へ戻る。グラスに注がれる音だけが、店に残った。
Bellissimo……。
今の手首、どこで覚えたの。
子どものころの、ピッチングです。
そういえば、このテレビ、昼はずっと野球なんだって?
はい。昼のあいだは、ずっと。家族全員が、同じチームを応援しておりまして。負けた日の夜は、母からの電話が短くなります。
昼のあなたは、どんな感じなの。
……声が、三割ほど大きいらしいです。
ハルが言ってたのと同じ。バッティングセンターで、いちばん声が大きかったって。
それは、お恥ずかしい。
零時前。ほかの客が帰ったあと、カウンターの端でカオルのスマホが震えた。画面を見て、カオルは小さく息を吐いた。
……失礼いたします。少しだけ。
電話の向こうの声は聞こえない。カウンターに背を向けたカオルの返事だけが、低く、関西の言葉になっていた。
うん、元気やって。……おらへんて。……うん、分かってる。おばあちゃんも、早よ寝てな。
おばあさま?
……はい。いい人はおらんのか、と。
結婚は宿題じゃないわよ。
出さなくても、誰にも怒られないの。出したくなったら、出せばいい。それだけ。
カオルは少し黙ってから、入口の札を裏返した。振り返ったときには、肩の力が一段抜けていた。
ほな、もう一杯だけ。私のおごりで。
……その声のほうが、僕は好きだな。
褒めても何も出えへんよ。……チェイサーくらいは出すけど。
私には、何か出るのかしら。
ミサさんには、薬屋の一話を、いまここで流すいうのはどう? この店のテレビ、野球しか映したことないんやけど。
いいわね。ルカーノ、締め切りの話はそのあとで。
日曜で決まったはずでは?
はいはい。
野球中継しか映したことのない小さなテレビに、初めてアニメが映った。三つのグラスの氷が、同じ間で鳴った。