日常

アニメが苦手な人に、バーテンダーは何を出すか

ネタバレの範囲 ネタバレなし どの作品も、紹介文で分かる範囲まで。物語の展開と結末には触れません

雨の水曜、カオルの店。アニメは苦手と言い切るミサに、ルカーノは真面目な一本を勧めて空振りする。カオルがカクテルを選ぶように選んだ一本には、ミサの目の色が変わった。閉店の札を裏返したあと、カオルの言葉も少しだけ変わる。

こんな人に
アニメが少し苦手な人と、その人に一本だけ勧めてみたい人へ。
話している人
カオル × ミサ × ルカーノ
バー カオルの店(カウンター七席の小さなバー) 雨の水曜、夜十時すぎ

カウンターは七席。雨の水曜は、客が少ない。カオルは磨き終えたグラスを照明にかざし、ドアベルの音に顔を上げた。

カオル

いらっしゃいませ、ミサさん。お足元の悪いなか、ありがとうございます。

ミサ

雨の日の髪、ほんと最悪。……いつものを、軽めで。

ミサはスツールに浅く腰かけ、背筋を伸ばした。その姿勢のまま、濡れた前髪を指先で整える。

ミサ

その背筋、やっぱりきれいね。何度見ても。

カオル

恐れ入ります。母が厳しかったものですから。

ミサ

厳しい母親に育てられた子は、背中で分かるのよ。……うちの子は、背中が丸いの。誰に似たのかしら。

カオル

ハルさんですね。この前の昼に、バッティングセンターでご一緒しました。

ミサ

聞いた。空振りばっかりだったって。……でも、楽しそうに話してた。ありがとう。

ハルの話になると、ミサの声はいつも一段やわらかくなる。カオルは何も言わずに、ミサの前へグラスを置いた。

カオル

いいスイングをされる方ですよ。当たらないだけで。

ミサ

それ、褒めてる?

カオル

褒めております。当たらないうちから思い切り振れる人は、強いですから。

ミサ

カオル、今日、目の下が少しむくんでる。

カオル

お分かりになりますか。昨晩、延長戦を最後まで観てしまいまして。

ミサ

内緒よ。冷やしたスプーンを、目の下に三十秒。私、ドラマの最終回の前の夜は、いつもそれ。

カオル

ミサさんでも、むくまれるんですか。

ミサ

むくむわよ。最終回の前の夜は、眠れないんだから。

カオル

冷蔵庫に、スプーンを一本入れておきます。

ドアベルがもう一度鳴った。大きな体に、雨粒の光るカラフルなシャツ。スケッチブックを脇に抱えたルカーノだった。

ルカーノ

Buona sera! カオルさん、今夜も美しい。雨の夜に灯る、一本の蝋燭みたいだ。

カオル

ありがとうございます。溶けてしまわないように、気をつけます。

ルカーノ

ああ、その返し! それが聞きたくて来たんだ。……おや、ミサさん。今日もお美しい。

ミサ

はいはい。で、締め切りは?

ルカーノ

衣装は来週の木曜。試着は月曜でどう?

ミサ

日曜。月曜はレッスン。

ルカーノ

……日曜で。La vita è bella.

ルカーノはスケッチブックを開き、カウンターの向こうのカオルを描きはじめた。顔ではなく、ボトルに伸ばした腕と、背中の線だけを。

カオル

描いていただくほどのものでは。

ルカーノ

背中がいいんだ。シャツの肩の縫い目が、背筋の上にまっすぐ乗ってる。こういう人に、服はいちばんよく似合う。

ミサ

それは本当。私が若いころのあなたに、いちばん最初に叩きこんだのも、それ。

ルカーノ

叩きこまれました。いまでも撮影の現場に行くと、ミサさんの声で「顎!」って聞こえる。

ミサ

顎、いまも少し前に出てるわよ。

ルカーノは無言で顎を引いた。カオルがグラスを拭く手を、ほんの一瞬だけ止めた。笑いをこらえるときの止め方だった。

ルカーノ

ミサさん、いまからアニメの話をしてもいい?

ミサ

だめ。……冗談よ。でも私、アニメは苦手なの。どこで泣けばいいのか、分からないのよ。

カオル

ミサさんが最初に夢中になったドラマは、何だったんですか。

ミサ

冬のソナタ。母が夢中になってね、付き合いで隣に座ったら、私のほうが抜け出せなくなったの。初恋って、何年たっても終わらないのよ。少なくとも、ドラマの中では。

ルカーノ

現実では?

ミサ

現実の初恋は、終わらせないと次の仕事が来ないの。

カオル

……肝に銘じます。

ミサ

あなたは銘じなくていいの。

ルカーノ

一本だけ勧めさせて。ブルーピリオド。何をしても手応えのない毎日を送っていた高校生が、美術室で見た一枚の絵に惹かれて、本気で美大の受験を目指す話。[1]

ミサ

美大受験。

ルカーノ

描いて、行き詰まって、また描く。才能の話に見えて、ほとんどが練習の話なんだ。僕は観ながら、何度か画材屋に走りたくなった。……しまったままの絵のことも、少しだけ思い出す。

ルカーノは一瞬だけ遠くを見て、すぐにいつもの顔で笑った。

ルカーノ

……ま、それでもいいさ。

ミサ

練習の話なら、私は毎日見てるのよ。ダンスの教室で。……ふうん。

カオル

ミサさん。もしよろしければ、私からも一つだけ、ご提案してよろしいですか。お酒ではなく、作品のほうで。

ミサ

どうぞ。バーテンダーのお勧めは断らない主義なの。

カオル

ミサさんは、恋のお話も、愛と憎しみの入り乱れるお話もお好きでしたね。それでしたら、薬屋のひとりごとはいかがでしょう。架空の中華風の帝国が舞台で、後宮に勤める女の子が、薬の知識で、宮中で起きる事件の謎を解いていくお話です。[2]

ミサ

後宮?

カオル

はい。

ミサ

後宮って、お妃さまたちの? 嫉妬と、毒と、身分違いと?

カオル

薬のお話ですので、毒は、しっかり出てまいります。

ミサ

早く言いなさいよ。韓国の時代劇、何本観てきたと思ってるの。

ルカーノ

僕のときと顔が全然違う!

ミサ

あなたのは真面目すぎるの。美大のお話は、私が元気な日に観る。後宮は、今夜観る。

ルカーノ

衣装が、きっときれいだよ。宮廷のお話は、袖の色と帯の結び方だけで、その人の立場が分かることがある。僕はたぶん、二回目は衣装しか観ない。

ミサ

それは私も観たいところ。……あなた、たまにはいいこと言うのね。

ルカーノ

たまには、が余計だ。

ルカーノ

……ま、それでもいいさ。順番があるだけで、どっちも観てくれるなら。

ルカーノ

カオルさん自身は? ミサさんに、じゃなくて、カオルさんがいちばん好きなもの。

カオル

私ですか。……日常、というアニメが好きです。何も起きない一日を、全力で大げさに描くお話で。

ミサ

何も起きないの? 私がいちばん苦手なやつ。

カオル

はい。ですから、ミサさんにはお勧めいたしません。強いお酒のあとの、お水のようなものです。仕事の前に一話観ると、会話の間がよくなる気がいたしまして。

ルカーノ

間! カオルさんの返しの間は、そこから来てるのか。

カオル

半分は。もう半分は、母の生け花の稽古です。花を一本置いて、何もしない時間がありまして。

そう言いながら、カオルはボトルを一本、軽く宙へ放った。くるりと一回転したボトルが、何事もなかったように手の中へ戻る。グラスに注がれる音だけが、店に残った。

ルカーノ

Bellissimo……。

ミサ

今の手首、どこで覚えたの。

カオル

子どものころの、ピッチングです。

ルカーノ

そういえば、このテレビ、昼はずっと野球なんだって?

カオル

はい。昼のあいだは、ずっと。家族全員が、同じチームを応援しておりまして。負けた日の夜は、母からの電話が短くなります。

ミサ

昼のあなたは、どんな感じなの。

カオル

……声が、三割ほど大きいらしいです。

ミサ

ハルが言ってたのと同じ。バッティングセンターで、いちばん声が大きかったって。

カオル

それは、お恥ずかしい。

零時前。ほかの客が帰ったあと、カウンターの端でカオルのスマホが震えた。画面を見て、カオルは小さく息を吐いた。

カオル

……失礼いたします。少しだけ。

電話の向こうの声は聞こえない。カウンターに背を向けたカオルの返事だけが、低く、関西の言葉になっていた。

カオル

うん、元気やって。……おらへんて。……うん、分かってる。おばあちゃんも、早よ寝てな。

ミサ

おばあさま?

カオル

……はい。いい人はおらんのか、と。

ミサ

結婚は宿題じゃないわよ。

ミサ

出さなくても、誰にも怒られないの。出したくなったら、出せばいい。それだけ。

カオルは少し黙ってから、入口の札を裏返した。振り返ったときには、肩の力が一段抜けていた。

カオル

ほな、もう一杯だけ。私のおごりで。

ルカーノ

……その声のほうが、僕は好きだな。

カオル

褒めても何も出えへんよ。……チェイサーくらいは出すけど。

ミサ

私には、何か出るのかしら。

カオル

ミサさんには、薬屋の一話を、いまここで流すいうのはどう? この店のテレビ、野球しか映したことないんやけど。

ミサ

いいわね。ルカーノ、締め切りの話はそのあとで。

ルカーノ

日曜で決まったはずでは?

ミサ

はいはい。

野球中継しか映したことのない小さなテレビに、初めてアニメが映った。三つのグラスの氷が、同じ間で鳴った。

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