あの作品に助けられた

名前を覚えられない町で『ワンパンマン』を読んだ

十二歳になる春、母と二人で知らない町へ移った。道の名前がいつまでも頭に入らなかったころ、支えになったのは、町をアルファベット一文字で呼ぶ漫画だった。昔の隣の家の子、ハヤテに聞かれて、ミナトが話す。

こんな人に
引っ越した先の町になじめず、道の名前ひとつ覚えられないまま季節をやりすごした覚えがある人へ。
ネタバレの範囲
ネタバレなし 『ワンパンマン』の始まりの設定(主人公の強さと、物語の舞台になる町の呼び方)まで
話している人
ミナト × ハヤテ
主張の種類: 事実 作中の観察 根拠のある推測 解釈 好み
目次 全6節・約6分
  1. 十二歳になる春
  2. 角が覚えられない
  3. 台所で声が出た
  4. アルファベットの町
  5. 一日に一本ずつ
  6. いまの部屋の前はA

日曜の午後三時すぎ。海沿いの道の駅のベンチで、ミナトは缶のお茶を二本買って待っていた。二輪で海まで走ってきたハヤテが、ヘルメットを脇に抱えて隣に座る。子どものころ、庭の花ごしに遊んだ四つ下の子だ。お茶を一本受け取ると、ハヤテは少し間を置いてから切り出した。

十二歳になる春

ハヤテ

ミナトさん、一つ聞いてもいいですか。引っ越したあと、どうしてたのか。

ミナト

急だな。

ハヤテ

来年の春から、知らない町に通うことになるかもしれなくて。……ミナトさんがいなくなった日のこと、少しだけ覚えてるんです。垣根の向こうが、急に静かになったので。

ミナト

お前、まだ小さかったろ。

ハヤテ

七つでした。

ミナト

俺は、十二歳になる春。母さんと二人で、地方の町に移った。小学校は最後の一年だけ、知らない学校。好み

ミナト

教室は、もう形ができあがってた。誰とももめなかったし、誰とも近くならなかった。そっちは、まあいい。きつかったのは町のほう。好み

角が覚えられない

ミナト

道の名前も、バス停の名前も、ぜんぜん入ってこなかった。前の家のまわりなら、目をつぶっても次の角が分かったのに。こっちでは、曲がるたびに自分がどこにいるか分からなくなる。中学に上がっても、それが続いた。好み

ハヤテ

初めてのコースの一周目に、少し似てます。どこで減速すればいいか、体がまだ知らないので。解釈

ミナト

似てる。たぶん。俺は、その一周目を一年以上走ってた。好み

ハヤテ

夜は、何をしてたんですか。

ミナト

小学校の最後の一年は、母さんが仕事から帰るまで、テレビをつけたまま待ってた。中学に上がってスマホを持ってからは、台所のテーブルで、地図のアプリを開いて前の家を上から見てた。屋根と、庭。……お前んちのガレージの屋根も、写ってた。毎晩そっちばっかり見てたから、こっちの町の地図は、頭の中でずっと白いままだった。好み

そのころ、中学一年の冬に、ミナトは短い動画で一本の漫画に出会っている。『ワンパンマン』。もとはONEが自分のWebサイトで描きはじめた漫画で、のちに村田雄介が作画を受け持つ描き直しの版も始まった。ミナトはその晩のうちに、元の版までさかのぼって読んだ。事実[1]

物語の中心にいるサイタマは、鍛えぬいた末に、どんな相手でも一発で倒せるようになったヒーロー。勝負がいつも一撃で片づくので、戦っていても張りあいがない。物語は、そこから始まる。事実[1]

台所で声が出た

ミナト

最初に効いたのは、笑ったこと。向こうに移ってから、声を出して笑ったのは、たぶんあれが最初。好み

ハヤテ

どこが、おかしかったんですか。

ミナト

敵がやたら大きくて、長々と名乗って、すごい構えをする。で、サイタマは気の抜けた顔のまま、一回で終わらせる。こっちは身構えてたぶん、すとんと落とされる。台所で一人で、ふき出した。作中の観察

ハヤテ

お母さん、びっくりしませんでしたか。

ミナト

帰ってきても、何も言わなかった。次の日の夕飯が、少しだけ多かった。好み

ハヤテ

……いいお母さんですね。

ミナト

口では何も言わない人。言わないで、段取りだけ整える。あの夕飯で、笑ってたのを聞かれてたって分かった。それが、別にいやじゃなかった。好み

アルファベットの町

もう一つ、ミナトが引っかかったのは町の呼び方だった。この漫画の町は、A市、J市というふうに、アルファベット一文字で呼ばれる。サイタマが住んでいるのは、いちばん最後のZ市。描き直しの版では、そのZ市に、人の気配がほとんどない一角まである。事実[1]

ミナト

名前が覚えられない俺には、記号の町がちょうどよかった。Zは、Z。覚えなくていい。好み

ハヤテ

中学の教室でも、その漫画の話はしてたんですか。

ミナト

してない。曲も漫画も、教室の誰も知らないのを一人で持ってた。休み時間は片耳にイヤホン。話す相手がいなくても、持ってるものがあれば、その一日はなんとか終わる。好み

ハヤテ

いちばん最後の文字なんですね。

ミナト

端っこ。人の少ない町で、ふつうに買い物して、ふつうに帰ってくる人がいる。それが、平気そうに見えた。平気じゃなくても、暮らしは回る、みたいな。解釈

ミナト

それで、真似した。こっちの町の道に、自分で記号をふった。家の前の道がA。学校までの角を、B、C、D。好み

ハヤテ

……カートのコースも、コーナーは番号で呼ぶんです。名前がついているコーナーは少ないので。初めてのコースは、まず番号で覚えます。好み

ミナト

同じだ。名前は、あとから勝手に入ってくる。解釈

一日に一本ずつ

ミナト

一日に一本、記号をふった道を歩いた。学校の帰りに、遠回りして。春が来るころには、Mくらいまで行った。Zまでは、行ってない。好み

ハヤテ

最初に覚えた名前、覚えてますか。

ミナト

バス停。Gの道の途中にある、屋根のない停留所。冬の夕方、そこで立ち止まって時刻表を見てたら、上に書いてある名前が、急に読めた。前から毎日見てたはずなのに、その日まで字の形にしか見えてなかった。好み

ハヤテ

記号の上に、名前が乗ったんですね。解釈

ミナト

それ。帰って、台所でまた一話読んだ。その晩は、前の家の屋根を見なかった。次の晩は、見た。そういうのを行ったり来たりしてるうちに、見ない晩のほうが少しずつ増えていった。好み

ミナト

サイタマが強くなった理由が、特別な何かじゃなくて、ふつうの筋トレを毎日続けただけ、っていう設定なのも、あとから効いてきた。俺がやってたのは、角を覚えるだけだったけど。事実[1]

ハヤテ

その漫画のおかげで、町に慣れたんですか。

ミナト

そこまでは言わない。歩いたのは俺の足。漫画がくれたのは、白い地図に最初の一本を引くきっかけ。それで十分だった。解釈

ハヤテ

……地図の話になると、ミナトさん、少し長くなりますね。

ミナト

仕事だから。

いまの部屋の前はA

ハヤテ

この春、隣の県に移ったときも、やりましたか。

ミナト

やった。最初の夜に、元の版の一話目だけ読んだ。次の日から、部屋の前の道をAにした。いまはF。会社と、スーパーと、コインランドリーまで。好み

ハヤテ

まだFなんですね。……来年、僕が知らない町に行ったら、角に番号をふってみます。好み

ハヤテ

本当は、少し怖いんです。知らない町で、また一周目からやり直すのが。人の多い場所も、得意じゃないですし。好み

ミナト

一周目は、誰でも遅い。俺は一年かかった。お前は、たぶんもっと早い。知らないところを走るのには、慣れてる。解釈

ハヤテ

……コースなら、三周あれば覚えます。

ミナト

じゃあ町なら、道を三十本くらいか。

ミナト

番号でも記号でもいい。お前の覚えやすいほうで。

ハヤテ

その漫画、アニメの一期は観たんです。Zの町って、そのあともずっとあのままですか。

ミナト

それは、観てから。

ハヤテ

……ですよね。じゃあ帰りは、ここをAにして数えてみます。

ミナト

海沿いの道は、全部Aでいい。一本しかないから。

知らない町は、まず記号で呼んでいい。一日に一本ずつ歩いていれば、名前はあとから入ってくる。

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