日曜の午後三時すぎ。海沿いの道の駅のベンチで、ミナトは缶のお茶を二本買って待っていた。二輪で海まで走ってきたハヤテが、ヘルメットを脇に抱えて隣に座る。子どものころ、庭の花ごしに遊んだ四つ下の子だ。お茶を一本受け取ると、ハヤテは少し間を置いてから切り出した。
十二歳になる春
ミナトさん、一つ聞いてもいいですか。引っ越したあと、どうしてたのか。
急だな。
来年の春から、知らない町に通うことになるかもしれなくて。……ミナトさんがいなくなった日のこと、少しだけ覚えてるんです。垣根の向こうが、急に静かになったので。
お前、まだ小さかったろ。
七つでした。
俺は、十二歳になる春。母さんと二人で、地方の町に移った。小学校は最後の一年だけ、知らない学校。Preference
教室は、もう形ができあがってた。誰とももめなかったし、誰とも近くならなかった。そっちは、まあいい。きつかったのは町のほう。Preference
角が覚えられない
道の名前も、バス停の名前も、ぜんぜん入ってこなかった。前の家のまわりなら、目をつぶっても次の角が分かったのに。こっちでは、曲がるたびに自分がどこにいるか分からなくなる。中学に上がっても、それが続いた。Preference
初めてのコースの一周目に、少し似てます。どこで減速すればいいか、体がまだ知らないので。Interpretation
似てる。たぶん。俺は、その一周目を一年以上走ってた。Preference
夜は、何をしてたんですか。
小学校の最後の一年は、母さんが仕事から帰るまで、テレビをつけたまま待ってた。中学に上がってスマホを持ってからは、台所のテーブルで、地図のアプリを開いて前の家を上から見てた。屋根と、庭。……お前んちのガレージの屋根も、写ってた。毎晩そっちばっかり見てたから、こっちの町の地図は、頭の中でずっと白いままだった。Preference
そのころ、中学一年の冬に、ミナトは短い動画で一本の漫画に出会っている。『ワンパンマン』。もとはONEが自分のWebサイトで描きはじめた漫画で、のちに村田雄介が作画を受け持つ描き直しの版も始まった。ミナトはその晩のうちに、元の版までさかのぼって読んだ。Fact[1]
物語の中心にいるサイタマは、鍛えぬいた末に、どんな相手でも一発で倒せるようになったヒーロー。勝負がいつも一撃で片づくので、戦っていても張りあいがない。物語は、そこから始まる。Fact[1]
台所で声が出た
最初に効いたのは、笑ったこと。向こうに移ってから、声を出して笑ったのは、たぶんあれが最初。Preference
どこが、おかしかったんですか。
敵がやたら大きくて、長々と名乗って、すごい構えをする。で、サイタマは気の抜けた顔のまま、一回で終わらせる。こっちは身構えてたぶん、すとんと落とされる。台所で一人で、ふき出した。Observation from the work
お母さん、びっくりしませんでしたか。
帰ってきても、何も言わなかった。次の日の夕飯が、少しだけ多かった。Preference
……いいお母さんですね。
口では何も言わない人。言わないで、段取りだけ整える。あの夕飯で、笑ってたのを聞かれてたって分かった。それが、別にいやじゃなかった。Preference
アルファベットの町
もう一つ、ミナトが引っかかったのは町の呼び方だった。この漫画の町は、A市、J市というふうに、アルファベット一文字で呼ばれる。サイタマが住んでいるのは、いちばん最後のZ市。描き直しの版では、そのZ市に、人の気配がほとんどない一角まである。Fact[1]
名前が覚えられない俺には、記号の町がちょうどよかった。Zは、Z。覚えなくていい。Preference
中学の教室でも、その漫画の話はしてたんですか。
してない。曲も漫画も、教室の誰も知らないのを一人で持ってた。休み時間は片耳にイヤホン。話す相手がいなくても、持ってるものがあれば、その一日はなんとか終わる。Preference
いちばん最後の文字なんですね。
端っこ。人の少ない町で、ふつうに買い物して、ふつうに帰ってくる人がいる。それが、平気そうに見えた。平気じゃなくても、暮らしは回る、みたいな。Interpretation
それで、真似した。こっちの町の道に、自分で記号をふった。家の前の道がA。学校までの角を、B、C、D。Preference
……カートのコースも、コーナーは番号で呼ぶんです。名前がついているコーナーは少ないので。初めてのコースは、まず番号で覚えます。Preference
同じだ。名前は、あとから勝手に入ってくる。Interpretation
一日に一本ずつ
一日に一本、記号をふった道を歩いた。学校の帰りに、遠回りして。春が来るころには、Mくらいまで行った。Zまでは、行ってない。Preference
最初に覚えた名前、覚えてますか。
バス停。Gの道の途中にある、屋根のない停留所。冬の夕方、そこで立ち止まって時刻表を見てたら、上に書いてある名前が、急に読めた。前から毎日見てたはずなのに、その日まで字の形にしか見えてなかった。Preference
記号の上に、名前が乗ったんですね。Interpretation
それ。帰って、台所でまた一話読んだ。その晩は、前の家の屋根を見なかった。次の晩は、見た。そういうのを行ったり来たりしてるうちに、見ない晩のほうが少しずつ増えていった。Preference
サイタマが強くなった理由が、特別な何かじゃなくて、ふつうの筋トレを毎日続けただけ、っていう設定なのも、あとから効いてきた。俺がやってたのは、角を覚えるだけだったけど。Fact[1]
その漫画のおかげで、町に慣れたんですか。
そこまでは言わない。歩いたのは俺の足。漫画がくれたのは、白い地図に最初の一本を引くきっかけ。それで十分だった。Interpretation
……地図の話になると、ミナトさん、少し長くなりますね。
仕事だから。
いまの部屋の前はA
この春、隣の県に移ったときも、やりましたか。
やった。最初の夜に、元の版の一話目だけ読んだ。次の日から、部屋の前の道をAにした。いまはF。会社と、スーパーと、コインランドリーまで。Preference
まだFなんですね。……来年、僕が知らない町に行ったら、角に番号をふってみます。Preference
本当は、少し怖いんです。知らない町で、また一周目からやり直すのが。人の多い場所も、得意じゃないですし。Preference
一周目は、誰でも遅い。俺は一年かかった。お前は、たぶんもっと早い。知らないところを走るのには、慣れてる。Interpretation
……コースなら、三周あれば覚えます。
じゃあ町なら、道を三十本くらいか。
番号でも記号でもいい。お前の覚えやすいほうで。
その漫画、アニメの一期は観たんです。Zの町って、そのあともずっとあのままですか。
それは、観てから。
……ですよね。じゃあ帰りは、ここをAにして数えてみます。
海沿いの道は、全部Aでいい。一本しかないから。
知らない町は、まず記号で呼んでいい。一日に一本ずつ歩いていれば、名前はあとから入ってくる。