土曜の昼、レンが古本屋の帳場に一枚の紙を置きました。前に頼まれていた、古書の発送の段取りを直したものです。帳場の奥では、イツキの祖父が老眼鏡をかけて伝票をめくっています。礼を言ったイツキに、レンは紙から目を上げずに聞きました。「去年の冬、土曜に来てもいなかった日が続いたよね」。
土曜にいなかった冬
いなかったです。倉庫の早番を、いつもより多く入れてました。疲れると、そっちに逃げる癖があって。
店の仕事で疲れてた?
仕事っていうより、店をこの先どうするか、決めなきゃいけないって思い込んでて。継ぐのか、継がないのか。誰にも聞かれてないのに、勝手に締め切りを作ってました。
締め切りは、どこから来たの。
部屋の床に、渡す相手が決まらない本の山が三つあるんです。ある朝、そのうちの一つが崩れて。拾いながら、店のことも同じ山に積んであるなって思いました。それからです。
冬の朝は、まだ暗いうちに自転車で出ます。倉庫では、宛名を見て箱を分けるだけでいいので、楽でした。知らない町の名前ばっかりで、誰の顔も見なくていい。早番が終わったら、店に寄らずに帰って寝てました。
崩れた山のいちばん上
それが変わったのは?
変わった、ってほどじゃないっす……ないです。崩れた山を積み直してたら、前に一回読んだ『うる星やつら』が一冊、いちばん上に来て。なんとなく、倉庫に行くかばんに入れました。
真ん中にいるのは、高校生の諸星あたる。浮気性で、すぐ目移りする。その彼だけを、宇宙から来たラムがまっすぐ想っている。二人のまわりは、いつも大騒ぎになる。事実[1]
倉庫で読んだの?
休憩のときに。積み下ろし口の横に折りたたみの椅子が並んでて、みんな黙って座ってます。外がやっと明るくなるころ、そこで一話目を開きました。
誰も話さない場所で読む漫画って、どんな感じ?
隣の人がパンをかじる音と、外の車の音だけです。ページをめくる音が、自分のだけ少し大きく聞こえました。
一話目のどこが効いた?
地球の運命を、宇宙人との鬼ごっこで決めることになるんです。で、地球の代表に選ばれたあたるが走る理由が、地球のためじゃない。自分の恋人と結婚したいから。地球の一大事なのに。作中の観察
大きい話の真ん中で、いちばん小さい理由で走ってる。
そこです。前に読んだときは、ただの勢いだと思ってました。あの朝は、店の先のことを一人で抱えて動けなくなってたので、走る理由なんか小さくていいのかって。声は出さなかったけど、肩のあたりの力が、ちょっと抜けました。解釈
僕も、単純な繰り返しで声を出して笑ったことがある。ゲームの中で、焚き火でマシュマロを焦がすだけの場面。何回やっても同じなのに。
レンさんが、声を出して?
うん。仕組みはあとからいくらでも説明できるけど、笑ったのは説明より先だった。
前に読んだときと、何が違った?
前は、仕事の手を止めて読みました。今度は、仕事と仕事のあいだに挟まって読んだ。同じ一話でも、置き場所が違うと、効くところが違うみたいです。
休憩が終わって箱の前に戻ったら、宛名の町の名前を、ひとつずつ頭の中で読んでました。どの箱にも、誰かが自分の小さい理由で頼んだ本が入ってる。そう思ったら、箱を分ける手が少し軽くなった気がします。
主役じゃない回
ほかにも効いたところはある?
次の休憩で、もう何話か読みました。あたるとラムが通りすがるだけで、町の別の誰かが真ん中にいる回が、けっこうあります。主役が脇に回っても、ちゃんと一話になる。作中の観察
イツキさんは、そこに何を見たの。
店の真ん中に、僕がいなくてもいい日がある、ってことです。じいちゃんが帳場にいて、常連さんが棚を見てて、百円棚が回ってる。僕が全部を背負ってるつもりになってたのが、ちょっとおかしくなりました。解釈
その週の土曜は、倉庫のあとに店へ寄って、じいちゃんがお客さんと話してるのを、棚の陰から少し見てました。僕がいなくても、ちゃんと話は続いてた。
その常連さんの中に、僕も入ってる?
入ってます。土曜の昼に文庫の棚の前にいるのは、だいたいレンさんなので。
……そうか。真ん中にいなくても、話は回る。
主役が毎回真ん中にいなくても成り立つのは、まわりの人たちが一人ずつちゃんと立ってるからだと思う……ごめん、また仕組みの話をしてる。解釈
いいですよ。それ、合ってる気がします。
次の朝も倉庫には行った
次の日から、店に戻ったの?
次の朝も、倉庫には行きました。そこは変わってないです。ただ、早番のあとに家へ帰らないで、店に寄るようになりました。じいちゃんは何も聞かなかったです。お茶だけ出てきました。
おじいさんのお茶は、どんな味だった?
いつもと同じで、ちょっと濃かったです。何も聞かれないのが、あの日はありがたかった。
朝の商店街のゴミ拾いだけは、あの冬もやめてなかったです。中学のときからの癖なんで、体が勝手に起きる。
じゃあ、店のシャッターの前も毎朝通ってたのに、入らなかった?
火ばさみを持ったまま、素通りしてました。あの朝のあとは、シャッターの前で一回だけ足を止めます。変わったのは、それくらいです。
足を止めると、ガラス戸の向こうに、前の日に積んだままの買い取りの箱が見えます。それを見て、今日の昼はあれをやろう、とだけ決める。大きいことは決めないまま、小さいことだけ決めて店に入る。
継ぐかどうかは?
まだです。山の一番上に、決めてないってことを置いてあります。下の本が崩れないように、なるべく平らに。
答えは言わない、を自分にもやってるんだ。
そうかもしれないです。レンさんの手順書みたいに、空いてる欄を残してあるだけっす。
いまの小さな習慣
いまも倉庫の日は、宛名の町の名前を一つだけ覚えて帰ります。店に寄って、その町から来た本が棚にないか見る。見つからない日のほうが多いです。あの冬の一冊は、まだ渡す相手が決まってなくて、帳場の引き出しに入れてあります。
あの冬のイツキさんみたいな場所に、いま誰かがいたら?
何か言えるほどのことは、ないです。僕は、小さい理由で走る人の話を一話だけ読んで、次の朝、シャッターの前で足が止まった。起きたのは、それだけでした。
それだけでも、足が止まったのは本当に起きたことだね。
僕は、その候補に入ってる?
レンさんは、繰り返しで笑う人なので。……一話目の最後のページだけ、そこで立ち読みしてってください。続きは、いつでも引き出しにあります。
大きな決めごとの前で動けない朝は、小さい理由で走る誰かの話を一話だけ。走る理由は、小さくていい。