あの作品に助けられた

照合が閉じなかった夏と『HERO』

控えと写しが一行だけ食い違い、どちらが正しいか決められないまま過ぎた夏があった。ホテルの机で同じ二枚を読み返していた夜に観ていた検事のドラマと、その週末に歩いた坂の話。聞き手はルカ。作品の展開には触れません。

こんな人に
机の上で何度読み返しても、決めきれない一行を抱えている人へ。白いままの頁があるだけで、ほかの判断まで揺らいでしまう人にも。
ネタバレの範囲
ネタバレなし ドラマ『HERO』(2001年の最初の連続ドラマ)の始まりの設定と、主人公の仕事ぶりの紹介まで。個別の回の事件や結末には触れません
話している人
トキワ × ルカ
主張の種類: 事実 作中の観察 根拠のある推測 解釈 好み
目次 全5節・約6分
  1. 一字だけ合わない二枚
  2. 白いままの頁
  3. 机に収まらない検事
  4. 土曜の朝の坂
  5. 出張ごとに一か所

夕方、駅の裏の古い石段の下で、配達を終えたルカが足を止めました。白い外套の人が、手帳を開いたまま石段の上を見上げていたからです。トキワは仕事の外で、歩いて何かを確かめに来たところでした。ルカが短く尋ね、トキワが、ひと夏ぶんの話をしました。

一字だけ合わない二枚

ルカ

トキワ様。こちらに、ご用が。

トキワ

仕事の外です。この石段は、ある控えに出てきます。上り下りしたのは、今日で三度目です。

ルカ

三度。

トキワ

理由を申し上げると長くなります。確認します。写しと控えが食い違っていたら、あなたはどちらを取りますか。

ルカ

……先に書かれたほうを、と申し上げたいところですが。

トキワ

私も、そう考えてきました。ある夏の出張で、それが通らない二枚を預かりました。古い控えと、その写しです。何十行もあるうち、違うのは一行だけでした。ある場所を、控えは坂の上と書き、写しは坂の下と書いていました。

ルカ

一字の違いで。

トキワ

一字です。上か下かで、そこに何があったかが変わります。私の仕事は、どちらが正しいかを確かめて、表の横に一行で書くことです。あの夏、その一行が書けませんでした。

白いままの頁

トキワ

昼は別の仕事を片づけ、夜はホテルの机に二枚を並べました。紙の色、墨の濃さ、字の癖。比べられるものは全部比べました。比べるたびに、どちらの側にも理由が見つかる。理由が二つ並ぶと、私の一行は止まります。

ルカ

お休みには、なれましたか。

トキワ

雨の夜は眠りませんでした。窓を打つ音を聞きながら、同じ二枚を一行目から読み直しました。正直に申し上げます。手帳に白い頁が一枚あるだけで、前の頁の判断まで疑わしく見えてきました。朝食を取る順番を、一度だけ間違えました。

ルカは口もとに手をやり、少しのあいだ、石段のほうへ顔を向けていました。

ルカ

その二枚のことを、どなたかにご相談は。

トキワ

上の者に出せば、どちらかに決めて返されます。決めて返された一行を、私は自分で確かめないまま写すことになる。それだけは、避けたかったのです。

ルカ

そのころ、夜には何を。

トキワ

文庫は買いました。けれど推理小説を開くと、私は表を作りはじめます。表を作ると、机の上の二枚と同じ顔になる。だからその夏の夜は、字幕を追っていれば手が止まる暇のないものを選びました。

机に収まらない検事

トキワ

その夏、夜の終わりに一枚ずつ観ていたのが『HERO』です。中古店で買った箱でした。

『HERO』はフジテレビ系の連続ドラマで、主演は木村拓哉さん。木村さんが演じる検事・久利生公平は、型破りで正義感の強い人物です。小さな事件でも手を抜かず、自分から現場へ出向いて調べていきます。事実[1]

トキワ

彼は、小さな件も、机の上だけでは片づけようとしない人です。片づけられそうな件でも、自分で出かけていく。私は最初、それを手順の無駄と書きました。解釈

ルカ

左様でございますか。

久利生と同じ支部で働く検事や事務官たちは、はじめ、彼のふるまいに戸惑い、反発します。けれど一緒に事件に当たるうちに、少しずつ影響を受けていきます。癖の強い面々が入りまじる群像劇の顔も、このドラマは持っています。事実[2]

トキワ

最初の回で彼に眉を寄せる人たちの顔は、私の顔でした。ところが、白い頁を抱えた夜に観ると、別の欄が目に入りました。彼が出かけるのは、書類を疑うためではありません。書類のどこが合っているかを、確かめに行くのです。照合のために歩く。机の外で、私と同じ手順を踏んでいる。解釈

トキワ

もう一つ。彼は、小さな食い違いも、小さいまま放っておかずに確かめに行きます。私の一字の食い違いも、小さな件でした。小さいから机で閉じられるはずだと、私は決めていました。解釈

ルカ

どの場面で、手が止まりましたか。

トキワ

彼が机を離れる、その前の短い間です。書類を置いて、上着を取って、出ていく。あっけないほど短い。私には、その短さがいちばん遠く見えました。私は、上着を取るまでに一夏かかりましたので。解釈

土曜の朝の坂

トキワ

箱の最後の一枚を観た次の土曜、控えに出てくる場所へ、朝のうちに歩いて行くことにしました。その場所は、出張先の町の中にありました。

トキワ

出る前に、フロントで町の古い地図はないかと尋ねました。古い地図は置いていない、とのことでした。代わりに、その坂の呼び名を一つ教わりました。控えに書かれた名とは、違う名でした。

ルカ

お名前も、二通り。

トキワ

二通りです。食い違いが一つ増えました。それでも、私は歩き出しました。あの検事なら、増えた数だけ人に聞いて回る。画面の中の手順を、そのまま借りました。地図の上では、ホテルから一本の線でした。解釈

ルカ

歩くと、線ではございません。

トキワ

一本の線とは違いました。坂の途中で、息の数が変わりました。坂はありました。けれど上にも下にも、控えに書かれていた物は、もう残っていなかった。そこで手帳を開きました。

ルカ

……では、そのまま。

トキワ

そう書きかけたところで、坂の下の店先を掃いていた方が、私の手帳をのぞいて、昔は下にあった、と一言だけ言いました。それから、また掃きはじめました。

ルカ

証人が、お一人。

トキワ

一人です。証言一つでは、異議なしとは書けません。けれど、白かった頁に、初めて書けることができました。坂は現存。控えの物は上下とも現存せず。証言一つ、坂の下。その下に、保留。

トキワ

理由の並んだ保留と、何も書けない白は、別のものです。あの夏、私が困っていたのは後のほうでした。解釈

トキワ

その夜は雨でしたが、眠りました。

ルカ

それは、ようございました。

トキワ

翌朝、ホテルの朝食は、いつもの順番で取りました。白飯、汁、焼き魚。

ルカ

順番が、お戻りに。

出張ごとに一か所

ルカ

それで、今日も。

トキワ

今日は別の控えです。出張のたびに、控えに出てくる場所を一つだけ、土曜の朝に歩いて見に行くことにしました。一つより多くは歩かない決まりです。机で一行が書けなくなったときのための決まりでもあります。彼のやり方が私の仕事に合うのかどうかは、まだ決めていません。好み

ルカ

坂の上と下で、お届け先を取り違えたことがございます。

トキワ

坂の上と下。……書き取ってよろしいですか。

ルカ

どうぞ。昔の話です。

トキワ

承知しました。この石段は、上から二段目の角が一つ欠けています。控えにはない一行です。今日は、それを足して帰ります。以上です。

ルカは配達の鞄を肩にかけ直し、白い外套が石段を下りきるまで、その場に立っていました。

机の上で書けない一行があるなら、その一行に出てくる場所を一度だけ歩いてみる。何も書けない白が、理由の並んだ一行に変わることがある。

この記事の作品

HERO
ドラマ 2001

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