夕方、駅の裏の古い石段の下で、配達を終えたルカが足を止めました。白い外套の人が、手帳を開いたまま石段の上を見上げていたからです。トキワは仕事の外で、歩いて何かを確かめに来たところでした。ルカが短く尋ね、トキワが、ひと夏ぶんの話をしました。
一字だけ合わない二枚
トキワ様。こちらに、ご用が。
仕事の外です。この石段は、ある控えに出てきます。上り下りしたのは、今日で三度目です。
三度。
理由を申し上げると長くなります。確認します。写しと控えが食い違っていたら、あなたはどちらを取りますか。
……先に書かれたほうを、と申し上げたいところですが。
私も、そう考えてきました。ある夏の出張で、それが通らない二枚を預かりました。古い控えと、その写しです。何十行もあるうち、違うのは一行だけでした。ある場所を、控えは坂の上と書き、写しは坂の下と書いていました。
一字の違いで。
一字です。上か下かで、そこに何があったかが変わります。私の仕事は、どちらが正しいかを確かめて、表の横に一行で書くことです。あの夏、その一行が書けませんでした。
白いままの頁
昼は別の仕事を片づけ、夜はホテルの机に二枚を並べました。紙の色、墨の濃さ、字の癖。比べられるものは全部比べました。比べるたびに、どちらの側にも理由が見つかる。理由が二つ並ぶと、私の一行は止まります。
お休みには、なれましたか。
雨の夜は眠りませんでした。窓を打つ音を聞きながら、同じ二枚を一行目から読み直しました。正直に申し上げます。手帳に白い頁が一枚あるだけで、前の頁の判断まで疑わしく見えてきました。朝食を取る順番を、一度だけ間違えました。
ルカは口もとに手をやり、少しのあいだ、石段のほうへ顔を向けていました。
その二枚のことを、どなたかにご相談は。
上の者に出せば、どちらかに決めて返されます。決めて返された一行を、私は自分で確かめないまま写すことになる。それだけは、避けたかったのです。
そのころ、夜には何を。
文庫は買いました。けれど推理小説を開くと、私は表を作りはじめます。表を作ると、机の上の二枚と同じ顔になる。だからその夏の夜は、字幕を追っていれば手が止まる暇のないものを選びました。
机に収まらない検事
その夏、夜の終わりに一枚ずつ観ていたのが『HERO』です。中古店で買った箱でした。
『HERO』はフジテレビ系の連続ドラマで、主演は木村拓哉さん。木村さんが演じる検事・久利生公平は、型破りで正義感の強い人物です。小さな事件でも手を抜かず、自分から現場へ出向いて調べていきます。事実[1]
彼は、小さな件も、机の上だけでは片づけようとしない人です。片づけられそうな件でも、自分で出かけていく。私は最初、それを手順の無駄と書きました。解釈
左様でございますか。
久利生と同じ支部で働く検事や事務官たちは、はじめ、彼のふるまいに戸惑い、反発します。けれど一緒に事件に当たるうちに、少しずつ影響を受けていきます。癖の強い面々が入りまじる群像劇の顔も、このドラマは持っています。事実[2]
最初の回で彼に眉を寄せる人たちの顔は、私の顔でした。ところが、白い頁を抱えた夜に観ると、別の欄が目に入りました。彼が出かけるのは、書類を疑うためではありません。書類のどこが合っているかを、確かめに行くのです。照合のために歩く。机の外で、私と同じ手順を踏んでいる。解釈
もう一つ。彼は、小さな食い違いも、小さいまま放っておかずに確かめに行きます。私の一字の食い違いも、小さな件でした。小さいから机で閉じられるはずだと、私は決めていました。解釈
どの場面で、手が止まりましたか。
彼が机を離れる、その前の短い間です。書類を置いて、上着を取って、出ていく。あっけないほど短い。私には、その短さがいちばん遠く見えました。私は、上着を取るまでに一夏かかりましたので。解釈
土曜の朝の坂
箱の最後の一枚を観た次の土曜、控えに出てくる場所へ、朝のうちに歩いて行くことにしました。その場所は、出張先の町の中にありました。
出る前に、フロントで町の古い地図はないかと尋ねました。古い地図は置いていない、とのことでした。代わりに、その坂の呼び名を一つ教わりました。控えに書かれた名とは、違う名でした。
お名前も、二通り。
二通りです。食い違いが一つ増えました。それでも、私は歩き出しました。あの検事なら、増えた数だけ人に聞いて回る。画面の中の手順を、そのまま借りました。地図の上では、ホテルから一本の線でした。解釈
歩くと、線ではございません。
一本の線とは違いました。坂の途中で、息の数が変わりました。坂はありました。けれど上にも下にも、控えに書かれていた物は、もう残っていなかった。そこで手帳を開きました。
……では、そのまま。
そう書きかけたところで、坂の下の店先を掃いていた方が、私の手帳をのぞいて、昔は下にあった、と一言だけ言いました。それから、また掃きはじめました。
証人が、お一人。
一人です。証言一つでは、異議なしとは書けません。けれど、白かった頁に、初めて書けることができました。坂は現存。控えの物は上下とも現存せず。証言一つ、坂の下。その下に、保留。
理由の並んだ保留と、何も書けない白は、別のものです。あの夏、私が困っていたのは後のほうでした。解釈
その夜は雨でしたが、眠りました。
それは、ようございました。
翌朝、ホテルの朝食は、いつもの順番で取りました。白飯、汁、焼き魚。
順番が、お戻りに。
出張ごとに一か所
それで、今日も。
今日は別の控えです。出張のたびに、控えに出てくる場所を一つだけ、土曜の朝に歩いて見に行くことにしました。一つより多くは歩かない決まりです。机で一行が書けなくなったときのための決まりでもあります。彼のやり方が私の仕事に合うのかどうかは、まだ決めていません。好み
坂の上と下で、お届け先を取り違えたことがございます。
坂の上と下。……書き取ってよろしいですか。
どうぞ。昔の話です。
承知しました。この石段は、上から二段目の角が一つ欠けています。控えにはない一行です。今日は、それを足して帰ります。以上です。
ルカは配達の鞄を肩にかけ直し、白い外套が石段を下りきるまで、その場に立っていました。
机の上で書けない一行があるなら、その一行に出てくる場所を一度だけ歩いてみる。何も書けない白が、理由の並んだ一行に変わることがある。