検品室の長い机に、社内報の秋の号の刷り出しが並んでいた。スイがルーペをのぞき、レンは一枚の端に、何も書いていない付箋を貼った。
このページ、写真の白が少し飛んでる。作業着が白いからだと思う。
うん……。でも、このくらいなら、みんなの顔は残ってる。
そのページは、本社のビルを朝早く掃除している人たちの紹介だった。スイが取材して、一語ずつ直した記事だ。
見出し、前の校正から一語変わってる。
「裏方」を消したの。取材した人たち、自分のことを一度もそう呼ばなかったから。
呼び方は、本人のほうに合わせる。
それだけで、写真の顔が少し違って見える気がする。
色はこのまま通す。……スイ、このページで手が止まってた。
ビルの清掃の人を見ると、透を思い出すの。
とおる。
刷り出しを封筒に戻して、二人は工場を出た。駅までは、川沿いの土手を歩いて二十分ほどかかる。
スイの手には、レンの会社の名前が入ったビニール傘が一本あった。先月の打ち合わせの帰り、雨のなかで持ち帰ってしまったものだ。
これ、返す。先月の。
三本目だね。
数えないで。
レン、あれ、最後まで読んだんだよね。結末の話もしていい?
いい。この夏、古本屋で一冊ずつそろえて読んだ。最後の巻の奥付まで見た。
じゃあ、重いところは少しずつ畳んで話す。
先に一つだけ聞いていい? 推しって言うとき、透のどこを指してるの。一言で。
……少し考えてから返すね。
うん。駅に着くまででいい。
最初に好きになったのは、透が昔、十二支の話を聞いて、仲間はずれの猫がかわいそうで、自分が猫の年に生まれたかったって思ってたこと。[1]
入れてもらえなかった側に、自分から行きたがる。
小学生の私には、それが不思議だった。仲間はずれの動物の側に立ちたい子なんて、まわりにいなかったから。
あのアニメ、原作がまだ終わってないうちに放送したから、最終回はアニメだけの結末になってる。[2]
そう。だから私は、アニメの最終回を観たあとで、漫画の続きを読んだの。結末を二つ持ってる感じ。
推しが透なの、少しだけ意外だった。読み終わってから、夾と由希のことばかり考えてたから。
二人とも好き。でも二人とも、透に名前を呼ばれて変わっていく側でしょう。私は、呼ぶ側の人が気になるの。
呼ぶ側。
呼ぶ側の人は、自分がどう呼ばれたいかを、なかなか言わないから。
透が勉強を休まないのは、母親と約束してたからだっけ。
高校をちゃんと卒業するって約束。透は、自分の約束はあまり人に話さない。[9]
透って、誰にでも、少しずれた丁寧な言葉で話すでしょう。友だちにも、一緒に住む男の子たちにも。お父さんの話し方を真似た敬語なの。[1]
僕は最初、あれをキャラクターの目印だと思ってた。吹き出しだけで誰の台詞か分かるように。
私も最初はそう。でも、言葉づかいって、たいてい誰かから来てる。仕事で挨拶文を直してると、その人の口ぐせに、昔の上司の言い回しが混ざってることがある。
中盤まで中盤で明かされる過去(言葉づかいのわけ)押すと開きます
スイ「透がまだ小さいころに、お父さんが亡くなる。お葬式で、お母さんを嫌っていた親戚が、透に聞こえるように、お父さんにちっとも似ていないって言うの。そのあと、まいってしまったお母さんが家を空けて、透は置いていかれる怖さを知る。
少しでもお父さんに近づきたくて、お父さんの口調を真似しはじめた。それが、あの敬語の始まり。
私はここで、透の敬語は壁じゃなくて、手すりだったんだと思った。落ちないように、ずっとつかまってた言葉。」[3]
……そうか。目印だと思ってたものに、わけがあった。
でも、言わせて。わけが分かった途端に、あの話し方が全部悲しく聞こえるのは、少しもったいない気もする。
それ、少しわかる。透の敬語、楽しいときはちゃんと楽しそうだものね。
楽しいほうの話もする。私、文化祭の劇の回が好きなの。
中盤まで中盤の展開(文化祭の劇)押すと開きます
スイ「文化祭でシンデレラの劇をやることになって、透は意地悪な義理のお姉さんの役に選ばれる。でも透は、お芝居でも人を怒ったり、ののしったりができない。由希くんに、無理だってすぐ見抜かれる。
王子の役は、由希くんが断ったせいで、投票で夾くんに回ってくる。本番は、咲ちゃんのシンデレラに夾くんが振り回されて、それでもツッコミだけはきっちり入れる。私、ここは毎回声を出して笑う。」[4]
静かな会話が好きな人が、そこで声を出すのか。
出すよ。疲れた週は、ああいうのがいちばん効く。
僕も、夾のツッコミが毎回きっちり入るところで笑った。
土手の下の野球場で、子どもたちが片づけを始めていた。ボールを入れたかごが一つ、ゆっくり坂を上っていく。
中盤まで中盤の核心(夾の秘密)押すと開きます
スイ「夾くんは、数珠でおさえている本当の姿を持ってる。それを透に見られたとき、夾くんは、どうせ拒まれると思って、自分から透をひどい言葉で突き放すの。
それでも透は、一緒にいたいって言う。夾くんが、ずっと誰かに言ってほしかった言葉。そこから夾くんは、透を名前で呼ぶようになる。
私がここで見てたのは、言葉そのものより、ひどいことを言われたあとも、透がその場から帰らなかったこと。受けとめるって、たぶん、そこに居続けることなんだと思う。」[5]
僕はあの話、並び方で見てた。十二支の一人ずつに、透がその人を受けとめる回がある。その並びの中で、猫のところだけ形が違う。
どう違う?
ほかの人には、透が何かを手渡す。猫のときだけ、透はそこに居るだけ。……また仕組みの話をしてる。
いまのは、欲しかった。私が言葉にできなかったところ。
中盤まで中盤以降の展開(透が言わなかったこと)押すと開きます
スイ「みんなを受けとめてきた透にも、ふたをしてた気持ちがあるの。亡くなったお母さんをずっといちばんにしていたいのに、夾くんに惹かれていく。その変わり方を、いけないことだと思って怯えてる。小さいころ、お母さんを連れていかれたくなくて、お父さんを悪者みたいに思ってしまった気持ちも、誰にも言えずにいた。
それを初めて打ち明けた相手が夾くんで、夾くんは、幻滅しないって受けとめる。
受けとめる人だった透が、受けとめられる側に回る。私はたぶん、子どものころからずっと、この一回のためにこの漫画を読んできた。」[6]
私が人の話を、誰が黙っていたかで読むようになったのは、ここから。
……私、今日、話が長いね。
いつもより、駅二つぶんくらい。
測らないで。
……一つだけ、僕の読みを足していい?
うん。
透が最初に住む場所をなくすのは、土砂崩れなんだ。テントがつぶれて、それで草摩の家に居候することになる。[7]
終わりのほうに、同じ形がもう一度出てくる。ここ、気にならない?
結末・正体結末(終盤の二つの場面)押すと開きます
スイ「その形の前に、私の好きなところを一つ入れさせて。気持ちが通じかけたのに、夾くんは自分を責めて、透を受け入れられないまま立ち去ってしまう。追いかけようとした透の前に、当主の慊人が現れるの。透は慊人に、亡くなったお母さんの姿を重ねて、その人がずっと抱えてきた孤独を知る。置いていかれる怖さ。ずっと変わらない絆がほしいという気持ち。自分と同じ痛みだって気づいた透は、慊人と対等な友達になりたいと願って、隣に寄りそおうとする。
私は、ここがいちばん透らしいと思ってる。いちばん怖かった人の隣にも、座ろうとする。」
レン「僕は、そこは少し急に感じた。あの人に、そこまで歩み寄るのが。」
スイ「私も、最初に読んだときはそう思った。でも透は、許したんじゃなくて、同じ怖さを見つけただけなんだと思う。許すのと、隣に座るのは、別のこと。」
レン「許すのと、隣に座るのは別。……それなら、急じゃないのかもしれない。そのあと透は、雨でゆるんだ崖の崩れに巻きこまれる。命は助かって、退院の日に夾から気持ちを告げられて、二人は恋人になる。
最初は土の崩れで家をなくして、終わりは土の崩れのあとで、一緒にいる人を得る。作者がそう組んだのかは、僕には分からない。後からそう見えただけかもしれない。でも、始まりと終わりで、同じ出来事が反対の向きに働いてる。」[8]
……そうかも。私、あの場面は、夾くんの顔しか見てなかった。
スイは顔、僕は地面。
二人で一枚の刷り出し、みたい。
結末・正体結末(最終回まで)押すと開きます
スイ「透が小さいころ迷子になったとき、助けてくれた帽子の男の子がいて、透はその帽子をいまも大事にしてる。その男の子は、由希くんだった。でも帽子は、もともと夾くんのもの。
そして最終回。由希くんが透に、お母さんみたいな人だったって打ち明けて、初めて名前で呼ぶの。
それまで一度も名前で呼ばなかった人が、最後に呼ぶ。呼び方が一つ変わるだけで、それまでの場面が全部、少し違って聞こえてくる。私、そこで本を閉じて、しばらく天井を見てた。
透は、お母さんとの約束どおり高校を卒業して、夾くんと一緒にあの家を旅立っていく。」[9]
透の見てない場所で、もう一本の話がずっと進んでた。視点の外で起きてたことが、一つにつながる。僕が好きな形。
レンがこの漫画を最後まで読んだの、そこが理由?
半分は。もう半分は、スイの栞が毎回違ったから。何の本か気になってた。
新しいほうのアニメは、原作者の希望で、スタッフも声も全部入れ替えたらしい。絵も原作の絵に寄せないでほしいって頼んだって。[10]
絵が変わっても、透の言葉のずれ方は同じだった。そこで、この子はこの子だって思えた。
それに、新しいほうは最後まで作ってくれたから。子どものころ、アニメの最終回で一度別れた透に、やっと最後まで付き添えた。
付き添う、か。読むっていうより。
私には、そっちのほうが近いの。
作者が自分の手から離してくれって頼むの、僕には面白い。同じ原稿を、別の版で刷り直すみたいな。
スイは、手紙を書く相手ごとに便箋を変えるよね。透に書くなら、どんな紙にする?
罫線のない、少し厚い紙。何を書いても、ちゃんと受けとめてくれそうだから。
それで一行目に、返事はゆっくりでいいって書く。あの子、すぐに返そうとするから。
受けとめる人に、受けとめられる側の紙を渡すのか。
レンなら、透に何を書く?
書かない、と思う。書いたら工程表みたいになるから。何をした、だけ並べて、最後に空欄を一つ残す。
その空欄に、透は何を書くかな。
知らない。だから残す。
それ、いいね。いちばんレンらしい手紙。
レンはノートの端に何か書きかけて、ペンの尻を下唇に当てたまま、しばらく止まった。
土手の先に、駅の高架が見えてきた。ホームの明かりが、川の上に細く伸びている。スイは歩く速さを少しだけ落とした。
さっきの返事。
うん。
透の好きなところは、受けとめる人なのに、受けとめられる側にも回れたところ。……一言にならなかった。
一言じゃなくていい。ノートに写しておく。
レンは鞄から方眼ノートを出して、余白に一行書いた。スイはそれを見ないふりをして、川のほうを向いた。
次は、透が黙ってる回だけ見てみない? ……あ、それはスイの読み方か。
じゃあ交換。私は地面の回を探してみる。帰ったら、最後の巻だけ開くね。テンが寝る前に。