水曜のハルは、家の一駅手前で電車を降りる。改札を出ると、作業着の上に薄い上着をはおったタカシが、新聞紙で巻いた花を小脇に抱えて立っていた。仕事で近くの市場まで来た帰りだという。
タカシさん、お待たせしました。今日、どれくらい残ってます?
帰りの電車までなら、一時間ほどです。ハルさんは、ここから歩いて帰るのですか。
水曜だけ、一駅ぶん。途中に夕方だけ開く八百屋があって、トマトを一個買う。
一個、ですか。
一個。決めごとって、一個のほうが続くんで。
商店街の端の八百屋は、もうシャッターを半分下ろしかけていた。ハルが赤いのを一つ選ぶと、タカシは少し迷ってから、隣の一つを手に取った。
では、私も一つ。……真似になってしまいますが。
じゃあ今日は二人で二個だ。歩きながらでいい? 聞いてほしい話があって。六太のこと。宇宙兄弟の。
ええ。ハルさんのいちばん好きな人物でしたね。
推しです。
推し……。それはどういう意味ですか。
えっと、いちばん応援したくなる人、かな。勝ってほしいっていうより、最後まで見届けたい人。
見届けたい人。なるほど、いい言葉です。
私はアニメで最後まで観ましたが、漫画は途中で止まっていました。
じゃあ、ネタバレ、どこまでしていいですか?
全部どうぞ。私は結末を知っていても観る人間です。途中で誰が何を背負ったかのほうを、見たいので。
了解。重いところは、ちょっとずつ畳みながら話すね。
最初に六太を好きになったの、強いからじゃなくて、細かいから。
細かい、ですか。
几帳面で、気にしいで、いろんな情報をいっぺんに見聞きして、よく覚えてる。で、料理がうまい。トランペットもピアノもできる。[2]
僕、誰かがごはんを作る場面に弱くて。宇宙の話なのに、六太が台所に立ってるだけで安心する。
私は戦記ものばかり観ますが、目が行くのはいつも補給の場面です。似ているのかもしれません。
それ! 補給。タカシさんが言うと急にかっこいい。
私は会社がいちばん忙しかったころに、夜中に録画で。天然パーマの主人公が、上司に頭突きをして会社をクビになるところから始まる。経営者には、少し耳の痛い始まりです。[3]
そこ、社長の側から観るんだ。
頭突きをされた役員のほうも、つい見てしまいます。弟さんを悪く言った人ですから、かばう気はありませんが。あの役員の名前、サッカー選手のマテラッツィから取ったそうですよ。[3]
サッカー? 頭突きと何か関係あるの?
……それは、サッカーに詳しい方に聞いてみてください。私が話すと長くなりますので。
ハルは吹き出しかけて、八百屋の袋を持ち替えた。
最初のほうで好きなのが、JAXAの星加さん。子どものころJAXAによく来てた兄弟を覚えてて、六太を「モジャ君」って呼んで応援してる。[4]
本人は夢を置きかけてたのに、覚えてた大人がいた。僕、そこで泣きそうになった。
覚えていてもらえる、というのは大きいことです。組織の中に名前を覚えている上の人間が一人いれば、人は戻ってこられます。
中盤まで序盤の展開(選抜試験と訓練のころ)押すと開きます
ハル「試験のあいだに、六太は弟に呼ばれてヒューストンに行く。そこで、町を騒がせてた強盗をたまたま捕まえちゃう。それで一気に有名になって、その評判がJAXAにまで届いて、2次試験に通る。
僕、ここがすごく好きで。準備してきた道の上じゃなくて、寄り道の先で扉が開く。六太は狙ってないの。目の前で起きたことに体が動いただけ。行程表には書けない一日です。
閉じこめられて過ごす試験では、JAXAから一人ずつ、内緒の指令が出る。時計を壊せとか、トイレを詰まらせろとか、仲間どうしで疑い合うように仕向けるやつ。六太に来たのは、一日に二回、いきなり叫べ。
ほかの人の指令は物が壊れるから犯人捜しになるのに、六太のは、ただ変な人だと思われて終わる。損な役なんです。それでも六太はやる。僕はここで声を出して笑って、好きが一段増えました。
それから、合格したあとの訓練で、小さな衛星を作る大会がある。サポートについた技術者のピコは、最初まるで何もしない。でも六太の中に技術者の根っこがあるって気づいてから、助言をくれる側に回るの。六太は前に出るより先に、周りの大人の目を覚ましていく。」[5]
いまのところ、私は少し笑ってしまいました。ああいう寄り道は、事業の計画書には書けませんね。
書けないです。書けないのに、あとから見ると近道なんですよ。
損な役を引き受けられる人は、組織の宝です。私の会社にも……いえ、これは自慢になってしまいます。
たしかに、ちょっと自慢でした。
ふふ。失礼しました。
僕もいま、小さい旅の企画を一人で組んでて。まだノートの中だけだけど。
それなら、まず話の分かる人を紹介して、それから資金のほうも……
タカシさん。
……いえ。今日はやめておきます。つい、何か出したくなってしまいますね。
ピコの最初のほうでお願いします。黙って見てるやつ。
黙って見ている、というのは、いちばん難しい応援です。私も若い人に、先に答えを渡してしまったことが何度もあります。
中盤まで中盤の展開(宇宙飛行士になってから)押すと開きます
ハル「宇宙飛行士になった六太に、国際宇宙ステーションへ行くためのバックアップクルーの話が来る。推薦状もたくさん集まって。でも六太は断った。弟と月で会おうって誓ったことと、子どものころから世話になってるシャロンさんの月の望遠鏡の夢があるから、行きたいのは月なんだって。
それで、その席をせりかさんに譲る。せりかさんは、お父さんの命を奪ったALSの新しい薬の実験をするために、ずっとISSだけを目指してきた人だから。
僕が何度も読み返したのは、ここです。自分が早く宇宙へ行くより、行くべき人の背中を押す。勝つほうじゃなくて、助けるほうを選んだんだと思う。」[6]
私は、そこを少し違うふうに読みました。
え、どう読みました?
助けた、というより、順番を選んだのだと思います。どの約束を先に守るかを、自分で決めた。上に立つ人間から見ると、ああいう決め方は少し怖いものです。
怖い?
ええ。こちらの描いた道を、本人が選び直すのですから。……ただ、理由をはっきり言える人は信用できます。私も、部下に一度選び直されて、救われたことがあります。
順番か。僕、助けたってところで止まってた。タカシさんの読みだと、六太の欲張りなところが見える。
欲張り、ですか。
月も、弟も、シャロンさんの夢も、仲間の夢も、全部持っていこうとしてる。
中盤まで中盤の展開(月面基地の部署で)押すと開きます
ハル「六太が回されたのは、月面基地の開発の部署。月を走るバギーの事故をどうなくすかで、みんな頭を抱えてる。そこで六太が思いつくのが月面ナビ。しかもそれを、前に勤めてた車の会社とJAXAが一緒に形にする。
頭突きした役員の間寺さんも、宇宙飛行士になった六太を認めて、仲直りする。月を走る探査車の技術を、会社をあげて手伝うって。条件が、娘に新田さんのサインを贈ること、っていうのもいい。
車の設計をしてた時間が、月の道につながった。遠回りは消えないんだって、何回でも言いたい。」
タカシ「仲直りのところは、私には少しうらやましく読めました。昔ぶつかった相手と、あとでもう一度仕事ができる。現場では、なかなか起きないことです。」
ハル「タカシさんにも、そういう人がいるんですか。」
タカシ「……それは、また今度にしましょう。」[7]
……僕、さっきから早口ですよね。
いいえ。歩く速さと同じでしたよ。
商店街を抜けると、線路沿いの細い道に出た。三両の電車が一本、二人を追い越していった。
中盤まで中盤の展開(キャプコムのころ)押すと開きます
ハル「月から戻ったあとの日々人に、周りはだんだん冷たくなる。ある日、日々人は兄に、月にはもう行けないかもしれないって打ち明けて、そのまま姿を消す。
六太はそのころ、月にいる仲間と地上をつなぐ交信役、キャプコムに選ばれて訓練の真っ最中。弟が心配で、訓練に身が入らなくなる。そこで支えたのが、訓練教官だったビンスの家族と、あのピコ。
主人公が崩れかけたとき、周りの人が物語を前に押す。僕が追いかけてる場面のきれいな形が、ここにあります。」[8]
あそこ、僕は電車で読んでて、降りる駅をひとつ過ぎました。
ハルさんらしい乗り過ごし方です。
添乗でも、一人そろわないとバスは出せない。全員そろうまでの十分が、いちばん大事で。
その十分を待てるかどうかで、上に立つ人の器が分かる気がします。私は、待てないほうの人間でした。
六太がずっと待ってた時間も、その十分みたいなものかも。
結末・正体終盤の展開(ISSをめぐって)押すと開きます
ハル「NASAのマネージャーのゲイツは、とにかく安全と効率の人で、六太を月に降りるクルーに入れる代わりに、ISSをやめる話に手を貸せって持ちかける。ISSは、せりかさんが人生を賭けてる場所なのに。
でも、ゲイツのところには、ISSを続けてほしいっていう署名が思ってもみない数で届く。昔の友だちとの再会もあって、ゲイツは宇宙への熱を少しずつ取り戻していく。
正直に言うと、最初、僕はゲイツが嫌いでした。」
タカシ「私は、ゲイツのほうに肩入れしてしまいます。あの人は、パラシュートが開かずに宇宙飛行士が亡くなった事故のあと、前任者が責任を取って辞め、繰り上がりで座った人です。安全と数字ばかり言うようになるのは、私には自然に見えました。」
ハル「……そっか。座りたくて座った椅子じゃないんだ。」[9]
タカシさんがゲイツの側なの、ちょっと意外でした。
昔の国でも、負けた戦のあとに後を継いだ者は、たいてい……いえ。そちらへ行くところでした。
行ってもいいですよ。
今日は、六太さんの話です。
六太さん。……ちょっと笑いました。
結末・正体結末に近い展開押すと開きます
ハル「六太は、曲者ばかり集まったバックアップクルー『ジョーカーズ』の一人になる。いろいろあって、そのジョーカーズが月へ行くミッションに選ばれて、月の基地に着いた六太たちを、先に月にいた同期が迎えるところまで描かれる。
シャロンさんは病気が進んで、ピアノも声も失っていく。それでも、月にシャロンさんの名前の望遠鏡を建てる話は、ちゃんと決まる。兄弟が小さいころから世話になってきた人の夢を、六太は月まで運んでいく。
最終話の中身は、ここには書きません。読み終わったあと、僕は昼休みの残りの十分、スマホを伏せて窓の外を見てました。」[10]
そうでしたか。……それは、約束を後ろから押してもらう話でもありますね。
さっきの順番の話と、つながりました。
線路沿いの道が終わり、ハルの住む町の駅の明かりが見えてきた。タカシは腕時計のない手首を一度見て、それから駅前の時計を見上げた。
一時間、ちょうどでした。
時間どおりです。……仕事の癖で、つい。
最後に一つだけ、うかがっても。六太さんのどこが、ハルさん自身にいちばん効きましたか。
一歩目を、自分ひとりで出さなくてもいいところ、かな。
弟が背中を押して、星加さんが名前を覚えてて、ピコが目を覚ます。六太は、出してもらった一歩を、最後まで歩ききった人なんです。
出してもらった一歩を、歩ききる。
僕のノートの企画も、いつか誰かに押してもらう日が来ると思う。そのときまで、タカシさんはピコの最初のほうでいてください。
承知しました。黙って、見ています。
改札の前で、二人はそれぞれの袋からトマトを出しかけて、同じ顔で笑った。タカシは胸ポケットのメモ帳に、小さく「水曜」とだけ書いた。
次の水曜も、ここを歩きます。タカシさんの時間が残ってたら、最終話の話、そのとき聞いてくれますか?