十月の木曜、昼すぎ。川沿いの公園のベンチで、ルカは配達の合間の時間を使って、文庫を一章だけ読んでいた。膝の上には、手を温めるためだけに買った缶のミルクティー。川面を渡ってくる風が、もう少し冷たい。
砂利を踏む足音が、ベンチの前で止まった。白い外套に白い手袋、細い銀縁の眼鏡。トキワは深く一礼し、ベンチの反対の端に腰を下ろすと、革の手帳を開いた。外套のポケットから、漫画の単行本が一冊のぞいている。
トキワ様。お仕事の途中で。
仕事の途中です。この先の通りを、歩いて確かめに行くところです。あなたは。
配達の合間です。次のお届け先まで、四十分ほど。
四十分。承知しました。
トキワは手帳に一行だけ書き、ペンを止めた。ルカの視線が、外套のポケットの単行本に落ちる。
そちらの本は。
『DEATH NOTE』の第一巻です。全巻はホテルの机にあります。持ち歩くために、駅前の書店でこの一冊をもう一度買いました。
名前を書くと、その方が亡くなるという。一巻だけ、以前、仕事先の休憩室で拝見いたしました。
ルカの膝の上の文庫は、裏表紙が上を向いていた。そこに刷られたあらすじを、ルカの親指がきちんと隠している。
確認します。あなたは今も、あらすじを指で隠しています。この先を、結末まで申し上げてよろしいですか。
……構いません。トキワ様のお話でしたら、伺います。
では、入口から。主人公は夜神月。父親は警察の幹部で、本人は誰もが認める秀才の高校生です。ある日、高校の敷地で黒いノートを拾います。[1]
名前を書かれた人間が死ぬノートです。月はそれを使い、罪を犯した者の名を書き続けます。世の中は、姿の見えないその執行者をキラと呼びはじめます。[1]
各国の警察は、一人の探偵に調べを頼みます。どの事件も解決に導いてきたのに、誰も顔を知らない人物。それがLです。[1]
Lはキラの人物像を、二つの条件で絞ります。頭脳の優れた学生。身内に、捜査の状況を知り得る者がいる。[1]
出だしの数頁で、もう欄が二つ埋まっています。私がこの人物から目を離せなくなったのは、そこです。
欄、と申しますと。
推理小説を読むとき、私は手帳の後ろに、誰が、いつ、どこにいたかの表を作ります。Lは、その表を作るのが誰よりも速い人物です。
見た目は、こうです。目の下に隈があり、白い長袖のシャツにジーンズ。椅子には、膝を抱えて座ります。[2]
その座り方でなければ、推理の力が四割も落ちる。本人はそう言います。[2]
……そのお姿で、どこで眠っていたのでしょう。
眠る場所。……書き取ってよろしいですか。
どうぞ。
同じ座り方のまま眠ります。食事らしい食事の場面は、作中にゼロです。甘い物の間食は欠かさず、紅茶にも砂糖を山のように入れます。[2]
寝床も、温かいお食事もお持ちにならない方なのですね。それで、あれほど働けるものでしょうか。
本人の説明では、頭を使っているから太らないそうです。[2]
ルカは缶を両手で持ち直し、背筋をまっすぐに伸ばした。口の端が、ほんの少しだけ上がって、すぐに戻った。
もう一つあります。Lは誰に対しても敬語で話し、自分のことを私と言います。例外は、そばに置く補佐役のワタリただ一人です。[2]
私も、誰に対しても丁寧語で話します。物語の中で、自分と同じ欄に入る話し方を見つけることは、まれです。
恐れながら、トキワ様は膝を抱えてはお座りになりません。
座りません。推理の力が四割落ちても、姿勢は落としません。
ルカは咳払いを一つして、川のほうへ顔を向けた。トキワは手帳から目を上げないまま、次の頁をめくった。
原作者は、解説の巻の問答で、登場人物のなかで最も頭がいいのは誰かと問われ、Lだと答えています。漫画の設定の都合で、そうでなくては困るのだと。[2]
設定の都合、と。
都合です。決まりの上で最も賢い者として置かれ、最後までその置かれ方を崩さない。私はこの答えに、深く同意します。
もう一つ。この漫画では、ノートの使い方の決まりが、単行本の各話の終わりに書き添えられています。本編には出てこない決まりも、そこにあります。[1]
私は、話の続きより先に、その決まりの頁を全部読みました。決まりが先に揃っていると、人の動きの誤りが見えます。
決まりのほうから。トキワ様らしい読み方です。
順番の問題です。決まりを読んでから、人を読みます。
ここから、中身に入ります。三か所、畳んで申し上げます。
中盤まで中盤の展開(第1巻のあたり)押すと開きます
トキワ「Lが最初に打つ手です。全世界に同時に流れるという特別な生中継に、Lを名乗る男が出てきます。男はキラを悪だと言い切り、必ず捕まえると宣言します」
トキワ「その男はLではありません。ひそかに捕らえられていた死刑囚で、取引に応じて身代わりを引き受けた人物です。男は、その中継の途中で倒れます」
トキワ「そして、全世界に同時に、というのは偽りでした。中継は、日本の関東地区にしか流れていなかった。キラはその地域にいる。手を下さずに殺せる。ただし、顔と名前の分からない相手は殺せない。一度の中継で、表の欄が三つ埋まります」
トキワ「正直に申し上げます。私は、この一手を正しいとは書けません。人を一人、身代わりに立てています。それでも私は、この頁で手を止めずに、次の頁をめくりました」[3]
拝読いたしました。
異議があれば、どうぞ。
異議というほどではございません。あの頁に出てくる方の、その前の晩のことを考えておりました。
前の晩。その欄は、作中では空白です。
次の手です。ここは、Lの大胆さの頁です。
中盤まで中盤の展開(第一部の前半)押すと開きます
トキワ「Lは捜査の仲間にも、補佐役にまでも、自分を竜崎と呼ばせます。そして、疑いをかけた月と同じ大学に入ります」
トキワ「入学試験は全教科で満点。月と並んで首位で合格し、入学式では、二人そろって新入生の代表として挨拶をします。大学での偽名には、物語の中の人気アーティストの名を、そのまま借ります。月をあおるためです」
トキワ「疑っている相手の前に、自分の顔をさらす。書類の上だけで済ませずに、自分の足で確かめに行く。私は、この人物の欄に一行書き足しました」[2]
大胆な方です。
大胆です。ただし、Lの手順には誤りもあります。隠し撮りも盗み聞きもためらわず、そのやり方のせいで、捜査の仲間とたびたびぶつかります。[2]
正しい手続きを踏まない者を、私はふつう、誤りの欄に入れます。Lだけは、その欄からはみ出します。
失礼ながら。
疑われる側は、どこにいても見られております。眠るときも、食べるときも。その方が本当に何もしていなかったら、と、私はどうしても考えてしまうのです。
見られる側。私の手帳の表には、ない欄です。
そしてLの表でも、その欄は空いたままです。Lは、作中で口にする以上には、正義というものにこだわらない人物です。手がけるのも、自分の興味を引いた事件だけです。[2]
では、何のために追うのでしょう。
負けたくないからです。Lは自分のことを、幼稚で負けず嫌いだと言います。どれほど小さな勝負でも負けを嫌い、どれほど小さな疑問でも、途中で放さない人物です。[2]
勝ち負けのために、人の暮らしをのぞくのですか。
のぞきます。そこに、私は異議を書きます。そのうえで、Lの疑いは当たっています。
結果が正しければ、手段は問われない、と。
問われます。手段の欄と結果の欄は、別々に書きます。Lの手段の欄には、異議。結果の欄には、異議なし。同じ一人の人物に、欄が二つ要ります。
……左様でございますか。
先に申し上げておきます。私は月を、正しい側の人間として読みます。この読み方には、たいてい誰かが反対します。
それは、違います。
前置きのない一言だった。トキワのペンが止まり、それから同じ速さで動きだした。
違う。反対の意見は、消さずに残します。保留の欄ではなく、反対の欄に。
それでも、私が目を離せないのはLです。正しい側に誰を置くかと、誰の手順を書き写したいかは、別の欄です。
三つ目です。この作品で、私がいちばん長く手を止めた頁です。
中盤まで中盤の展開(第一部の後半)押すと開きます
トキワ「やがて、第二のキラが現れます。正体は、人気のアイドルの弥海砂。Lは物証をもとに、彼女を捕らえて閉じこめます」
トキワ「月は、自分も閉じこめてほしいとLに願い出ます。数日ののち、月と海砂は、ノートに関わることを何一つ覚えていない状態になっています。二人は疑いを強く否み続け、そのあいだに、外で第三のキラが動きはじめます」
トキワ「Lは困惑します。私の読みでは、並べた表が合わなくなった者の困惑です。私は、この困惑の場面で、頁をめくる手を止めました」
トキワ「そして月とLは、手を組んで第三のキラの正体を追うことになります。疑う者と疑われる者が、同じ机で、同じ表をのぞきこむ」[1]
……私には、少し苦しい頁でした。
苦しい頁。その言葉は、控えておきます。
Lのおそばの、ご老人の方は。
ワタリです。Lの右腕で、Lの代わりに各地へ出向き、さまざまな人と会います。初めのうちは、コートと帽子で顔を隠していました。[3]
ご本人の代わりに出向いて、相手の顔を見て帰る方。私の仕事に、少しだけ似ております。
お届け先の顔。あなたの仕事の控えに、その欄はありますか。
伝票にはございません。覚えておくだけです。
川の上を、遊覧の船がゆっくり下っていった。トキワは手帳を一枚めくり、ページの端を指でそろえた。
ここから先は、第一部の終わりです。二つ、畳みます。
伺います。
結末・正体結末(第一部の終わり)押すと開きます
トキワ「第一部の終わりで、Lはワタリとともに命を落とします。二人の名をノートに書いたのは、レムです。海砂の先行きを案じたことが、その理由でした」
トキワ「最後にLの目に映ったのは、月の顔でした。卑しく笑う顔です。それを見てLは、自分の読みが当たっていたことを、声には出さずに確かめます」
トキワ「Lは、自分のパソコンに仕掛けを残していました。一か月のあいだ誰も触れなければ、自分の死を、ある施設の院長に知らせる仕掛けです。自分がいなくなったあとの動きを、Lはそうやって次の者に託していました」
トキワ「私が手帳を閉じたのは、その頁です。手段の欄の異議を、私は最後まで消さずに残しました。結果の欄には、異議なしと書きました」[2]
結末・正体結末(ワタリの正体)押すと開きます
トキワ「ワタリの正体も、第一部の最後に明かされます。かつて名を知られた発明家で、その資金で世界のあちこちに孤児院を建てていた人物です」
トキワ「ワタリは、自分の命が尽きる間際に、コンピュータの中のデータを一つ残らず消していきます」
ルカ「……ご本人の代わりに歩いていた方が、最後に、ご自分の控えを消して行かれたのですね」
トキワ「消しました。残す者と、消す者が、並んで働いていた。私は、その二人の並び方を書き写したいと考えます」[3]
畳まれたところ、二つとも拝読いたしました。
私がLの手順を書き写したいのは、Lが正しかったからではありません。誤った手段を使ってでも、最後まで疑問を手放さなかったからです。
では、私はやはり、ワタリ様のほうを。……お届けする側の者ですので。
ワタリ。あなたの欄に、そう書いておきます。
ルカは腕の時計に目をやり、缶のミルクティーを配達バッグの脇のポケットに差した。中身は、ほとんど減っていなかった。
そろそろ参ります。次のお届け先が、少し遠いものですから。
トキワは手帳を閉じた。右手の手袋を外し、外套のポケットから単行本を抜いて、表紙をルカのほうへ向けて差し出した。
この一冊を、あなたに預けます。裏表紙のあらすじは、指で隠さずに読んでいただいて結構です。返す日は定めません。以上です。