昼の回の暗転を見届けて、カグラがロビーに戻ってくる。売店の横のベンチでは、ハヤテが膝の上で両手をハンドルの形にしたまま、目を閉じていた。前に二人で最後列から空の映画を観てから、ハヤテはときどき、この館の日曜に顔を出す。
ハヤテさん、お待たせしました。……いま、どこかのコースを一周していました?
いえ、今日はコースじゃなくて、映画です。前に家で観た一本を、思い出してました。
映画を一周。どの映画でしょう。
『REDLINE』っていう、アニメの映画です。……学校でも、カートの仲間でも、観たって人に会ったことがないです。
題名だけは知っています。でも、私はまだ観ていません。どこで、どの画面で観ました?
家のテレビです。一年遅れた年の冬に、夜、配信でレースの映画を探していて見つけました。タイヤを磨きながら、横目で。
横目で始まった映画。私、最初の数分で観る人の姿勢が変わる映画が好きで。
変わりました。走り出してすぐ、ウエスを置きました。あの速さ、全部、手で描いてあるので。
ハヤテは右手を少し持ち上げて、画面の端から端へ、線を一本ずつ引くような手つきをした。
十万枚。……映写の目で言うと、手で描いた線は、大きい画面にかけると少しだけ呼吸して見えるものです。その映画も、線が震えていませんか。
震えてます。僕には、ぶれてるというより、エンジンの振動みたいに見えました。
振動。ハヤテさん、また体の話になりました。
……すみません。でも、観ていると、膝の上の手が勝手に動きます。
誰かに、すすめてみたことは?
一人だけ。カートの仲間に、最初のところだけでも、って言いました。次の日、リーゼントしか覚えてない、って返ってきて。
リーゼントは、覚えますよ。私も題名より先に、そこを覚えると思います。
どんなお話なんですか。あ、結末は言わないでくださいね。私、予告も観る日までに二回しか観ないことにしているので。
遠い未来の話です。主人公はJPっていうレーサーで、見た目はとにかく大きなリーゼント。トランザムっていう名前の車で走ってます。[1]
それで、呼び名が『スウィート』です。[1]
レーサーなのに、やさしい。呼び名のほうを先に好きになりそうです。
レッドラインっていう、銀河のレーサーが目指す大きなレースがあって。JPは、そこへの最後の予選で負けてしまう。[1]
でも、開催地がとても物騒な星に決まって、出るはずの二人が辞退して、観ている人たちの投票で、JPが出られることになるんです。[1]
投票で。客席が、選手を連れてくる。……その始まり方は、ちょっとうらやましいです。
でも、僕がいちばん好きなのは、JPじゃなくて。
ハヤテは手のひらを上に向けて、何かを受け取るような形を作った。工具を渡されるときの手だ、とカグラは思った。
JPのうしろにいる二人です。相棒のメカニックのフリスビーと、ジャンク屋のもぐらオヤジ。JPは、この二人とチームで走ります。[1]
やっぱり、そっちを見るんですね。前に観た空の映画でも、ハヤテさん、整備の人の手もとばかり見ていました。
はい。……ただ、フリスビーは、きれいなだけの相棒じゃなくて。
最初の場面から、悪い人たちの親分と組んで、JPのレースの結果を裏で決めてしまっています。JPの車をいちばん触っている人が、です。[1]
……それは、観ていてつらいですね。
僕、そこで一回、止めました。カートでいうと、ナットを一本だけ、わざと緩めておくようなことなので。乗る側は、走り出すまで気づけない。
それでも、続きを押した。
僕、手を止めたまま、少し考えました。フリスビーが、どこでレンチを置くのか。それが知りたくて、続きを押しました。
もぐらオヤジのほうは、フリスビーのことを、よく思っていません。それでも三人は、同じチームとして走ることになります。[1]
信じていいか分からない人と、文句を言う人を、両方乗せて走る。……劇場の朝の打ち合わせみたいです。
打ち合わせ、ですか。
映写と音響と売店で、言い分が全部ちがうんです。でも、暗転は一回しかないので、最後は同じきっかけに手を合わせます。
……チームです、それ。
僕は、走っている時間と同じくらい、走る前の準備が好きです。最後に誰かが車体をぽんと叩いて、行ってこい、ってしてくれる時間。だから、その人が嘘をついている話は、本当に怖かった。
その怖さを分かったうえで、それでも推すんですね。
……この先は言いません。でも僕は、あの映画を、走る人と同じくらい、うしろで手を動かす人の話として観ました。
うしろで手を動かす人。……劇場の仕事も、そっち側です。暗くするきっかけを出す人の顔は、お客さんからは見えないので。
私、子どものころ、町の小さな映画館で、物語を客席の頭の動きで覚えました。前を観ている人たちの、うしろ姿で。だから私も、うしろが好きなのかもしれません。
前に来たとき、暗くなるまでの長さ、数えました。二回とも、同じでした。
カグラは声を出して短く笑い、口元を手で隠した。場内の癖だった。
数えてたんですか。お客さんの目が慣れる長さに、毎回そろえているんです。……見られていたとは。
声は、JPが木村拓哉さんで、フリスビーが浅野忠信さんです。[2]
お二人とも、うちのスクリーンで何度も顔を見てきた方です。声だけで聴くのは、私には初めてになります。
顔、ありますよ。絵の顔ですけど。
あと、ソノシーっていうレーサーがいて、最後の予選で勝ったのは、この人です。JPと同じ大レースに出ます。[1]
客席の目で一つだけ聞かせてください。あの映画、大きい画面で観たら、どうなると思います?
分かりません。僕、テレビでしか観ていないので。……でも、僕が手で感じた振動は、たぶん椅子まで来ます。
最初の上映が外国の映画祭だったことだけは、覚えていました。題名を聞いたとき、そこだけ引っかかって。[2]
2009年、第62回ロカルノ国際映画祭でワールドプレミア。日本公開は2010年10月9日
劇場の人間は、作品がどこで最初に暗くなったかを、つい覚えてしまうもので。
話を書いた人は、石井克人さんです。脚本は、ほかに二人と一緒に書いています。[1]
書く人も、描く人も、うしろにいる人。今日のハヤテさんの話は、最初から最後まで、うしろの話でした。
次の回の入場の案内が、ロビーに流れた。カグラは胸ポケットの小さな懐中電灯に指を当て、立ち上がりかけて、座り直した。
観ます。家の、いちばん暗くできる部屋で。……ただ、条件があります。
条件、ですか。
観終わったら、ハヤテさんがどこで一回止めたのか、私が同じところで止まったかどうか、答え合わせをさせてください。私はたぶん、音のところで止まるので。
じゃあ僕は今夜、もぐらオヤジの手だけを見て、もう一回観ます。
ハヤテは膝の上で、もう一度ハンドルの形を作った。目を閉じる前に、ロビーの時計を一度だけ見た。