日常

うしろで工具を持つ人のレース映画

ネタバレの範囲 ネタバレなし アニメ映画『REDLINE』の始まりの設定(主人公JPが予選に敗れ、観客の投票で大レースに出ることになる。相棒のメカニックが裏で結果を決める取り引きをしている)と、制作の基本情報まで。レースの行方と結末には触れません

シリーズ『わたしだけの推し』。たぶん周りで誰も観ていない、手描きのレースアニメ映画がある。日曜の昼の回が始まったロビーで、ハヤテがカグラに話したのは、速いレーサーのことより、そのうしろで工具を持つ二人のことでした。

こんな人に
レースや乗り物のアニメが好きで、手で描かれた絵の速さを観てみたい人へ。走る人より、うしろで工具を持つ人のほうが気になる人にも。
話している人
ハヤテ × カグラ
映画館の帰り シネコンのロビーの端、売店の横のベンチ 十月の日曜、昼の回が始まったあと

昼の回の暗転を見届けて、カグラがロビーに戻ってくる。売店の横のベンチでは、ハヤテが膝の上で両手をハンドルの形にしたまま、目を閉じていた。前に二人で最後列から空の映画を観てから、ハヤテはときどき、この館の日曜に顔を出す。

カグラ

ハヤテさん、お待たせしました。……いま、どこかのコースを一周していました?

ハヤテ

いえ、今日はコースじゃなくて、映画です。前に家で観た一本を、思い出してました。

カグラ

映画を一周。どの映画でしょう。

ハヤテ

『REDLINE』っていう、アニメの映画です。……学校でも、カートの仲間でも、観たって人に会ったことがないです。

カグラ

題名だけは知っています。でも、私はまだ観ていません。どこで、どの画面で観ました?

ハヤテ

家のテレビです。一年遅れた年の冬に、夜、配信でレースの映画を探していて見つけました。タイヤを磨きながら、横目で。

カグラ

横目で始まった映画。私、最初の数分で観る人の姿勢が変わる映画が好きで。

ハヤテ

変わりました。走り出してすぐ、ウエスを置きました。あの速さ、全部、手で描いてあるので。

ハヤテは右手を少し持ち上げて、画面の端から端へ、線を一本ずつ引くような手つきをした。

ハヤテ

何年もかけて、手で描いた絵が十万枚を超えたそうです。監督の小池健さんにとっては、初めて自分で監督した長い映画で。[1]

製作期間7年、手描きの作画10万枚。マッドハウス制作

カグラ

十万枚。……映写の目で言うと、手で描いた線は、大きい画面にかけると少しだけ呼吸して見えるものです。その映画も、線が震えていませんか。

ハヤテ

震えてます。僕には、ぶれてるというより、エンジンの振動みたいに見えました。

カグラ

振動。ハヤテさん、また体の話になりました。

ハヤテ

……すみません。でも、観ていると、膝の上の手が勝手に動きます。

カグラ

誰かに、すすめてみたことは?

ハヤテ

一人だけ。カートの仲間に、最初のところだけでも、って言いました。次の日、リーゼントしか覚えてない、って返ってきて。

カグラ

リーゼントは、覚えますよ。私も題名より先に、そこを覚えると思います。

カグラ

どんなお話なんですか。あ、結末は言わないでくださいね。私、予告も観る日までに二回しか観ないことにしているので。

ハヤテ

遠い未来の話です。主人公はJPっていうレーサーで、見た目はとにかく大きなリーゼント。トランザムっていう名前の車で走ってます。[1]

ハヤテ

それで、呼び名が『スウィート』です。[1]

カグラ

レーサーなのに、やさしい。呼び名のほうを先に好きになりそうです。

ハヤテ

レッドラインっていう、銀河のレーサーが目指す大きなレースがあって。JPは、そこへの最後の予選で負けてしまう。[1]

ハヤテ

でも、開催地がとても物騒な星に決まって、出るはずの二人が辞退して、観ている人たちの投票で、JPが出られることになるんです。[1]

カグラ

投票で。客席が、選手を連れてくる。……その始まり方は、ちょっとうらやましいです。

ハヤテ

でも、僕がいちばん好きなのは、JPじゃなくて。

ハヤテは手のひらを上に向けて、何かを受け取るような形を作った。工具を渡されるときの手だ、とカグラは思った。

ハヤテ

JPのうしろにいる二人です。相棒のメカニックのフリスビーと、ジャンク屋のもぐらオヤジ。JPは、この二人とチームで走ります。[1]

カグラ

やっぱり、そっちを見るんですね。前に観た空の映画でも、ハヤテさん、整備の人の手もとばかり見ていました。

ハヤテ

はい。……ただ、フリスビーは、きれいなだけの相棒じゃなくて。

ハヤテ

最初の場面から、悪い人たちの親分と組んで、JPのレースの結果を裏で決めてしまっています。JPの車をいちばん触っている人が、です。[1]

カグラ

……それは、観ていてつらいですね。

ハヤテ

僕、そこで一回、止めました。カートでいうと、ナットを一本だけ、わざと緩めておくようなことなので。乗る側は、走り出すまで気づけない。

カグラ

それでも、続きを押した。

ハヤテ

僕、手を止めたまま、少し考えました。フリスビーが、どこでレンチを置くのか。それが知りたくて、続きを押しました。

ハヤテ

もぐらオヤジのほうは、フリスビーのことを、よく思っていません。それでも三人は、同じチームとして走ることになります。[1]

カグラ

信じていいか分からない人と、文句を言う人を、両方乗せて走る。……劇場の朝の打ち合わせみたいです。

ハヤテ

打ち合わせ、ですか。

カグラ

映写と音響と売店で、言い分が全部ちがうんです。でも、暗転は一回しかないので、最後は同じきっかけに手を合わせます。

ハヤテ

……チームです、それ。

ハヤテ

僕は、走っている時間と同じくらい、走る前の準備が好きです。最後に誰かが車体をぽんと叩いて、行ってこい、ってしてくれる時間。だから、その人が嘘をついている話は、本当に怖かった。

カグラ

その怖さを分かったうえで、それでも推すんですね。

ハヤテ

……この先は言いません。でも僕は、あの映画を、走る人と同じくらい、うしろで手を動かす人の話として観ました。

カグラ

うしろで手を動かす人。……劇場の仕事も、そっち側です。暗くするきっかけを出す人の顔は、お客さんからは見えないので。

カグラ

私、子どものころ、町の小さな映画館で、物語を客席の頭の動きで覚えました。前を観ている人たちの、うしろ姿で。だから私も、うしろが好きなのかもしれません。

ハヤテ

前に来たとき、暗くなるまでの長さ、数えました。二回とも、同じでした。

カグラは声を出して短く笑い、口元を手で隠した。場内の癖だった。

カグラ

数えてたんですか。お客さんの目が慣れる長さに、毎回そろえているんです。……見られていたとは。

ハヤテ

声は、JPが木村拓哉さんで、フリスビーが浅野忠信さんです。[2]

カグラ

お二人とも、うちのスクリーンで何度も顔を見てきた方です。声だけで聴くのは、私には初めてになります。

ハヤテ

顔、ありますよ。絵の顔ですけど。

ハヤテ

あと、ソノシーっていうレーサーがいて、最後の予選で勝ったのは、この人です。JPと同じ大レースに出ます。[1]

カグラ

客席の目で一つだけ聞かせてください。あの映画、大きい画面で観たら、どうなると思います?

ハヤテ

分かりません。僕、テレビでしか観ていないので。……でも、僕が手で感じた振動は、たぶん椅子まで来ます。

カグラ

最初の上映が外国の映画祭だったことだけは、覚えていました。題名を聞いたとき、そこだけ引っかかって。[2]

2009年、第62回ロカルノ国際映画祭でワールドプレミア。日本公開は2010年10月9日

カグラ

劇場の人間は、作品がどこで最初に暗くなったかを、つい覚えてしまうもので。

ハヤテ

話を書いた人は、石井克人さんです。脚本は、ほかに二人と一緒に書いています。[1]

カグラ

書く人も、描く人も、うしろにいる人。今日のハヤテさんの話は、最初から最後まで、うしろの話でした。

次の回の入場の案内が、ロビーに流れた。カグラは胸ポケットの小さな懐中電灯に指を当て、立ち上がりかけて、座り直した。

カグラ

観ます。家の、いちばん暗くできる部屋で。……ただ、条件があります。

ハヤテ

条件、ですか。

カグラ

観終わったら、ハヤテさんがどこで一回止めたのか、私が同じところで止まったかどうか、答え合わせをさせてください。私はたぶん、音のところで止まるので。

ハヤテ

じゃあ僕は今夜、もぐらオヤジの手だけを見て、もう一回観ます。

ハヤテは膝の上で、もう一度ハンドルの形を作った。目を閉じる前に、ロビーの時計を一度だけ見た。

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