日常

欲を捨てずに磨いた武将の話

ネタバレの範囲 ネタバレなし アニメ『へうげもの』の始まりの設定(信長の家臣・古田左介が、出世の欲と茶の湯と美しい物を愛する欲のあいだで揺れる。師は千利休)と、実在の古田織部についての基本の事実、制作の基本情報まで。物語の展開と、主人公の行く末には触れません

シリーズ『わたしだけの推し』。朝稽古のあとの縁側で、ゴウが師の竜山に一本のアニメを差し出す。主人公は、手柄より茶碗ひとつで顔色を変える戦国の武将。侍の話が好きなゴウが、最初は腹を立て、そのうち笑ってしまった作品でした。

こんな人に
時代劇は好きだけれど、合戦の話は少し食傷ぎみ、という人へ。器や道具、手仕事の話が好きな人にも。
話している人
ゴウ × 竜山
ある日 下町の空手道場の縁側 十月の土曜、朝稽古のあと

朝稽古を終えた弟子たちが帰って、道場が静かになった。竜山が縁側に座布団を二枚出し、急須から湯呑みに茶を注ぐ。その向かいで、ゴウが正座していた。背筋は、稽古の最中と少しも変わらない。

竜山

おう、ゴウ。今日は帰らんのか。

ゴウ

押忍。先生、本日はご報告にうかがいました。以前、先生に『七人の侍』を勧めていただきました。今日は、私のほうから一本、お持ちしたものがございます。

竜山

ほう。お前さんのほうから。珍しいこともあるもんじゃ。

ゴウ

『へうげもの』というアニメです。漫画が元になっていて、テレビで放送されたものです。大学の図書館の、映像の棚の端で見つけました。借りている学生を、私は見たことがございません。[1]

アニメは2011年4月〜2012年1月、NHKのBSで全39話。監督 真下耕一、制作 ビィートレイン。原作は山田芳裕の漫画(『モーニング』で2005〜2017年連載、全25巻)

竜山

へうげもの。……妙な題じゃ。

ゴウ

主人公は、古田左介という武将です。織田信長の家臣で、茶の湯と、美しい物に心を奪われております。出世したいという欲と、美しい物を愛でたいという欲のあいだで、ずっと揺れている男です。[1]

竜山

古田左介。……のちの古田織部じゃな。[3]

ゴウ

ご存じでしたか。

竜山

利休の弟子で、茶人として名を残した人じゃ。本で読んだだけじゃがのう。[3]

ゴウ

このアニメの左介は、先生が本で読まれた人より、ずっと情けない男です。

竜山

うむ?

ゴウ

名品を前にすると、我を忘れる男です。私には、戦の手柄より、茶碗ひとつのほうで顔色が変わるように見えました。最初は、武将としてこれで良いのかと、正直、腹が立ちました。

竜山

お前さんらしい。で、腹が立ったまま観たんか。

ゴウ

いえ。何話か観たところで、見方が変わりました。私には、左介が、物を見る目にだけは嘘をつかない男に見えたのです。欲しいものは欲しい、美しいものは美しいと言う。そこには一本、筋が通っていると感じました。

竜山

欲に正直、か。

ゴウ

押忍。私は、侍とは欲を捨てる者だと思っておりました。この男は、欲を捨てずに、欲のほうを磨いていく。私には、それが一つの流儀に見えました。

竜山

欲を磨く。……ええ言い方じゃ。

ゴウ

私が手本にしてきたのは、一度引き受けた仕事を、何も言わずにやり遂げる男です。迷いは顔に出さない。左介はその逆で、出世と美しい物のあいだで迷う心が、私には全部、顔に出ているように見えました。手本にはなりません。ですが、目が離せませんでした。

竜山

迷いを隠さんのは、弱いからとは限らん。強い者ほど、欲しいもんを欲しいと言わんようになる。言うたら負けじゃと思うてな。左介は、言うてしまうほうか。

ゴウ

押忍。私には、言ってしまう男に見えました。

竜山

損をして笑える男は、しぶといぞ。

竜山は湯呑みを手のひらで回し、しばらく茶の色を眺めていた。庭の柿の葉が一枚、縁側の端に落ちた。

竜山

俺も若いころは、戸を直す職人をしとった。建て付けの悪い戸を、削って、合わせて、すっと閉まるようにする。昼はそれで食うて、朝と晩に道場を開けた。腕で食う者には、物を見る目が要るんじゃ。目の悪い職人の戸は、三日で鳴りだす。

ゴウ

存じませんでした。先生が、戸を。

竜山

言うとらんかったか。ほれ、冷めんうちに飲みなされ。

ゴウ

いただきます。

ゴウ

左介の茶の湯の師は、千利休です。欲の深い男にも、師がいる。私は、そこも好きです。[2]

竜山

信長と利休の時代を、刀やのうて茶碗のほうから見るわけか。

ゴウ

戦は、いつも画面の奥で鳴っているように、私には見えました。手前にあるのは、茶の湯と、左介の顔です。

竜山

ほう。大河とは、手前と奥があべこべじゃな。

ゴウ

先生のお好きな大河とは、逆の撮り方だと、私は観ました。

竜山

織部といやあ、焼き物にも名前が残っとる。織部焼じゃ。[4]

ゴウ

焼き物のことは、私には何も分かりません。ですが、左介が器を手に取るときの手つきだけは、何度も巻き戻して観ました。

竜山

手つきを観るのは、ええことじゃ。型と同じで、手は嘘をつかん。

ゴウ

観終わった晩、毎朝コーヒーを飲んでいる黒いマグを、初めてじっと眺めました。どこで焼かれたのかも知らない器です。左介なら、これを見て何と言うか。そう考えたら、ひとりで少し笑っていました。

竜山

器は、使う者が育てるもんじゃ。毎朝使うとれば、そのうちお前さんの顔になる。

ゴウ

この顔に、なりますか。

竜山

なる。ははは、怖い顔のマグになるわ。

ゴウ

左介の声は、大倉孝二さんです。私は、あの声の芝居が好きです。[2]

竜山

顔は浮かばんが、テレビで声を聞いたことはあるかもしれん。

ゴウ

原作の漫画は、大きな漫画の賞も受けております。[1]

第13回文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞、第14回手塚治虫文化賞マンガ大賞

竜山

賞はどうでもええ。お前さんが観て、背筋が伸びたかどうかじゃ。

ゴウ

伸びはしませんでした。笑いました。

竜山

ははは! お前さんが笑うたか。それなら、ええじゃないか。

ゴウ

はい。円盤を止めて、ひとりで、何度か。

ゴウは目をそらし、膝の上の拳を一度ひらいて、また握った。照れているのだと、竜山には分かった。

竜山

観よう。お前さんが笑うた話なら、外れはない。

ゴウ

図書館のものは、来週、私が借り直してまいります。

ゴウ

道場の者にも、一度だけ話してみました。茶の湯の話だと分かったところで、皆、半分の顔になって帰っていきました。たぶん、この道場で観ているのは、私ひとりです。

竜山

なら、二人目は俺じゃな。

ゴウ

先生。一つだけ、お聞きしてもよろしいでしょうか。

竜山

言うてみい。

ゴウ

欲を捨てずに磨くのと、欲に負けるのとは、どこで分かれるのでしょうか。

竜山

……うむ。それは、観てから答える。先に答えを言うたら、お前さんの楽しみが減るわ。

竜山

茶を、もう一杯淹れよう。

ゴウ

お待ちしております。

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