日常

スクーリングの体育館に師範が来た

ネタバレの範囲 ネタバレなし どの作品も、紹介文で分かる範囲まで。物語の展開と結末には触れません

月に数回の登校日。体育の時間は武道の体験だと聞いていたアカリが体育館に入ると、講師の席にいたのは、いつもの道場の師範と、顔の怖い先輩だった。礼はなぜ先なのか。昼休みには、三時間半の映画と、人を斬らない剣客の漫画の話になる。

こんな人に
説明のない決まりが苦手な人へ。自分の学校に、知っている大人が先生役で来てしまったことのある人にも。
話している人
アカリ × 竜山 × ゴウ
学校 通信制高校の体育館 スクーリングの日の三限、体育の時間

アカリの学校に生徒が集まるのは、月に数回のスクーリングの日だけだ。体育館にいるのは、十六歳のアカリと同じくらいの子もいれば、仕事の合間に来ている大人もいる。今日の体育は「武道の体験」と、案内の紙に一行だけ書いてあった。

ジャージに着替えて体育館に入ったアカリは、入口で足を止めた。舞台の前に、白い道着の小柄な老人が正座している。その横には、角刈りで肩幅の広い、どう見ても堅気には見えない若い男が、直立していた。

アカリ

……は? なんで師範がいんの。

竜山

おう、アカリ。ははは、驚いたか。今日の講師じゃ。学校から頼まれてのう。こっちは手伝いの、ゴウじゃ。

ゴウ

……押忍。

体育館のあちこちで、生徒たちが半歩ずつ下がった。ゴウの顔を見た人は、たいていそうなる。同じ班になった三十代くらいの男の人が、アカリに小声で聞いた。

同じ班の人

あの人、……大丈夫な人ですか。

アカリ

顔が怖いだけ。大学生。猫が好き。

ゴウ

……最後のは、言わなくていい。

竜山は立ち上がった。八十六歳とは思えない身軽さで、床の真ん中まで歩いていく。

竜山

では始めるかのう。今日は、突きも蹴りも、ほとんどやらん。最初に覚えてもらうのは、礼じゃ。

何人かが、あからさまにがっかりした顔をした。アカリは、手を挙げた。

アカリ

師範。なんで礼が先なの。道場ではいつも言われるけど、ここの人たちは初めてだから、理由も言ってあげて。

道場では見せない言い方だった。説明のない決まりが、アカリは何より嫌いだ。竜山は、それをよく知っている。にやりと笑った。

竜山

ええ質問じゃ。礼をするとな、体が一回止まる。手を出す前に、一回止まる。その癖を、先に体に入れておくんじゃ。

竜山

強うなればなるほど、拳をしまう稽古が要る。勝ち負けは、そのあとでええ。……分かったか。

アカリ

……分かった。それなら納得。

ゴウが手本の礼をした。背筋がまっすぐに伸び、頭が下がり、戻る。それだけの動きに、体育館が静かになった。さっき後ずさりした男の人が、思わず小さく頭を下げ返していた。

竜山

では、座って礼じゃ。膝が痛い者は、無理に正座せんでええ。椅子に座って、背筋だけ伸ばせばそれでよし。

後ろのほうで、膝をさすっていた年配の女の人が、ほっとした顔でパイプ椅子を運んできた。アカリは黙って、もう一脚を隣に並べた。

隣のパイプ椅子の人

ありがとう。……あなた、慣れてるのね。

アカリ

道場に通ってるから。……あの人、うちの師範。

隣のパイプ椅子の人

まあ。じゃあ今日は、先生の先生が来てるのね。

アカリ

先生の先生じゃない。……まあ、そうかも。

ゴウが型を一つ見せた。速くはない。けれど、一つの動きが終わるたびに、空気がそこで一回止まるように見えた。竜山がその横で、同じ型を半分の速さでなぞってみせる。八十六歳の足運びは、ゴウよりも音がしなかった。

アカリ

……師範、ずるい。あれ、いちばん難しいのに。

竜山

ははは。年寄りは、速さを捨てたぶん、音を捨てる稽古をしとるんじゃ。

学校 体育館の隅、跳び箱の横 昼休み

昼休み、アカリは体育館の隅で、母が持たせてくれた大きな弁当箱を開けた。竜山は水筒のお茶を湯呑みに注ぎ、ゴウは缶の黒いコーヒーを一本だけ持って、少し離れて座った。

アカリ

ゴウさん、それだけ? 唐揚げ一個あげる。

ゴウ

……いい。

アカリ

いいって、どっちの意味。

ゴウ

……もらう。

竜山

ははは。ええじゃないか。ゴウ、お前、例の映画は観たんか。

ゴウ

はい。師範にお勧めいただいた七人の侍、先日ようやく最後まで拝見いたしました。お礼を申し上げるのが遅くなり、まことに申し訳ございません。

アカリ

……ゴウさん、師範の前だと急に日本語が長くなるよね。

ゴウ

……別に、そんなことはない。

アカリ

その映画、どんな話?

ゴウ

1954年の時代劇映画だ。監督は黒澤明。戦国時代、野武士の略奪に苦しむ百姓に雇われた七人の侍が、身分の違いでぶつかりながら、力を合わせて村を守る。[1]

ゴウ

上映時間は207分ある。[1]

アカリ

にひゃく……三時間半!? 兄貴なら絶対、途中で止めてる。最近、二時間の映画も無理って言ってたし。

ゴウ

俺は三日に分けた。……分けても、筋は通っていた。

ゴウ

侍は、身分の違う百姓に雇われて村を守る。ぶつかっても、引き受けたことは最後までやる。あれは流儀だ。

竜山

それに、あれは剣の動きがええ。作り手の名前の並びも、見たか。

ゴウ

はい。剣術指導として、日本古武道振興会の杉野嘉男さんのお名前がございました。[1]

竜山

そうじゃ。役者が刀を持つときに、本物の稽古をした人の目が入っとる。だから、構えた瞬間に嘘がない。……俺はあの映画を、スクリーンで観た口でのう。

アカリ

剣の話なら、私はるろうに剣心。和月伸宏さんの漫画で、週刊少年ジャンプで1994年から1999年まで連載してたやつ。[2]

アカリ

幕末に「人斬り抜刀斎」って恐れられてた剣客が、明治になってから「不殺」、人を殺さないって誓って、流浪人として旅してる話。[2]

ゴウ

……強い者が、刃をしまう話か。

アカリ

そう。剣道の稽古のあとに読むと、なんか効くんだよね。竹刀を持ってると、勝ちたいって気持ちが先に出るから。あの人は、勝てるのに、使い方を自分で決めてる。そこが好き。

竜山

さっき言うた、拳をしまう稽古と同じじゃのう。……アカリ、お前、それで剣道と空手を両方やっとるんじゃろう。

アカリ

違う。両方好きだからやってるだけ。……でも、ちょっとはある。かも。

アカリは唐揚げを一つ、自分の口に放りこんだ。照れたときのアカリは、よく食べる。

ゴウ

侍の映画と、剣客の漫画。……どちらも、強さより先に、何のために振るかを決めている。

竜山

ほう。ゴウがそんなに続けてしゃべるのは珍しいのう。

ゴウ

……失礼いたしました。

学校 体育館の出口 授業のあと

授業の終わりに、竜山は全員を並ばせて、最後にもう一度だけ礼をさせた。今度は、誰も笑わなかった。さっきの三十代の男の人は、ゴウのところへ来て、「最初、すみませんでした」と頭を下げた。ゴウは「……ああ」とだけ返し、同じ深さで頭を下げた。

アカリ

師範。今日のこと、道場のみんなには言わないで。学校で師範に会ったとか、なんか恥ずかしい。

竜山

ははは。言わん言わん。……ただ、手を挙げて理由を聞いたのは、ええ礼じゃった。それだけは、褒めておくぞ。

アカリは返事をしないまま、靴ひもを結び直した。結び終わってから、竜山に向かって、誰よりもまっすぐに頭を下げた。ゴウはそれを見て、何も言わずに、アカリの大きな弁当箱の包みを持ち上げ、出口まで運んだ。荷物の多い人に黙って手を貸すのは、ゴウのいつもの癖だった。

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