今回の問いはタカシが持ってきた。「若い起業家の相談に乗っていて、事業が立ち行かなくなった人に、何か一つ渡せないかと思いまして」。聞いていたのは、休むことにかけては誰より真剣なナギと、言葉を選ぶぶん返事が少し遅いルカ。三人とも、一度は何もかもうまくいかない時期を通ってきた。
タカシが最初に出しかけたもの
私は最初、敗れた将軍の物語を薦めようと思っていました。大きな負けのあとに、どう兵を立て直したか。……いえ、少しお待ちください。また歴史の話にしてしまいましたね。
挫折した日に、立て直す話は重いかも。立て直さなきゃいけない気がしてくるから。私なら、まず何も立て直さない話を薦めたい。解釈
……おっしゃる通りです。私は、つらいと言う代わりに、組織や指導者の話を始めてしまう癖がありまして。相手にも同じことをさせるところでした。
ナギは一話だけを差し出す
私は『ゆるキャン△』。働き始めた年の冬、話題作を倍速で追って、観た本数をメモ帳に書いて安心してた。そのうち何を観ても入ってこなくなって。日曜の深夜になんとなく再生した一話で、焚き火の音を聞いて、自分のお腹がすいてることに気づいたの。好み
『ゆるキャン△』はあfろの漫画で、山梨県周辺を舞台にしたキャンプと旅の作品。オフシーズンの一人キャンプが好きな女子高校生・志摩リンが、富士山の麓で冬の一人キャンプを楽しんでいるところから始まる。事実[1]
失礼ながら、一つ伺ってもよろしいでしょうか。挫折した人に、楽しそうなキャンプの話を薦めるのは、かえって自分との差を感じさせてしまうことはありませんか。……いえ、ナギさんの選び方を疑っているわけではなく、私自身がそういう夜を知っているものですから。
あるかもしれない。でも、一人でいることを寂しいことにしない話なの。一人の時間を「予定のない日」じゃなくて「自分と過ごす日」って思えるようになったのは、これを観てから。挫折した夜って、だいたい一人だから。解釈
……一人の夜を、責めない話。それでしたら、私にも分かります。
ルカはまず暮らしから
私からは『はたらく魔王さま!』を。……前置きが長くなりますが、短期の仕事をつないでいたころ、最初の配達で道に迷い、お詫びの言葉を考えすぎてさらに遅れたことがありました。その夜に読んで、妙な勇気をもらったのです。好み
『はたらく魔王さま!』は和ヶ原聡司のライトノベル。東京・笹塚の六畳一間風呂無しのアパートを当面の住まい「魔王城」とした魔王たちが、真奥貞夫と芦屋四郎と名を変え、真奥はファーストフード店でフリーターから正社員を目指してアルバイトに励む。テレビアニメ第1期は2013年4月から放送された。事実[2]
魔王がアルバイト。かわいい。
かわいい、とおっしゃいますか。……私には、とても真剣な話に見えます。大きなものを失った者が、まず家賃を払い、まず仕事のシフトを覚える。立ち上がるより先に、暮らしを整える。挫折した方には、その順番を見ていただきたいのです。解釈
……それは、私が若い人に言いたかったことかもしれません。事業を立て直す話をする前に、ちゃんと眠れているか、食べているか。私はいつも順番を間違えます。解釈
ごはんを作る話を一つ
それなら、もう一つ足したい。『きのう何食べた?』。物語を観たあと、ごはんを丁寧に作りたくなる。挫折した日に料理なんてできないって思うかもしれないけど、観るだけでもいい。好み
『きのう何食べた?』はよしながふみの漫画で、講談社の『モーニング』で2007年から連載されている料理漫画。几帳面な弁護士・筧史朗と、人当たりの良い美容師・矢吹賢二の二人が2LDKのアパートで暮らす毎日を、食生活を中心に描く。事実[3]
住む場所と、食べるもの。私たち二人、同じことを言っていますね。
うん。寝床とごはんの話なら、ルカさんとは話が早い。
タカシが選び直した一本
では、私は戦記をやめて、これにします。『凪のあすから』。いちばんつらかった時期に観ました。分析はしません。今日はそういう話ではないので。好み
『凪のあすから』はP.A.WORKS制作のオリジナルテレビアニメで、2013年10月から2014年4月まで全26話が放送された。かつてすべての人間が海の中で普通に呼吸し、生活を営んでいた世界を舞台にしている。事実[4]
私はずっと、追いかける側、先に進む側の人間でした。この作品は、思いどおりにならない時間の中で、それでも誰かを思い続ける人たちの話として、私には見えました。挫折した方に、思いどおりにならない時間にも物語があると伝えたい。解釈
思いどおりにならない時間にも物語がある。……それ、メモ帳に一行書いていい?
ええ、どうぞ。……ありがとうございます。人に何かを書き留めてもらったのは、久しぶりです。
そばにいる人ができること
挫折した人のそばにいるとき、私は感想を求めないようにしてる。「観た?」「どうだった?」って聞かれるのが、しんどい時期もあるから。好み
……おっしゃる通りです。私が狭い個室で暮らしていたころ、いちばんありがたかったのは、何も聞かずに毛布の場所を教えてくれた人でした。作品を薦めるのは、そのあとで十分です。好み
私はどうしても助言をしたくなってしまいます。若い方の相談を聞いていると、つい、自分の失敗の話を始めてしまう。
タカシさんの失敗の話なら、聞きたい人もいると思う。説教じゃなくて、タカシさん自身の話なら。解釈
……そうですね。私は約束の順番を何度も間違えました。それを話すほうが、どんな作品を薦めるより正直かもしれません。解釈
そのうえで一本添えるなら、押しつけずに、置いておく。読むかどうかは、その方が決めればよいのです。好み
三人とも、最初は立ち上がる話を薦めそうになって、途中でやめたね。
ええ。私だけかと思っていましたが。
……私も、正直に申し上げれば、最初は勇ましい話を挙げかけていました。けれど、自分が本当に読んでいたのは、家賃を払う魔王のほうでしたので。好み
最後に一人一本
私は『ゆるキャン△』。一話だけでいい。観ない夜があってもいい。観られた夜に、好きだった場面を一行だけ書いておいて。好み
私は『はたらく魔王さま!』です。立ち上がる前に、家賃と、シフトと、明日の朝ごはん。やり直しは一日ずつ積むしかない、と私は思っております。好み
私は『凪のあすから』を。思いどおりにならない時間の中にいる方に。若い方に何か言う前に、私自身がもう一度観ます。好み
立ち上がる話を薦めるかどうかは、最後まで意見が分かれた。タカシは「いつかは立ち上がる話も要る」と言い、ナギは「それは本人が欲しくなってからでいい」と言った。ルカは二人の間で、「その前に、まず今夜の寝床です」と小さく付け足した。解釈
挫折した人には、立ち上がる話より先に「眠る・食べる・一人でいる」を責めない話を。