身延線の電車がホームを離れて少したったころ、シズカの鞄の中で、保冷バッグのふたが小さく鳴った。ナギは横目でそれを見た。二人分にしては、大きかった。
シズカさん。それ、お弁当?
あらあら、見つかりましたね。朝、子どもたちの分を作るついでに、つい。ナギさんの分と、私の分と、それから余ったときの分です。
今日は、何もしない日にしようって言ったのに。
ええ。だから、お弁当を作るところまでで、何もしないのを始めました。
ナギは笑って、自分の鞄を少しだけ開けてみせた。お湯の入った水筒と、カレー味のカップ麺が二つ。シズカがそれを見て、口もとに手を当てた。
二人が知り合ったのは、ゲンの一家が河原でしたキャンプの夜だった。焚き火の前でナギが『ゆるキャン△』の話をして、シズカは鍋の火加減を見ながらうなずいていた。今日の旅は、そのときの約束だった。言い出したのはナギで、「行ってこい、家は俺が回す」と背中を押したのはゲンだった。
ゆるキャン△は、山梨のあたりを舞台に、キャンプ場で遊んだり外でごはんを作ったりする女の子たちの話。それを、身の丈に合った範囲で楽しんでるところが好きなんだ。[1]
今日行く内船駅は、なでしこちゃんの家の最寄り駅っていう設定なの。[2]
アニメだと、なでしこちゃんが南部橋を自転車で渡って、内船駅から電車で学校に行くところが描かれてる。[1]
毎朝、この線で。……雨の朝は、誰かが駅まで送ってあげるのかしら。
シズカさん、やっぱりそっちを見てる。
迎えに来る人を見るのが、癖になっているんです。自分がいつも、そちら側なので。
窓の外を、富士川がゆっくり流れていた。日差しが座席の上で暖かく、電車の揺れは一定だった。シズカは二回、携帯電話を出して家族の連絡を確かめ、三回目に出そうとしたところで、手を膝の上に置いたまま動かなくなった。
ナギの肩に、そっと重みがかかった。シズカは眠っていた。
次は内船、という案内が流れた。ナギはシズカの横顔を見た。目の下に、うっすら影があった。五人の子どもの三度の食事と弁当を、毎日回している人の顔だった。ナギは、起こさないことにした。
電車が止まり、扉が開き、閉まった。窓の向こうを、小さな駅舎が後ろへ流れていった。
……あら。あらあら。ナギさん、いまの駅は。
内船。ひとつ、寝過ごしちゃった。
まあ……ごめんなさい。家で洗濯物を畳みながら寝てしまうのは慣れているのですけれど、よそさまの肩でなんて。
私が起こさなかったの。……ゆるキャン△の第1話もね、寝過ごすところから始まるんだよ。なでしこちゃんが富士山を見に行って、何の用意もないまま日が暮れるまで居眠りして、一人でキャンプしてたリンちゃんに助けてもらう。[1]
では、私がなでしこさんで、ナギさんがリンさんですか。
うん。だから、ここで出すね。
ひとつ先の駅で降りると、ホームには誰もいなかった。戻りの電車まで、しばらく時間がある。ナギはベンチに座って水筒のふたを開け、カップ麺にお湯を注いだ。シズカは少し迷ってから、保冷バッグからお弁当を出して、二人のあいだに置いた。
作中のカレーめんの代わり。三分、待とう。
待つ時間も、ごはんのうちですね。
私ね、ゆるキャン△の、お湯が沸く音とか、焚き火のぱちぱちいう音だけが聞こえる時間が好きなの。誰もしゃべらなくて、生活の音だけがする時間。いまのこのホームも、ちょっとそう。
家の台所は、音が多すぎますから。鍋が三つ鳴って、誰かが呼んで、洗濯機が止まって。……ここは、カップのふたが鳴るだけですね。
風が冷たかった。ナギは持ってきたひざかけを広げて、シズカの肩までかけた。シズカはそれを顎の下まで引き上げて、湯気を見ていた。
シズカさん、それ、似合ってる。お湯ができるまでは、くるまって待つのがいちばん。
あらあら。くるまって待つなんて、何年ぶりでしょう。家では、くるまっているのはいつもゲンさんのほうなのですけれど。
三分たって、二人で同じ麺をすすった。シズカの卵焼きは甘くて、ナギのカップ麺は少し辛かった。食べ終えると、シズカは空の容器を丁寧にすすいでから袋にまとめ、ナギの分も自分の鞄にしまった。ナギはそれを、今日だけは止めなかった。
戻りの電車で、今度は二人とも起きていた。内船駅は、駅員さんのいない駅だった。改札を抜けると、駅前の道の向こうに川の気配がした。
ここから北西に少し歩くと、南部橋。富士川を渡ると、南部の町に出るんだって。[2]
橋のたもとまで歩くと、自転車に乗った高校生が一人、こちらへ渡ってきた。ナギは思わず携帯電話を構えかけて、下ろした。シズカも道の端に寄って、自転車が通りすぎるのを待った。
撮りかけちゃった。なでしこちゃんみたいだったから。
あの子は、あの子の毎朝ですものね。ここは、町の人が学校や仕事に行く道ですから。
うん。それに、登場人物の家は、実際には家が建っていない場所に設定されてるんだって。だから、家を探しに行く必要もないの。[1]
それは、よく考えられていますね。誰かの本当の家の前に、人が集まらないように。
二人は橋の上には長くとどまらず、たもとの道ばたで、富士川の流れを五分だけ眺めた。広い川原に、午後の光が平らに落ちていた。
ナギさん。一人でいるのがお好きなのに、どうして今日は私を誘ってくださったんですか。
リンちゃんもね、一人の時間を守るために、誰かを遠ざけたりはしないの。一人が好きなことと、人が嫌いなことは別だって、あの子を見てると思う。
それに、シズカさんの「一人の時間」って、たぶんずっと、十五分ずつしかなかったでしょう。
シズカは返事をしないで、川のほうを見ていた。それから、小さく「……ええ」とだけ言った。
帰りの電車に乗ってすぐ、シズカの携帯電話が鳴った。ゲンからの写真だった。食卓に、形のそろわないおにぎりが十個以上並んでいる。真ん中に、子どもの字で書いた紙が一枚立ててあった。「おかあさん おかえり」。
まあ……塩、つけすぎていないといいのですけれど。
今日は、迎えてもらう側の日だね。
シズカは写真をしばらく見ていた。そのうちに、また肩に重みがかかってきた。ナギは窓の外の暗くなりはじめた川を見ながら、携帯電話で、降りる駅の到着時刻を確かめた。今度は、ちゃんと起こすつもりだった。三分前に。