日常

内船駅をひとつ寝過ごした日

ネタバレの範囲 ネタバレなし 『ゆるキャン△』は、第1話の始まりの設定(引っ越してきたなでしこが富士山を見に行って日没まで居眠りし、一人でキャンプをしていたリンに助けられること)と、なでしこの家の最寄り駅の設定まで。その後の展開には触れません

『ゆるキャン△』のなでしこが通学に使う駅、山梨県南部町の内船駅へ。ゲンさんに送り出されて、久しぶりに一人で家を空けたシズカ。誘ったナギは、肩の上で眠ってしまったシズカを、起こさないことにした。

こんな人に
休みの日にも、つい誰かの分のお弁当を作ってしまう人へ。電車で寝過ごしたことを、あとで少し笑える人にも。
話している人
ナギ × シズカ
聖地巡礼 山梨県南巨摩郡南部町(JR身延線の車内から内船駅、富士川にかかる南部橋のたもとまで) 十月の平日、朝から夕方まで

身延線の電車がホームを離れて少したったころ、シズカの鞄の中で、保冷バッグのふたが小さく鳴った。ナギは横目でそれを見た。二人分にしては、大きかった。

ナギ

シズカさん。それ、お弁当?

シズカ

あらあら、見つかりましたね。朝、子どもたちの分を作るついでに、つい。ナギさんの分と、私の分と、それから余ったときの分です。

ナギ

今日は、何もしない日にしようって言ったのに。

シズカ

ええ。だから、お弁当を作るところまでで、何もしないのを始めました。

ナギは笑って、自分の鞄を少しだけ開けてみせた。お湯の入った水筒と、カレー味のカップ麺が二つ。シズカがそれを見て、口もとに手を当てた。

二人が知り合ったのは、ゲンの一家が河原でしたキャンプの夜だった。焚き火の前でナギが『ゆるキャン△』の話をして、シズカは鍋の火加減を見ながらうなずいていた。今日の旅は、そのときの約束だった。言い出したのはナギで、「行ってこい、家は俺が回す」と背中を押したのはゲンだった。

ナギ

ゆるキャン△は、山梨のあたりを舞台に、キャンプ場で遊んだり外でごはんを作ったりする女の子たちの話。それを、身の丈に合った範囲で楽しんでるところが好きなんだ。[1]

ナギ

今日行く内船駅は、なでしこちゃんの家の最寄り駅っていう設定なの。[2]

ナギ

アニメだと、なでしこちゃんが南部橋を自転車で渡って、内船駅から電車で学校に行くところが描かれてる。[1]

シズカ

毎朝、この線で。……雨の朝は、誰かが駅まで送ってあげるのかしら。

ナギ

シズカさん、やっぱりそっちを見てる。

シズカ

迎えに来る人を見るのが、癖になっているんです。自分がいつも、そちら側なので。

窓の外を、富士川がゆっくり流れていた。日差しが座席の上で暖かく、電車の揺れは一定だった。シズカは二回、携帯電話を出して家族の連絡を確かめ、三回目に出そうとしたところで、手を膝の上に置いたまま動かなくなった。

ナギの肩に、そっと重みがかかった。シズカは眠っていた。

次は内船、という案内が流れた。ナギはシズカの横顔を見た。目の下に、うっすら影があった。五人の子どもの三度の食事と弁当を、毎日回している人の顔だった。ナギは、起こさないことにした。

電車が止まり、扉が開き、閉まった。窓の向こうを、小さな駅舎が後ろへ流れていった。

シズカ

……あら。あらあら。ナギさん、いまの駅は。

ナギ

内船。ひとつ、寝過ごしちゃった。

シズカ

まあ……ごめんなさい。家で洗濯物を畳みながら寝てしまうのは慣れているのですけれど、よそさまの肩でなんて。

ナギ

私が起こさなかったの。……ゆるキャン△の第1話もね、寝過ごすところから始まるんだよ。なでしこちゃんが富士山を見に行って、何の用意もないまま日が暮れるまで居眠りして、一人でキャンプしてたリンちゃんに助けてもらう。[1]

シズカ

では、私がなでしこさんで、ナギさんがリンさんですか。

ナギ

うん。だから、ここで出すね。

ひとつ先の駅で降りると、ホームには誰もいなかった。戻りの電車まで、しばらく時間がある。ナギはベンチに座って水筒のふたを開け、カップ麺にお湯を注いだ。シズカは少し迷ってから、保冷バッグからお弁当を出して、二人のあいだに置いた。

ナギ

作中のカレーめんの代わり。三分、待とう。

シズカ

待つ時間も、ごはんのうちですね。

ナギ

私ね、ゆるキャン△の、お湯が沸く音とか、焚き火のぱちぱちいう音だけが聞こえる時間が好きなの。誰もしゃべらなくて、生活の音だけがする時間。いまのこのホームも、ちょっとそう。

シズカ

家の台所は、音が多すぎますから。鍋が三つ鳴って、誰かが呼んで、洗濯機が止まって。……ここは、カップのふたが鳴るだけですね。

風が冷たかった。ナギは持ってきたひざかけを広げて、シズカの肩までかけた。シズカはそれを顎の下まで引き上げて、湯気を見ていた。

ナギ

シズカさん、それ、似合ってる。お湯ができるまでは、くるまって待つのがいちばん。

シズカ

あらあら。くるまって待つなんて、何年ぶりでしょう。家では、くるまっているのはいつもゲンさんのほうなのですけれど。

三分たって、二人で同じ麺をすすった。シズカの卵焼きは甘くて、ナギのカップ麺は少し辛かった。食べ終えると、シズカは空の容器を丁寧にすすいでから袋にまとめ、ナギの分も自分の鞄にしまった。ナギはそれを、今日だけは止めなかった。

戻りの電車で、今度は二人とも起きていた。内船駅は、駅員さんのいない駅だった。改札を抜けると、駅前の道の向こうに川の気配がした。

ナギ

ここから北西に少し歩くと、南部橋。富士川を渡ると、南部の町に出るんだって。[2]

橋のたもとまで歩くと、自転車に乗った高校生が一人、こちらへ渡ってきた。ナギは思わず携帯電話を構えかけて、下ろした。シズカも道の端に寄って、自転車が通りすぎるのを待った。

ナギ

撮りかけちゃった。なでしこちゃんみたいだったから。

シズカ

あの子は、あの子の毎朝ですものね。ここは、町の人が学校や仕事に行く道ですから。

ナギ

うん。それに、登場人物の家は、実際には家が建っていない場所に設定されてるんだって。だから、家を探しに行く必要もないの。[1]

シズカ

それは、よく考えられていますね。誰かの本当の家の前に、人が集まらないように。

二人は橋の上には長くとどまらず、たもとの道ばたで、富士川の流れを五分だけ眺めた。広い川原に、午後の光が平らに落ちていた。

シズカ

ナギさん。一人でいるのがお好きなのに、どうして今日は私を誘ってくださったんですか。

ナギ

リンちゃんもね、一人の時間を守るために、誰かを遠ざけたりはしないの。一人が好きなことと、人が嫌いなことは別だって、あの子を見てると思う。

ナギ

それに、シズカさんの「一人の時間」って、たぶんずっと、十五分ずつしかなかったでしょう。

シズカは返事をしないで、川のほうを見ていた。それから、小さく「……ええ」とだけ言った。

帰りの電車に乗ってすぐ、シズカの携帯電話が鳴った。ゲンからの写真だった。食卓に、形のそろわないおにぎりが十個以上並んでいる。真ん中に、子どもの字で書いた紙が一枚立ててあった。「おかあさん おかえり」。

シズカ

まあ……塩、つけすぎていないといいのですけれど。

ナギ

今日は、迎えてもらう側の日だね。

シズカは写真をしばらく見ていた。そのうちに、また肩に重みがかかってきた。ナギは窓の外の暗くなりはじめた川を見ながら、携帯電話で、降りる駅の到着時刻を確かめた。今度は、ちゃんと起こすつもりだった。三分前に。

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