あの作品に助けられた

カーテンを閉めた冬と『ゾンビランドサガ』

ライブで大失敗した冬、カノンはしばらく部屋から出られなくなりました。毎朝届いたのは、レッスンの予定だけ。夜中に観たアイドルのアニメと、その一通が、もう一度スタジオへ向かうきっかけになりました。聞き手はダンスの先生のミサです。

こんな人に
失敗したあと、部屋から出られなくなったことがある人へ。好きなことをもう一度始める最初の一歩が、重く感じている人にも。
ネタバレの範囲
ネタバレなし 『ゾンビランドサガ』の公式サイトの紹介にある設定(よみがえった女の子たちが佐賀でアイドルをする)まで。各話の展開や結末には触れません
話している人
カノン × ミサ
主張の種類: 事実 作中の観察 根拠のある推測 解釈 好み
目次 全6節・約6分
  1. 二曲目で止まった足
  2. 午後三時のカーテン
  3. 毎朝七時の一通
  4. 夜中の二時に観たアニメ
  5. 火曜の19時
  6. 本番の前の晩に

レッスンが終わったあとのスタジオ。床をモップで拭き終えたミサさんが、鏡の前で礼の練習をしているカノンに声をかけました。「ねえカノン。あの冬のこと、そろそろ話せる?」カノンは礼の姿勢のまま、少しだけ固まりました。

二曲目で止まった足

カノン

……よかろう、話して進ぜよう……じゃなくて、はい、話します! すみません、緊張すると出ちゃうんです、これ。

ミサ

知ってるわよ。初めて教室に来た日も、それで挨拶してたもの。礼だけは完璧だったけど。

カノン

あのころは、マネージャーさんの方針でクールなキャラをやっていました。でも、クールなはずの一言がぜんぶ笑いに変わっちゃって。その冬のライブで、二曲目の途中で振りが頭から消えたんです。音は鳴っているのに、足が動かなくて。客席が静かになったのだけ、はっきり覚えています。

ミサ

それで、次の週から来なくなったのね。

カノン

はい。転ぶのは平気なんです。転んだら「今のはリハーサル!」って言えばいいから。でも、あの日は転んでもいないのに止まっちゃった。言い訳が見つからなかったんです。

午後三時のカーテン

ミサ

部屋では、毎日どうしてたの。

カノン

起きるのが午後の三時くらいでした。カーテンは閉めたままで、外が明るいのか暗いのか、よく分からなくて。コンビニのおにぎりを一個だけ買ってきて、布団の上で食べて、また横になる。衣装は部屋の隅に吊るしたままで、羽根の影が壁に映っているのを、ずっと見ていました。

ミサ

家には連絡しなかったの?

カノン

できませんでした。家の者は、ひとり残らず反対していたので。「それ見たことか」って言われる気がして。……私、大きな家で育ったんですけど、子どものころ、まわりの大人はみんな頭を下げるばかりで、目を合わせてくれる人がいなかったんです。あの冬の部屋は、そのころの部屋に、ちょっと似ていました。

ミサ

……そう。それは、つらいわね。

毎朝七時の一通

カノン

それで、ミサさん。あの冬、毎朝七時に、レッスンの予定が届いていました。「火曜 19時 基礎クラス」とか、「土曜 14時 振り入れ」とか。それだけ。「大丈夫?」も「来なさい」も、一回もなくて。

ミサ

送ってたわね。生徒全員に送ってる連絡と、同じ文面よ。

カノン

それが、よかったんです。何か言われていたら、きっと返事ができなかった。ただの予定だから、読むだけでいいんです。午後三時に起きて、まず予定を読む。行けないって分かっていても、「火曜の19時かあ」って、頭の中で一回だけスタジオに行ってみる。それが、あの冬のいちばんの日課でした。

ミサ

白状すると、何を書けばいいか分からなかったのよ。私、期待してる子ほど言葉がきつくなるから。きつい一言を送るくらいなら、予定だけのほうがましだと思ったの。

カノン

イロハさんは、ときどき夕方に、部屋の前まで来てくれました。ドアは開けられなかったんですけど、ドアの向こうで、その日のレッスンの曲を鼻歌で歌ってくれて。私、ドアにもたれて聞いていました。

夜中の二時に観たアニメ

ミサ

それで、そのころ観てたアニメがあるって聞いたけど。……先に言っておくと、私、アニメの話になると口数が減るわよ。

カノン

大丈夫です、私がそのぶん早口になりますから! 『ゾンビランドサガ』です。昼に起きるので、夜は眠れなくて。夜中の二時ごろ、布団にもぐってスマートフォンで観はじめました。アイドルのアニメはそのころ観るのがつらかったんですけど、これは始まりがちょっと怖そうだったので、逆に観られる気がしたんです。私、ホラーや怖い作品は平気なので。

『ゾンビランドサガ』はアニメーション制作をMAPPAが手がけ、2018年10月4日から放送されたテレビアニメ。公式サイトでは「新感覚ゾンビ系アニメ」とうたわれ、「ゾンビィのアイドルが佐賀を救うという、「ゾンビランドサガプロジェクト」」が物語の軸として紹介されている。事実[1]

ミサ

ゾンビがアイドルをするの? ずいぶん思いきった話ね。

カノン

はい。しかも、みんな最初から上手なわけじゃないんです。うまくいかない日もあって。それでも、さくらちゃんたちは、何度でも舞台に戻ってくる。キラキラした子が最初からキラキラしているお話だったら、あのころの私は、たぶん最後まで観られませんでした。解釈

カノン

それと、練習の場面がちゃんとあるんです。振りを合わせて、声をかけ合って、また合わせる。観ているうちに、布団の中で、つい腕だけ振りをなぞっていました。止まっていたのは足だけで、体はまだ踊りたがってるんだなって、そのとき思いました。解釈

ミサ

体は正直だもの。気持ちより先に、体が戻りたがることはあるわ。解釈

火曜の19時

ミサ

で、戻ってきたのが、火曜の基礎クラスだったわね。

カノン

はい。朝七時の予定を読んで、その日は午後三時じゃなくて、お昼に起きられたんです。久しぶりにカーテンを開けたら、外はもう春に近い明るさで。いちばん後ろの列に、こっそり立ちました。

ミサ

気づいてたわよ。鏡に、いちばん姿勢のいい子が映ってたから。

カノン

ミサさん、何も聞かずに「はい、礼から」って言いましたよね。いつもと同じ声で。それで、礼をしたら、もう大丈夫だと思えたんです。振りはぼろぼろで、ターンでは二回転びましたけど。

ミサ

転んだ回数は覚えてないわ。礼が百点だったのは覚えてる。……それに、あなた、あの日から顔つきが変わったのよ。クールな顔をやめて、自分の好きな顔で踊ってた。

カノン

あの冬に決めたんです。似合うかどうかより、好きな道を全力で行くって。アニメが全部を変えてくれたわけじゃないです。毎朝の予定と、ドアの向こうの鼻歌と、夜中のアニメと。いくつかが重なって、やっと起き上がれた感じです。

本番の前の晩に

ミサ

いまも、そのアニメは観てるの?

カノン

ライブの前の晩に、一話だけ観ます。それから、カーテンを少しだけ開けて寝るんです。朝の光で起きられるように。本番の日は、楽屋を出る前に、誰もいない廊下で一回だけ礼をします。好み

ミサ

いい習慣ね。……ゾンビのアニメ、今度一話だけ観てみようかしら。一話だけよ。

カノン

ほんとですか! じゃあ一緒に観ましょう、私、隣で全部解説します! ……あ、ネタバレはしません、苦しゅうない……じゃなくて、約束します!

閉じたカーテンの部屋にも、予定は毎朝届いていた。立ち上がれない日は、読むだけでいい。いつか、礼をひとつするところから戻れます。

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