最初の一粒が頬に当たってから、本降りになるまで、三十秒もかからなかった。スイは鞄を胸に抱えて、いちばん近い軒先に飛びこんだ。シャッターの下りた古い本屋。色あせた日よけに、雨粒がばらばらと音を立てる。
スイの部屋の玄関には、傘が三本立てかけてある。一本は職場の先輩の、一本は学生時代の友だちの、もう一本は、誰のだったか思い出せない。三本とも、借りたまま返しそびれている。今日は、そのどれも持っていなかった。
足もとで、小さな水しぶきが上がった。白い毛玉が、雨のすきまを縫うように走ってきて、スイの靴の横にぴたりと座る。首元で、星のチャームが光った。
スイ、傘はどうしたにゃ。
テン。……家に三本ある。全部、人の。
四本目を借りる気にゃ。
借りる気はないよ。借りちゃうだけ。
それを、借りる気と言うにゃ。
テンの毛は、不思議なほど濡れていなかった。ゲンの家の縁側から帰ってくる途中だったのだろう。ひげの先に、かすかに焼き魚の匂いが残っている。
今日も、ゲンさんのところ?
シズカの鯖は、皮がぱりっとしてるにゃ。神のご加護にゃ……。
黄色い傘の中学生が一人、軒先の前で立ち止まった。スマホの画面を雨から守るように、端に身を寄せてくる。テンはスイの足もとで丸くなり、中学生を見上げた。
にゃ。
あ、猫。かわいい。……すみません、ちょっとだけ。
中学生は地図アプリで道を確かめると、黄色い傘を差し直して、雨のなかへ戻っていった。テンは、その背中が角を曲がるまで「にゃ」以外の何も言わなかった。
相変わらず、切り替えが早いね。
猫は、猫のふりがいちばん上手にゃ。
そのとき、もう一つの影が、雨のなかから転がりこんできた。本のページのような耳。星の模様のマント。そのマントが、ぐっしょりと重たく垂れている。
わあっ……! 人間界の雨は、急に始まるんですね……!
テンの耳が、ぴんと立った。
シオル……!
テ、テンさん、今日は撫でるのは三回までにしてください……! シオル、いま、濡れた紙みたいになってるので……!
いちにゃ。にーにゃ。さーん……
三回目が、異様に長かった。テンはシオルのマントに顔をうずめ、そのまま動かなくなった。濡れたマントを、自分の乾いた毛で乾かそうとしているようにも見えた。
もふもふは、世界を救うにゃ……濡れたシオルも、救うにゃ……。
あ、あったかいです……でも、三回目が終わりません……!
テン。三回目、もう一分たってる。
数え方は、テンが決めるにゃ。
スイは鞄からハンカチを出して、シオルの耳の先の雫を、一枚ずつページをめくるように拭いた。
ありがとうございます、スイさん。……ふるさとでは、雨の日は、みんな酒場に集まって、吟遊詩人の歌を聞くんです。人間界の人は、雨の日に何をするんですか?
私は、雨の日になると観たくなる映画がある。言の葉の庭。
靴職人を目指している高校生の男の子が、雨の日の午前には決まって授業をさぼって、庭園のベンチで靴のデザインを考えている。ある雨の日、そのベンチで、一人の女の人と出会うの。[1]
二人が会えるのは、雨の日の午前だけ。梅雨のあいだの、小さなやりとりの話。四十六分しかない映画で、2013年の公開。[1]
雨の日だけ、ですか……! ふるさとの言い伝えに、雨の日にだけ開く扉の話があります。それと、似ていますか?
近いけど、少し違う。扉は、魔法で開くでしょう。あの二人の場合は、雨が降ったから、たまたま同じ場所に来るだけ。約束はしてないの。
約束していないのに、会えるんですか。
私はそう受け取った、って話をしてもいい? あの二人は、晴れの日に会おうとは言わない。言わないことで、雨の日を大事にしてる気がした。会いたいって言葉の代わりに、天気が返事をしてるみたいで。
天気が、返事……。シオル、前に一度観せてもらったので、あの映画のことばは全部覚えているんです。でも、どうして晴れの日に会おうとしないのか、ずっと分からなくて。
言ったら、終わってしまうことがあるにゃ。
テンが、シオルのマントから顔を上げて言った。いつものんびりした声が、そのときだけ、少し低かった。
言わないあいだは、雨の日が来るたびに、続きがあるにゃ。
……テンは、ときどき急に、そういうことを言うね。
鯖のおかげにゃ。
スイの鞄の中で、スマホが短く震えた。画面に、学生時代からの友だちの名前が出ている。昼に届いていた長いメッセージの、続きだった。
引っ越すことにした、という知らせだった。遠くの町へ。だから、その前に一度会いたい、と。スイは昼のうちに、一行だけ返していた。「少し考えてから返すね」。
スイさん、お返事、書かないんですか?
書きたいんだけど、まだ言葉が見つからないの。おめでとう、だけだと足りなくて、さみしい、だと重くて。
ヴァイオレット・エヴァーガーデンを観てから、大事な返事ほど、急がないことにしてるの。手紙の代筆をする女の子のお話でね。[2]
私はあれを、誰かの言えない気持ちを言葉にする仕事だって受け取ってる。
手紙の代筆……! ふるさとの代書屋さんみたいなものですか?
代わりに書くっていっても、まだ書かれていない言葉を書くの。だから、思っているより少しこわい仕事かもしれない。
スイの返事は、スイが書けばいいにゃ。遅くても、いい返事にゃ。
……雨がやむまでに、一行だけ考えてみる。
三人は、しばらく黙って雨の音を聞いていた。日よけを打つ音が、少しずつ間遠になっていく。シオルは、テンの背中にそっと手を置いた。数えるのは、やめていた。
スイさん、玄関の三本の傘は、どうして返さないんですか?
返そうとは思ってるの。でも、晴れた日には傘のことを忘れていて、雨の日に思い出すと、今日は使わせてもらおう、ってなる。
雨の日だけ、思い出す……。さっきの映画の二人みたいです。
……それは、ちょっと言い過ぎだと思う。
誰のか分からない三本目は、ノアのにゃ。
え、そうなの?
持ち手から、旅先の本屋の匂いがするにゃ。だからテンは、玄関では寝ないにゃ。
テン、ノアさんの匂いまで覚えてるんだ。苦手なのに。
苦手だから、覚えてるにゃ。
ふるさとでは、雨の日は、大きな葉っぱを一枚かぶるんです。返さなくていいので、気が楽です。
それ、少しうらやましい。
隣の時計屋のガラス戸が開いて、白髪の店主が顔を出した。シオルはあわててスイの鞄の陰に隠れ、テンは「にゃ」と鳴いた。
さっきから、ずっといるね。これ、使いなさい。返さなくていいから。
差し出されたのは、少し骨の曲がったビニール傘だった。
ありがとうございます。……必ず、返しに来ます。
いいって。うちの傘立て、置いていかれた傘でいっぱいなんだ。
ガラス戸が閉まった。スイの手の中で、四本目の傘が、ぽつりと雫を落とした。
四本目にゃ。
……これは、ちゃんと返すから。明日の帰りに。
三本目のときも、同じことを言ってたにゃ。
スイは傘を開いた。シオルが傘の下に、テンがシオルのマントの下に入る。三人で歩くには、少し狭かった。
二つ目の角を曲がったところで、雨はやんだ。スイは傘を差したまま、三十歩ほど歩いた。閉じるタイミングが、分からなかった。
スイさん、もう降っていません。
うん。……もう少しだけ、このままでいい?
その夜、スイは友だちに返事を送った。長い文ではなかった。「会いに行くね。雨の日でも、晴れの日でも」。送ってから、玄関に並んだ四本の傘を見て、明日返しに行く一本を、いちばん手前に立て直した。その隣の一本は、引っ越していく友だちの傘だった。会いに行く日は、晴れていても、それを持っていくことにした。