日常

借りた傘が三本ある人の雨宿り

ネタバレの範囲 ネタバレなし どの作品も、紹介文で分かる範囲まで。物語の展開と結末には触れません

夕方の雨。家には借りたままの傘が三本あるのに、手ぶらのスイ。シャッターの下りた本屋の軒先に、白い猫のテンと、ずぶ濡れのシオルが駆けこんでくる。雨の日の午前だけ会う二人の映画の話をしているうちに、スイは一通の返事のことを考えはじめる。

こんな人に
雨宿りをしているあいだに、返事を一つ考えてしまう人へ。借りた傘を、なかなか返せない人にも。
話している人
スイ × テン
雨宿り 商店街のはずれ、シャッターの下りた古い本屋の軒先 十月の木曜、夕方五時すぎ

最初の一粒が頬に当たってから、本降りになるまで、三十秒もかからなかった。スイは鞄を胸に抱えて、いちばん近い軒先に飛びこんだ。シャッターの下りた古い本屋。色あせた日よけに、雨粒がばらばらと音を立てる。

スイの部屋の玄関には、傘が三本立てかけてある。一本は職場の先輩の、一本は学生時代の友だちの、もう一本は、誰のだったか思い出せない。三本とも、借りたまま返しそびれている。今日は、そのどれも持っていなかった。

足もとで、小さな水しぶきが上がった。白い毛玉が、雨のすきまを縫うように走ってきて、スイの靴の横にぴたりと座る。首元で、星のチャームが光った。

テン

スイ、傘はどうしたにゃ。

スイ

テン。……家に三本ある。全部、人の。

テン

四本目を借りる気にゃ。

スイ

借りる気はないよ。借りちゃうだけ。

テン

それを、借りる気と言うにゃ。

テンの毛は、不思議なほど濡れていなかった。ゲンの家の縁側から帰ってくる途中だったのだろう。ひげの先に、かすかに焼き魚の匂いが残っている。

スイ

今日も、ゲンさんのところ?

テン

シズカの鯖は、皮がぱりっとしてるにゃ。神のご加護にゃ……。

黄色い傘の中学生が一人、軒先の前で立ち止まった。スマホの画面を雨から守るように、端に身を寄せてくる。テンはスイの足もとで丸くなり、中学生を見上げた。

テン

にゃ。

中学生

あ、猫。かわいい。……すみません、ちょっとだけ。

中学生は地図アプリで道を確かめると、黄色い傘を差し直して、雨のなかへ戻っていった。テンは、その背中が角を曲がるまで「にゃ」以外の何も言わなかった。

スイ

相変わらず、切り替えが早いね。

テン

猫は、猫のふりがいちばん上手にゃ。

そのとき、もう一つの影が、雨のなかから転がりこんできた。本のページのような耳。星の模様のマント。そのマントが、ぐっしょりと重たく垂れている。

シオル

わあっ……! 人間界の雨は、急に始まるんですね……!

テンの耳が、ぴんと立った。

テン

シオル……!

シオル

テ、テンさん、今日は撫でるのは三回までにしてください……! シオル、いま、濡れた紙みたいになってるので……!

テン

いちにゃ。にーにゃ。さーん……

三回目が、異様に長かった。テンはシオルのマントに顔をうずめ、そのまま動かなくなった。濡れたマントを、自分の乾いた毛で乾かそうとしているようにも見えた。

テン

もふもふは、世界を救うにゃ……濡れたシオルも、救うにゃ……。

シオル

あ、あったかいです……でも、三回目が終わりません……!

スイ

テン。三回目、もう一分たってる。

テン

数え方は、テンが決めるにゃ。

スイは鞄からハンカチを出して、シオルの耳の先の雫を、一枚ずつページをめくるように拭いた。

シオル

ありがとうございます、スイさん。……ふるさとでは、雨の日は、みんな酒場に集まって、吟遊詩人の歌を聞くんです。人間界の人は、雨の日に何をするんですか?

スイ

私は、雨の日になると観たくなる映画がある。言の葉の庭。

スイ

靴職人を目指している高校生の男の子が、雨の日の午前には決まって授業をさぼって、庭園のベンチで靴のデザインを考えている。ある雨の日、そのベンチで、一人の女の人と出会うの。[1]

スイ

二人が会えるのは、雨の日の午前だけ。梅雨のあいだの、小さなやりとりの話。四十六分しかない映画で、2013年の公開。[1]

シオル

雨の日だけ、ですか……! ふるさとの言い伝えに、雨の日にだけ開く扉の話があります。それと、似ていますか?

スイ

近いけど、少し違う。扉は、魔法で開くでしょう。あの二人の場合は、雨が降ったから、たまたま同じ場所に来るだけ。約束はしてないの。

シオル

約束していないのに、会えるんですか。

スイ

私はそう受け取った、って話をしてもいい? あの二人は、晴れの日に会おうとは言わない。言わないことで、雨の日を大事にしてる気がした。会いたいって言葉の代わりに、天気が返事をしてるみたいで。

シオル

天気が、返事……。シオル、前に一度観せてもらったので、あの映画のことばは全部覚えているんです。でも、どうして晴れの日に会おうとしないのか、ずっと分からなくて。

テン

言ったら、終わってしまうことがあるにゃ。

テンが、シオルのマントから顔を上げて言った。いつものんびりした声が、そのときだけ、少し低かった。

テン

言わないあいだは、雨の日が来るたびに、続きがあるにゃ。

スイ

……テンは、ときどき急に、そういうことを言うね。

テン

鯖のおかげにゃ。

スイの鞄の中で、スマホが短く震えた。画面に、学生時代からの友だちの名前が出ている。昼に届いていた長いメッセージの、続きだった。

引っ越すことにした、という知らせだった。遠くの町へ。だから、その前に一度会いたい、と。スイは昼のうちに、一行だけ返していた。「少し考えてから返すね」。

シオル

スイさん、お返事、書かないんですか?

スイ

書きたいんだけど、まだ言葉が見つからないの。おめでとう、だけだと足りなくて、さみしい、だと重くて。

スイ

ヴァイオレット・エヴァーガーデンを観てから、大事な返事ほど、急がないことにしてるの。手紙の代筆をする女の子のお話でね。[2]

スイ

私はあれを、誰かの言えない気持ちを言葉にする仕事だって受け取ってる。

シオル

手紙の代筆……! ふるさとの代書屋さんみたいなものですか?

スイ

代わりに書くっていっても、まだ書かれていない言葉を書くの。だから、思っているより少しこわい仕事かもしれない。

テン

スイの返事は、スイが書けばいいにゃ。遅くても、いい返事にゃ。

スイ

……雨がやむまでに、一行だけ考えてみる。

三人は、しばらく黙って雨の音を聞いていた。日よけを打つ音が、少しずつ間遠になっていく。シオルは、テンの背中にそっと手を置いた。数えるのは、やめていた。

シオル

スイさん、玄関の三本の傘は、どうして返さないんですか?

スイ

返そうとは思ってるの。でも、晴れた日には傘のことを忘れていて、雨の日に思い出すと、今日は使わせてもらおう、ってなる。

シオル

雨の日だけ、思い出す……。さっきの映画の二人みたいです。

スイ

……それは、ちょっと言い過ぎだと思う。

テン

誰のか分からない三本目は、ノアのにゃ。

スイ

え、そうなの?

テン

持ち手から、旅先の本屋の匂いがするにゃ。だからテンは、玄関では寝ないにゃ。

スイ

テン、ノアさんの匂いまで覚えてるんだ。苦手なのに。

テン

苦手だから、覚えてるにゃ。

シオル

ふるさとでは、雨の日は、大きな葉っぱを一枚かぶるんです。返さなくていいので、気が楽です。

スイ

それ、少しうらやましい。

隣の時計屋のガラス戸が開いて、白髪の店主が顔を出した。シオルはあわててスイの鞄の陰に隠れ、テンは「にゃ」と鳴いた。

時計屋の主人

さっきから、ずっといるね。これ、使いなさい。返さなくていいから。

差し出されたのは、少し骨の曲がったビニール傘だった。

スイ

ありがとうございます。……必ず、返しに来ます。

時計屋の主人

いいって。うちの傘立て、置いていかれた傘でいっぱいなんだ。

ガラス戸が閉まった。スイの手の中で、四本目の傘が、ぽつりと雫を落とした。

テン

四本目にゃ。

スイ

……これは、ちゃんと返すから。明日の帰りに。

テン

三本目のときも、同じことを言ってたにゃ。

スイは傘を開いた。シオルが傘の下に、テンがシオルのマントの下に入る。三人で歩くには、少し狭かった。

二つ目の角を曲がったところで、雨はやんだ。スイは傘を差したまま、三十歩ほど歩いた。閉じるタイミングが、分からなかった。

シオル

スイさん、もう降っていません。

スイ

うん。……もう少しだけ、このままでいい?

その夜、スイは友だちに返事を送った。長い文ではなかった。「会いに行くね。雨の日でも、晴れの日でも」。送ってから、玄関に並んだ四本の傘を見て、明日返しに行く一本を、いちばん手前に立て直した。その隣の一本は、引っ越していく友だちの傘だった。会いに行く日は、晴れていても、それを持っていくことにした。

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