十月の土曜の昼。ビルの屋上にあるバッティングセンターは、ネットのすぐ向こうに秋の空がある。朝稽古を終えたアカリは、防具袋を待合のベンチに置いたまま、百二十キロの打席に入っていた。隣の百三十キロの打席では、カオルが一球ごとに乾いた音を鳴らしている。
アカリの三球目が、詰まったゴロになって、マシンの手前で止まった。
当たった当たった! 前に飛んだら全部ヒットや。
今の、詰まった。手がしびれてる。
しびれてるうちは、芯の近くまで来てる証拠やで。外れてたら、しびれもせえへん。
二十球を打ち終えて、二人は待合のベンチに並んだ。アカリは水筒の麦茶を一気に半分飲み、カオルはポケットから出した軟式のボールの縫い目に指をかけて、手の中で回していた。
カオルさん、いつもここだよね。屋上の。
ここ来るたびに、思い出す漫画があんねん。
屋上で、何かあったの?
……『MAJOR』や。茂野吾郎。
前に聞いた。カオルさんが子どものころ、負けず嫌いをまねしたやつでしょ。
それは小学生の吾郎くんの話な。今日はそっから先。高校から先の吾郎の話がしたいんよ。最後まで話してまうけど、ネタバレ、ええ?
いい。私、結末を先に知ってても読むほう。てか、先に何巻あるか言って。
長い。でも、長いのは嫌いじゃない。
吾郎の子どものころから大人になるまで、半生まるごと描いた話や。幼稚園から始まって、話の舞台がどんどん移っていく。[2]
終わったの、私が生まれた年だ。
ほんまや。そう聞くと、えらい長い話やなあ。
作者さんが言うてはったらしいで。リトルの話から中学へ急に飛んだんは、三船リトルの話やなくて、吾郎の物語やからって。[2]
チームの話じゃなくて、一人の話。
せや。せやから吾郎は、何べんもチームを移る。で、うちが吾郎でいちばん好きなとこは、移り方やねん。
強いチームの一員になるより、強い相手とぶつかるほうを選ぶ子でな。わざわざ向かい風のほうへ立ちに行く。[1]
分かる。強いとこに入って勝っても、誰が勝ったのか分かんなくなる。
それとな、年上の偉そうな態度が嫌いで、納得いかへんかったら、相手が上の立場でも遠慮せんと食ってかかる。[1]
……私じゃん。
せやろ。初めてここでアカリを見たとき、どっかで見た顔やと思てん。吾郎くんやった。
私が食ってかかるのは、説明がないときだけ。
ただ吾郎は、めったに敬語を使わへん。口の悪さで損することが多い。[1]
そこは私、乗れない。礼が先。
アカリが吾郎の道場の先輩やったら、毎日正座やろな。
あと、勉強がからっきしなとこは私と一緒。吾郎の数字は56でな。子どものころ着てたユニフォームの背番号が56、強豪高校の入団テストでつけた番号も56、ほんで入学試験の点数まで56点。[1]
最後の、いらない。
いや、なんでやねん。いちばんおもろいとこやろ。
点数のとこは、笑えない。人ごとじゃないから。
カオルは声を出して笑い、手を一回叩いた。下の階の打席から、金属の音が一つ遅れて上がってきた。
ほな、中学から先の話。ここから畳んどくな。
中盤まで中盤の展開(中学編)押すと開きます
カオル「リトルのあと、吾郎は右肩を壊して、左で投げるようになる。中学三年で地元に戻ってきて、荒れてた野球部に入る。ところが、左の球はキレのない棒球やて、幼なじみの寿也に見抜かれてまう」
カオル「お父さんの英毅さんに教わって、短いあいだに直して、県大会まで行く。そこで当たったんが、海堂の付属の中学。エースの眉村に投げても打っても抑えこまれて、十九対零の四回コールド」
カオル「家に帰って、通用せえへんかった、てこぼした吾郎に、英毅さんは、左に変えたばっかりで天狗になりすぎや、いう意味のことをきつう言う。それで吾郎は、海堂の中に入って這い上がったる、て腹を決めるんよ」
アカリ「一本も取れずに負けた日って、帰り道、竹刀袋がいつもの倍くらい重い」
カオル「投げるほうも一緒や。グラブが鉄でできてるみたいになる」[1]
隣の打席に、小学生くらいの男の子が父親と入ってきた。バットを短く持って、一球目から思いきり振っている。空振りのたびに、父親がネットの外から何か言い、男の子は首を振って構え直した。カオルはしばらく、その背中を黙って見ていた。
負けた日の話のとき、カオルさん、声が低くなる。
そら低なるわ。次は高校。ここが長いで。
中盤まで中盤の展開(強豪高校の一年目)押すと開きます
カオル「中学を出た吾郎は、全国に名の知れた強豪の海堂に、入団テストを受けて入るんよ。最初は三軍の夢島組。ピッチャーの試験で、相手に立ったコーチをただ一人三振に取ったのに、三軍の監督に、うちのマニュアルに反する、て落とされる」
カオル「それで吾郎は、しばらく外野を守ることにして、投げるだけやない、何でもできる選手になる、て宣言するんよ。これ、あとで効いてくるで」
カオル「そのあと、二軍のトレーナーの人が、何の説明もせんと、吾郎を地下の部屋に三日閉じこめる。することがないから、置いてあった折り紙をひたすら折ってる。三日目に出してもろて、本気で投げてみ、て言われて投げたら、体が軽なってる」
カオル「そこで初めて種明かしや。休ませたんも狙いのうちで、休まずに追いこみ続けたら体を壊す、いう説明をされる。吾郎はそこから、その人について体の鍛え方を学び直して、球がほんまに速なる」
アカリ「三日閉じこめるのは、なし。説明が先でしょ」
カオル「言うと思た」
アカリ「でも、出たあとで、ちゃんと理由を言ったんだ。私も竜山先生に、今日は打ち込みなし、礼と足さばきだけ、って言われた日がある。なんで?って聞いたら、肩が上がってるって。説明してくれたから、文句ない」
カオル「肩が上がる、は投げるほうでも一緒や。力が入ってるときほど、自分では分からへん」[1]
畳んだとこ、最初は腹立った。でも、最後のひとことで許した。
アカリの許し方、ええな。順番がきっちりしてる。
中盤まで中盤の展開(高校編の後半)押すと開きます
カオル「吾郎は、二年の夏の一軍との試合で勝ったら辞める、て言うて、ほんまに一軍相手に投げきって勝って、自分から海堂を辞める。強いとこを倒すために、強いとこを出る」
カオル「ほんで転校先を探したら、海堂の江頭いうマネージャーの圧力で、野球部のある学校に断られてまう。残った道は、野球部のない学校に入って、自分で部を作ること。それが聖秀や」
カオル「部員はほとんど野球に縁のない素人。顧問の先生の課題で、みんなで屋上を、野球のできる場所に作りかえることになる。……せやから私、屋上に来ると思い出すんよ」
カオル「コーチを引き受けたお父さんの英毅さんの練習がきつすぎて、部員がほとんど屋上からおらんようになる。英毅さんは吾郎に、野球はひとりで勝つもんやない、守るもんが自分しかおらん人間はてっぺんに届かへん、いう意味のことを言うんよ」
カオル「吾郎はそこから、ひとりひとりの家の都合や気持ちに気ぃ配って、野球を自分で一から教えて、全員に正式に入ってもらう」
アカリ「相手の希望を聞くの、私もいま練習中。助けたいと思ったら、先に体が動いちゃうから」
カオル「草野球のチームに入った最初の年な、私、全部自分で投げて勝とうとしてたんよ。気づいたら、外野から声が一個も聞こえへんようになってた。この話を読み返したんは、その年の冬や」[1]
ここまでで、まだ半分くらいや。
半分で、もうお腹いっぱい。
あかん、まだ食べてもらうで。次は高校最後の夏。
結末・正体高校最後の夏押すと開きます
カオル「三年の春、海堂の二軍との練習試合で、江頭の指図を受けた選手に右足を踏まれて、足首の靭帯を切って骨も折る。それでも吾郎は、夏の大会に痛み止めを打って、全部の試合で投げる」
カオル「準々決勝で、とうとう海堂と当たる。向こうには幼なじみの寿也がおる。同点のまま延長十二回、足がもう言うこときかへんようになって、最後はボークでサヨナラ負けや」
カオル「その試合の途中で、吾郎は仲間に、自分の勝手にみんなを巻きこんだ、て打ち明けるんやけど、みんなは、付き合わされたんやない、自分らの意思でやってる、変えてくれて感謝してる、て返すんや」
アカリ「……痛み止めは、私は乗れない。痛いのを隠して出るのは、礼とは違うと思う」
カオル「わかるわ。子どものころは、かっこええとしか思わんかった。いまは、ページめくるたびに足首ばっかり見てまう」
アカリ「でも、仲間が自分で決めたって言ったとこは、いい。わがままを、わがままのまま終わらせなかった」[1]
私、この夏の終わりで泣いて、次の巻を開くまで三日かかった。
……三日。
三日。その三日は、ごはんもあんまり進まへんかった。
結末・正体アメリカでの展開押すと開きます
カオル「高校を出た吾郎は、日本のプロの話を断って、ひとりでアメリカに渡る。お父さんを死なせてしもた投手のギブソンが、まだ向こうで投げてて、吾郎との対戦を楽しみにしてるて知ったから」
カオル「マイナーでは抑えを任されて、ボール一個ぶん出し入れできるとこまで制球を磨く。世界大会の決勝では、ギブソンの息子にサヨナラの満塁ホームランを打たれて、負け投手」
カオル「メジャーに上がってからは、覚えたフォークの負担で肘の血の流れを悪くして、先発から抑えに回る。ほんで、ギブソン親子のチームとのワールドシリーズ。息子の打球を頭に受けて、倒れる」
カオル「お父さんと同じになるんかと思て、私、そこでページをめくる手が止まった。……吾郎は、夢の中でお父さんに会うて、目を覚ます。次の日、自分から言うてマウンドに上がって、最後に胴上げされる。その夜、娘さんが生まれる」
アカリ「頭に当たった次の日に投げるのは、さっきの痛み止めより、もっと乗れない」
カオル「わかるわ。せやけど、ここだけは、止められへん自分もおる」[1]
吾郎、無茶しすぎ。
それが吾郎や。せやけど、私がいちばん好きなんは、このあと。最後の最後の話。
結末・正体結末押すと開きます
カオル「メジャーで投げ続けた吾郎は、最後は左の肩を壊して、ピッチャーとしてはもう戻られへんようになる。そこで吾郎は、お父さんと同じように、野手として出直すて決める」
カオル「子どもらにはほんまのことを言わんと、こっそりトレーニングを続けて、三十四になる年に、日本のプロのテストに受かる。最初は、親のつてで入ったんちゃうか、て客に疑われるくらい衰えてる。それが、本拠地の試合で、家族が見てる前で、メジャーの大物から三打席目にホームランを打つ」
カオル「ほんで最後、七夕の短冊に願いごとを書く。『夢はメジャーで4番』て」
カオル「海堂の三軍で、何でもできる選手になる、て宣言してた子が、投げられへんようになって、最後に書くのが4番や。……私、昔の自分のこととか全部ふっとんで、ただ泣いた」
アカリ「やめたんじゃなくて、打つほうに変えただけ。じゃあいいじゃん」[1]
……アカリ、それ、吾郎の家族より先に言うたな。
私もな、もう子どものころみたいな球は投げられへん。草野球でも、最近は外野におる日のほうが多い。
でも、さっき百三十のとこで、一回も空振りしてなかった。
見てたん?
見てた。フォーム、きれいだから。打つほうも。
カオルはボールを手の中で一回転させて、首の後ろを手のひらでなでた。屋上の風が、ネットを少しだけ鳴らした。
やめてや、照れるやん。ほな、今日は私、4番のつもりで振るわ。アカリは何番打つ?
一番。いちばん先に打席に入るから。
ほな、一番さんからや。百二十、空いてるで。