十月の木曜、夕方五時半。商店街の古本屋の軒先で、イツキは百円棚のワゴンに、買い取ったばかりの漫画を一冊ずつ並べていた。深緑の帆布のエプロンの胸ポケットに、鉛筆が一本。奥の帳場では、祖父が老眼鏡をかけて新聞を広げている。
ギターケースを背負った男が、ガラス戸の前で足を止めた。首にかけていたヘッドホンを外す。ジンだった。木曜は、この店の前での「偵察」がいつもより長い。帳場の祖父が新聞の上から一度だけ目を上げ、また紙面に戻った。
……偵察だ。前の巻、まだあるか。
ありますよ、ジンさん。サンクチュアリの続き、帳場の右に取っといてるっすよ。
おう。……で、その束は何だ。
昨日、まとめて入ってきました。『遊☆戯☆王』、全巻そろいです。
イツキは一巻を手に取り、表紙を少しだけジンのほうへ向けた。見返しに、子どもの字で名前が書いてある。鉛筆で、角の丸い字だった。
前の持ち主の名前が、全部の巻に書いてあって。名前入りの本も、うちでは次の人に回すことにしてます。
名前ごと渡すのか。
はい。一回誰かが持ってた本だって、次の人にも見えるほうがいい気がして。
カードの漫画だろ。それくらいは知ってる。
始まったころは、カードだけの話じゃありませんでした。毎回ちがうゲームで、悪いやつと勝負する読み切りの形で。[1]
その中の一つだったカードゲームが、読んでる人たちにすごく受けて。それで、だんだん話の真ん中に来たそうです。[1]
客の反応で曲順が変わるのと同じだな。跳ねた曲は、次のライブから後ろに回す。
ジンさん。今日、遊戯の話をしてもいいですか。結末まで、しゃべっちゃうと思います。
お前が結末を言うのか。いつも聞いても言わねえくせに。
今日だけです。この束をジンさんに渡すかどうか、話しながら決めます。
……いいじゃねえか。聞く。先に知ってても、俺は読む。
イツキは束の上に片手を置いて、親指で背を一冊ずつなぞった。商店街の向こうで、豆腐屋のラッパが一度鳴った。
遊戯は高校一年生です。体が小さくて、気が弱くて、クラスの中でいじめられてる側の子。[2]
おじいさんがゲーム屋さんで、そのおじいさんからもらった古代エジプトのパズルを、八年も組み立て続けてる。[1]
八年。気の長え話だな。
僕が最初に引っかかったの、そこなんです。じいちゃんの店にいる孫が、じいちゃんにもらったものを、ずっと手の中に持ってる。
お前と同じじゃねえか。
同じとは言えないです。僕、パズルは途中で箱に戻すほうです。
で、クラスの城之内くんが、そのパズルのかけらを一つ盗って、プールに投げ捨てちゃう。[1]
なのに遊戯は、城之内くんたちが風紀委員にひどい目にあわされてるところに出ていって、友だちだって言ってかばいます。[2]
……自分をいじめてた奴をか。
はい。それで城之内くんが、なくしたかけらを探し出して、おじいさんのところへ届けに来る。最後の一つがはまって、パズルが解ける。[1]
解けた瞬間、遊戯の中で、もう一人の遊戯が目を覚まします。ゲームの腕が抜群で、怖いもの知らずのほうの遊戯。[1]
中に、もう一人か。
最初は遊戯本人も気づいてません。だんだん二人で言葉を交わすようになって、もう一人のほうは、遊戯を「相棒」って呼ぶようになる。[2]
相棒、か。……その言葉は重えぞ。背中を預けられる奴にしか使わねえ。
分かります。だから、すぐにはそう呼ばれない。呼ばれるまでに、ちゃんと順番があります。
カードの勝負が最初に大きく出てくるのも、おじいさんの話です。おじいさんの大事なカードを、同じクラスのカードの強い子に盗られる。[1]
傷ついた遊戯の代わりに、もう一人の遊戯が、そのカードを取り返すための勝負に出ていきます。[1]
じいさんのカードか。そいつは取り返さなきゃならねえ。
買い取りの箱にも、ときどき入ってるんですよ。おじいさんの代の本が、孫の代の漫画と一緒に。一冊ごとに、持ってた人の時間が違います。
作者さんは、主人公が人を絶対に殴らない格闘ものを描きたかった、って話してたそうです。[1]
この漫画の柱は、友情と死と愛。そこに、自立って言葉も入ってるって。[1]
殴らねえ格闘ものか。……俺には描けねえな。
殴り合いの代わりに、向かい合って、同じ机でゲームをする。僕は、その机のこっち側と向こう側が、ずっと気になってます。
でもな、さっきの風紀委員のとこ。遊戯は拳を出さねえで、前に出てるだろ。
殴るより、黙って前に立つほうが足が震える。俺は、そっちのほうが強えと思う。
ジンさんが言うと、説得力があります。
お前は、いつ読んだ。
小学三年の冬です。友だちの家の、お兄さんの本棚に全巻そろってて。連載はもう終わってたけど、これ、俺には新刊だったんで。[1]
原作漫画は『週刊少年ジャンプ』で1996年から2004年まで連載。単行本は全38巻
……僕には、です。放課後は公園の東屋でカードを広げて、雨の日は友だちの家で続きを読む。それが毎日の決まりでした。
勝ってたのか。
勝ち負けは、あんまり覚えてないです。誰かが新しいカードを出して、みんなで机をのぞきこむ。その時間のほうが残ってます。
ここから、話の真ん中に入ります。一つずつ畳みますね。
中盤まで中盤の展開(第7巻のあたり)押すと開きます
イツキ「ある日、遊戯のところに、カードゲームを生み出した人からビデオの手紙が届きます。画面の中の相手と、そのままカードで勝負することになる。負けた罰として、おじいさんの魂がビデオテープの中に閉じこめられてしまう」
イツキ「おじいさんを取り戻すには、その人が開く大会に出るしかない。遊戯は大会の舞台の島へ渡っていきます」
イツキ「小学生のときは、どきどきしながら先をめくっただけでした。店に入ってから読み返したら、ここで手が止まって。本を閉じて、帳場の奥にいるじいちゃんの横顔を見に行ったっすよ」
ジン「……そりゃ行くしかねえ」[1]
……畳んだとこ、読んだ。
ここ、何回読んでも手が止まります。
奥の帳場で、祖父が新聞をめくる音がした。イツキは声を少しだけ落として、次の巻を手に取った。
中盤まで中盤の展開(第16巻のあたり)押すと開きます
イツキ「新しくできたゲーム屋で、遊戯は店主の罠にかかって、パズルを奪われます。パズルを取られたまま、その店の新作のゲームで勝負することになる」
イツキ「途中で、パズルを壊されます。もう一人の遊戯の記憶もなくなったと思いこんで、遊戯は声をあげて泣く。対戦相手や、敵の側の人にまで叱られて、もう一回立ち上がって、勝ちます」
イツキ「そのあと、店が火事になる。遊戯は、自分をひどい目にあわせた店主を助けて、それから、壊れたパズルを命がけで組み立てはじめる。見守ってた城之内くんが、最後に遊戯を外へ連れ出します」
イツキ「僕が何回も読み返したのは、この巻です。泣いたあとの遊戯の手が、もう震えてないんで」[2]
……あそこで手を止めねえのか、そいつ。
止めないです。誰かが見てても、見てなくても。
リハで弦が切れても、俺は曲の終わりまでは止めねえ。止めたら、そこから戻ってこれなくなる。
弦が切れても、弾き続けるってことですか。
残った五本で弾く。音は薄くなる。でも止まるよりはましだ。
次は、遊戯の友だちの話も入ってきます。
中盤まで中盤の展開(第17巻のあたり)押すと開きます
イツキ「町じゅうで決闘の大会が開かれる前の晩、城之内くんは自分の切り札の真紅眼の黒竜を、悪い集団に奪われます。次の日、もう一人の遊戯がそれを取り返してくれる」
イツキ「でも城之内くんは、自分がまだ未熟だって思い知って、そのカードを、もう一人の遊戯に預けます。本物の決闘者になったら受け取りに来る。そのときに、あらためて遊戯と勝負する、って誓って」
ジン「……それは契約だろ?」
イツキ「契約、ですか」
ジン「預けた奴は、取りに来なきゃならねえ。預かった奴は、それまで勝手に手放せねえ。両方に効く約束だ。破るなら、最初からするなって話だ」
イツキ「……ジンさん、その言い方、遊戯が聞いたら、たぶん笑ってうなずきます」[1]
このあと、大会の途中に、僕が読むたびに息を止めるところがあります。
中盤まで中盤の展開(第17巻〜第31巻のあたり)押すと開きます
イツキ「敵の集団の頭に心を操られた城之内くんと、遊戯が、負けたら命にかかわる決闘をさせられます。もう一人の遊戯はためらう。代わりに机の前に座ったのは、遊戯のほうでした」
イツキ「遊戯は、仕組まれた反則のカードでどんどん削られていく。それでも、城之内くんの相棒みたいな、あの真紅眼の黒竜を場に呼んで、友だちだったことと、パズルまで賭けて、城之内くんに呼びかけ続けます」
イツキ「それで、城之内くんが自分を取り戻す」
ジン「そいつの音で呼び戻した、ってことか」
ジン「ライブで、ボーカルが飛びかけたら、こっちが先にそいつの歌い出しのフレーズを弾く。自分の音が鳴ってると、人間は帰ってこれる」
イツキ「そういう話だと思います。遊戯は、自分のカードじゃなくて、相手のカードで呼んだんです」[2]
……そうか。
店で初めての人と一戦やるとき、僕、相手が出したそうなカードを、出せるまで待つようにしてて。
勝つ気、ねえだろ。
ないです。その一枚が出た顔のほうが、勝ち負けより残るんで。
日が商店街の屋根の向こうへ落ちて、軒先の裸電球がついた。ジンはギターケースを壁に立てかけ、ワゴンの端に浅く腰をのせた。
ここから先は、終わりの話です。二つ、畳みます。
開ける。……ここまで来て閉じる奴はいねえ。
結末・正体結末(最終巻のあたり)押すと開きます
イツキ「もう一人の遊戯は、古代エジプトの王の魂でした。名前も記憶もなくして、パズルの中で眠ってた。遊戯は、その人の本当の名前を取り戻すために、強い敵とひとりで向かい合えるところまで来ます。名前は、アテム」
イツキ「記憶を取り戻したアテムは、あの世へ帰らなきゃいけない。帰す方法は一つで、アテムを相手に決闘して、勝つ者がいなきゃいけない。その相手を、遊戯は自分から引き受けます」
イツキ「それまで二人は、一緒に組んだデッキを、二人で使ってきました。最後の決闘で、遊戯は自分ひとりで組んだデッキを持ってくる。アテムがいちばん頼りにしてる切り札の手を、遊戯は先に読んでて、それを止めて勝つ」
イツキ「アテムは、遊戯が自分を超えたって認めます。泣いてる遊戯を、アテムのほうが励まして、仲間に見送られて帰っていく」
ジン「……俺なら、勝てねえ。相棒を送り出すための勝負なんて、指が動く気がしねえ」
イツキ「僕は、勝ったから送り出せたんだと思ってます。負けたら、アテムは心配して帰れない」
ジン「……そこは、俺は違う。勝っても負けても、送り出す側はきつい」
イツキ「きついのは、同じです。だから遊戯は泣くんです」[2]
……別に、泣いてるわけじゃねえ。風が冷てえだけだ。
冷えてきましたね。軒先は、夕方からもう寒いです。
最後に一つだけ、漫画の外の話をさせてください。テレビでやってた続きの話の、最初の回。
結末・正体その後(続編アニメの第1話)押すと開きます
イツキ「漫画の何年かあとの世界で、遊戯は伝説の決闘者として名前だけ知られてます。背が伸びて、声も落ち着いてて、胸にもうパズルはない」
イツキ「道でぶつかった若い決闘者に、遊戯は一枚のカードを渡します。ハネクリボー。ラッキーカードだって言って。そのあと遊戯は旅に出て、しばらく出てこなくなる」
イツキ「この回は、ずっとあとになってから観ました。観たとき、自分が店で初めての人にデッキを貸してる理由が、ちょっとだけ分かった気がしました。勝ち方は言わないで、カードだけ渡す。遊戯が、そうしてたから」[2]
……お前、店で客にデッキごと渡しちまうことがあるって聞いたぞ。
ときどきです。教えた人の手に、もう馴染んじゃってるときだけ。
取りに来いとは言わねえのか。
言わないです。次の誰かに渡してくれたら、それでいいです。
……契約にしねえ約束もあるってことか。悪くねえ。
イツキは、名前の書かれた一巻を両手で持ち、表紙をジンのほうへ向けた。それから、思い直したように帳場へ入り、サンクチュアリの前の巻を取ってきて、二冊を重ねた。
今日は結末までしゃべっちゃったので、この一巻は、知ったうえで読む人に渡します。ジンさんに。
……もらっとく。続きは、来週の偵察のときだ。
二巻は、ワゴンの端に立てときます。見返しの名前、次の人の分まで消さずにおきますね。