夕方の公園のベンチ。配達の仕事を終えたルカのとなりに、白い猫がひょいと飛び乗った。ほかに人がいないのを確かめてから、テンが話しはじめる。「作品に助けられた話、ルカにだけはしておきたいにゃ」。ルカは背筋を伸ばして、うなずいた。選んだのは『夏目友人帳』。作品の展開には触れていない。
長い昼寝
最初に言っておくにゃ。この話には、ルカが出てくるにゃ。
……私が、ですか。それは、心の準備をしてから伺ったほうがよろしいでしょうか。少しだけ、お待ちいただけますか。
待たないにゃ。ルカの準備は日が暮れるにゃ。……ルカが急に遠くへ行ってしまった日、テンは長い昼寝の最中だったにゃ。とても高くて明るい場所の、いちばん日当たりのいい窓辺で。起きたら、ルカはもういなかったにゃ。何があったのか、だれもちゃんと教えてくれなかったにゃ。
そうでしたか。テンは、あの日、眠っていたのですね。
そうにゃ。テンがあの場にいたら、ルカのそばで、何か一言くらい言えたかもしれないにゃ。それがずっと、のどに小骨みたいに引っかかってるにゃ。テンはそれから、昼寝がちょっとこわくなったにゃ。寝てるあいだに、また大事なだれかが遠くへ行ったらどうしよう、って。
屋根の上の夜
それで、テンも人の町に……。
理由はいろいろあるにゃ。それは言わないにゃ。とにかく、人の町に降りてきて、猫としてふるまうことにしたにゃ。でも、猫としてどう暮らせばいいのか、ぜんぜん分からなかったにゃ。昼は屋根の上で、知らない人たちの暮らしを見てたにゃ。夜は、室外機の上がいちばんあったかかったにゃ。
室外機の上……。私も、この町に来たばかりのころは、どこで眠ればよいのか分からず、ずいぶん迷いました。毛布をていねいにたたむ癖は、そのころについたものです。
ルカらしいにゃ。テンは、だれかのそばにいたかったにゃ。でも、そばにいて、また大事なときに寝てたらどうしよう、と思うと、だれにも近づけなかったにゃ。窓の中の明かりを、外から見てるだけだったにゃ。
雨の日の傘
ある雨の日、テンは道ばたで丸くなってたにゃ。屋根を探すのも、なんだか面倒になってたにゃ。そこに、だれかが傘をさしかけてくれたにゃ。それがスイにゃ。スイは何も聞かないで、「うち、来る?」とだけ言ったにゃ。
スイさんらしい言い方ですね。返事を急がせない。
そうにゃ。テンは、ついて行ったにゃ。でも最初の何日かは、部屋のすみの段ボールの中から出られなかったにゃ。ここにいていいのか、まだ分からなかったにゃ。
夜十一時の膝の上
スイは毎晩、夜の十一時ごろになると、ローテーブルに温かいお茶を置いて、漫画を読むにゃ。三日目の夜、テンは段ボールから出て、スイの肩ごしにページをのぞいたにゃ。それが『夏目友人帳』だったにゃ。
白泉社の紹介では、『夏目友人帳』は、「妖怪が見える」という秘密を抱えた孤独な少年・夏目が、祖母・レイコの遺品である「友人帳」を手にして以来、妖怪たちから追われる羽目になり、用心棒・ニャンコ先生とともに忙しい日々を送ることになる物語です。作者は緑川ゆきさん。事実[1]
ページの中に、丸い猫がいたにゃ。招き猫みたいな姿で、ほかの人には、ただの猫だと思われてる。でも、ただの猫じゃないにゃ。テンは、そこで息が止まったにゃ。テンと同じだ、って。
ニャンコ先生、ですね。私も読んだことがあります。たしか、ずいぶん偉そうで、よく眠っていて……。
そこにゃ! ニャンコ先生は、よく寝てるにゃ。食べて、ごろごろして、文句を言ってるにゃ。用心棒なのに、ぜんぜん見張ってるようには見えないにゃ。でも、読んでいくと、夏目のそばには、いつも先生がいるにゃ。いちばん大事なところで、ちゃんとそこにいるにゃ。解釈
寝ていてもそばにいる
テンは、そばにいるっていうのは、ずっと起きて見張ってることだと思ってたにゃ。だから、一回寝てしまったテンには、もうその資格がないと思ってたにゃ。でも、先生を見てたら、ちがうかもしれないと思ったにゃ。寝てても、ごろごろしてても、同じ家に帰ってきて、同じ縁側にいる。それを毎日くり返すことが、そばにいるってことかもしれないにゃ。解釈
アニメの公式サイトでは、夏目は自称用心棒のニャンコ先生と共に、友人帳に名を縛られた妖怪たちに名を返す日々を送り、想いを共有できる友人たちにも助けられながら、大切な日々を守るすべを見つけていこうとする、と紹介されています。事実[2]
大切な日々を守る、にゃ。大きな事件から守るんじゃなくて、日々を守る。テンにも、それならできるかもしれないと思ったにゃ。その夜、テンは段ボールに戻らないで、スイの膝の上で寝たにゃ。スイは何も言わないで、ページをめくる手をゆっくりにしてくれたにゃ。
……テン。ひとつだけ、申し上げてもよろしいでしょうか。言葉を選んでいるので、少し時間がかかりますが。
今日は待つにゃ。
あの日、テンが眠っていたことを、私は一度も責めたことがありません。あの場にだれがいても、たぶん結果は変わらなかった。それよりも、こうしてまた隣に座ってくれていることのほうが、私にはずっと大きいのです。……ニャンコ先生のように、と申し上げると、テンは怒るでしょうか。
怒らないにゃ。なによりのほめ言葉にゃ。……神のご加護にゃ、ルカ。
ルカは、なんとも言えない顔をして、それから少しだけ笑いかけて、あわてて背筋を伸ばした。
それからテンは、スイが寝たあと、開いたままの漫画を前足でそっとめくって、続きを読んだにゃ。ニャンコ先生が出てくるコマを、何回も見たにゃ。ある朝、スイが「あれ、しおりの位置がちがう」と首をかしげてたにゃ。テンは知らないふりをしたにゃ。ただの猫のふりは、そこから始まったにゃ。
いまの小さな習慣
いまでもテンは、昼寝が大好きにゃ。スイが仕事の日は、ゲンの家の縁側で、思いきり寝てるにゃ。でも、昼寝の前に一つだけ決めてることがあるにゃ。目を閉じる前に、そばにいる人の顔を一回だけ見ておくにゃ。それで、起きたらまた一回見るにゃ。それだけにゃ。
それは、とてもよい習慣ですね。私も、真似をしてよろしいですか。
いいにゃ。読んでる人も、よかったら真似してほしいにゃ。ずっと見張ってなくてもいいにゃ。同じところに帰ってくるだけで、そばにいることになる日もあるにゃ。
ずっと起きていなくても、毎日同じところに帰ってくれば、それはもう、そばにいるということにゃ。