後期の授業が始まったばかりの大学。図書館前のベンチで、ソウマが文庫本を閉じた。隣ではエマがスケッチブックを広げ、少し離れたところにゴウが缶コーヒーを持って立っている。座らないのかと聞くと、「……ああ、ここでいい」とだけ返ってきた。題目は、大学1年生に薦めたい一作。
ソウマは薔薇色じゃない大学生活を
俺は『四畳半神話大系』。大学1年が観るべきアニメだ。……入学前に観ていたら、俺の春はもう少しましだった。好み
『四畳半神話大系』は森見登美彦の小説で、2004年に太田出版から刊行された。京都市左京区を舞台に、3回生の男子学生が、1回生のときに選んだサークルによって自分の大学生活をいかに変えていったか、その可能性を描く一人称小説。2010年には湯浅政明監督、マッドハウス制作のテレビアニメ(全11話)がフジテレビほかで放送された。事実[1]
3回生って、3年生のこと? Nice、ひとつ覚えた。
そう。主人公の「私」は、大学入学を機にサークル活動を通じて「薔薇色のキャンパスライフ」を目論む。事実[1]
……俺の話じゃない。
1年生は、最初に入るサークルで四年間が決まると思い込む。この作品は、その思い込みを語りの勢いで笑い飛ばしてくれる。どの扉を開けても、たぶん、なんとかなる。解釈
……言葉の多い作品だと聞いた。
多いです、先輩。でも速いので、長い映画が最後まで観られない俺でも、全部いけました。好み
エマは絵だけで読める一冊
私は『タンタンの冒険』! 引っ越してすぐ、フランス語がまだ話せなかったころに、絵だけで最後まで読めたの。好み
『タンタンの冒険』は、ベルギーの漫画家エルジェによるバンド・デシネ(漫画)のシリーズ。ベルギー人の少年タンタンが相棒の愛犬スノーウィと世界中を旅し、事件に巻き込まれて活躍する。世界中に派遣されるベルギー人の少年記者を主人公にした子ども向けの週刊連載として、1929年に始まった。事実[2]
大学生に、子ども向けの漫画か。
大学1年って、初めて一人で知らない町に住む人も多いでしょ。言葉が通じなくても、絵を見れば分かることがある。それを最初に知っておくと、ちょっと強くなれるよ。それに、少年記者が世界中を飛び回るの、ただ楽しい!解釈
だから一年生には、知らない国の作品を一本、字幕でも翻訳でもいいから最後まで、って言いたいの。それだけで、自分の好きの地図がひとつ広がる。好み
……それは筋が通っている。解釈
ソウマはもう一つ短いものを
もう一冊。『山月記』。文学部の授業で読み直して、一行ずつ自分を言い当てられた。好み
『山月記』は中島敦の短編小説で、1942年に『文學界』に発表された中島のデビュー作。唐の時代、詩人となる望みに敗れて虎になってしまった男・李徴が、自分の数奇な運命を友人の袁傪に語る変身譚。事実[3]
自分には才能があるかもしれないと思っていて、確かめるのが怖い。大学1年の春って、たいていそれだ。短いから、通学の電車で一往復すれば読める。解釈
虎になる話? Cool。でも、怖くない?
怖い。怖いから、1年のうちに読んでおく。……今のは、ちょっと格好つけすぎた。忘れて。解釈
ゴウは迷い方を
俺は『バガボンド』だ。好み
『バガボンド』は井上雄彦の漫画で、原作は吉川英治の小説『宮本武蔵』。『モーニング』で1998年から連載され、2015年以降は休載している。単行本は37巻まで刊行されている。事実[4]
剣の道をひたすら歩く男の話だ。強くなるほど、強さとは何かが分からなくなる。……1年生は、迷っていい。迷い方を見ておけ。解釈
先輩、それ、たぶん1年生がいちばん言われたい言葉です。解釈
でも37巻って長くない?
全部でなくていい。最初の数巻でいい。続きは、迷ったときに読め。好み
迷っていいって言いながら、先輩自身は迷ってなさそうですよね。
……迷っている。稽古のときは、いつも。好み
意外。でも、ちょっと安心した。
それぞれの1年生の春
ねえ、ソウマは1年生の春、何してた?
……裏方。サークルの新歓で、気づいたら受付の机を一人で並べてた。目立つ場所が苦手なんだ。好み
それで、気づいたら全体を回してたんでしょ。知ってる。解釈
俺は1年の春に、空手の道場の門をたたいた。師範に「どう見ても堅気じゃないのう」と笑われた。好み
竜山先生、それ本人に言ったんだ?
……ああ。その日に入門した。それでいいと思った。好み
1年の春に、居場所を一つだけ決める。全部じゃなくていい。……それなら、俺も1年生に言える。解釈
私は1年のとき、学食でソウマに知らないアニメの説明を頼んで、一時間しゃべらせた。好み
……あれは三十分だ。
一時間。時計見てたもん。でも、あれで観たい作品が三本増えたよ。先輩に一本聞くのって、いちばん安い入口かも。解釈
扉は開けるか閉めるか
ねえソウマ。「どの扉を開けても、なんとかなる」って、本当に1年生に言っていいの? 私は、扉はたくさん開けたほうがいいと思う。開けてみないと、なんとかなるかどうかも分からないよ。解釈
……結局、同じことだろ。閉めた扉を悔やむなってことだ。解釈
同じじゃないよ。私は引っ越しのたびに、新しい学校で最初に「それ、なに?」って聞いてた。聞かなかった扉は、ずっと開かなかった。好み
開けるのも、閉めるのも、自分で決めたなら筋は通る。決めずに流されるのが、いちばん後で効く。解釈
……まあ、なんとかなる。
ほら、また言った。
最後に一人一作
『四畳半神話大系』。大学生活は、一つの選択じゃ決まらない。好み
『タンタンの冒険』! 知らない国の作品を一本、最後まで。好み
『バガボンド』。迷っていい。押忍。好み
ベンチを立つとき、ゴウはソウマの重いトートバッグを黙って持ち上げた。ソウマは「……別に、持てますけど」と言いかけて、やめた。1年生に「サークル選びは大事だ」と言うかどうかは、三人とも最後まで言わなかった。解釈
大学1年生には「迷っていい」と言ってくれる物語を。扉は開けても閉めても、自分で決めたなら筋は通る。