あの作品に助けられた

台所の明かりと「で、準備は?」

ひとりで暮らしを立て直していたころ、ミサを支えたのは、息子が寝たあとに観る『プリズン・ブレイク』でした。口ぐせの「で、準備は?」が生まれた夜の話を、聞き手の息子ハルと一緒にたどります。

こんな人に
暮らしを一から立て直していて、毎日が手一杯な人へ。『プリズン・ブレイク』を観たことがない人にも読める話です。
ネタバレの範囲
ネタバレなし シーズン1の導入(弟が兄を救うために刑務所へ入る設定)まで。計画の中身や、その後の展開・結末には触れません
話している人
ミサ × ハル
主張の種類: 事実 作中の観察 根拠のある推測 解釈 好み
目次 全6節・約6分
  1. 一話だけ、のはずだった夜
  2. 自分から入っていく人
  3. ノートの書き方を変えた
  4. 夜中の台所
  5. 「で、準備は?」の本当の意味
  6. いまの小さな習慣

「しおりのある部屋」の夕方。ハルが、母のミサにたずねました。「母さんがドラマに助けられたのって、いつ?」。ミサが選んだのは、ひとりで暮らしを立て直していたころの話。支えになったのは海外ドラマの『プリズン・ブレイク』です。物語の展開には触れていません。

一話だけ、のはずだった夜

ハル

母さんがいちばんしんどかったのって、やっぱりあのころ?

ミサ

そうね。ひとりになって、振付の仕事を本業にしようって決めたころ。決めたのは私だから、言い訳はしない。ただ、毎日が本当に手一杯だった。

ハル

僕、あんまり覚えてないんだよね。母さん、いつも普通の顔してたから。

ミサ

普通の顔をするのは得意なの。昔からカメラの前に立ってたから。……でも、あなたが寝たあとは、普通の顔をしなくてよかった。台所の明かりだけつけて、テーブルにノートを広げて、来週のレッスンの振りを考えるの。考えても考えても、何も出てこない夜が続いた。

ハル

そのときに、ドラマ?

ミサ

そう。借りてきたDVDを、一話だけ観て寝ようと思ったの。気分転換にね。で、気づいたら窓の外が明るくなってた。

ハル

朝まで? 母さんが?

ミサ

朝までよ。その日のレッスンは、むくんだ顔で行った。冷やしたスプーンで目元を戻しながら。生徒には「ちょっと寝不足」って言ったけど、ちょっとどころじゃなかったわね。

自分から入っていく人

ディズニープラスの作品ページでは、『プリズン・ブレイク』は、無実の罪で死刑判決を受けた兄リンカーンの命を救うために、弟マイケルが刑務所に赴く姿を描いたサスペンス・アクション・ドラマと紹介されています。事実[1]

ハル

母さんの好きそうな設定だね。誰かのために全部賭けるやつ。

ミサ

最初はそこにしびれたの。でも、何夜か続けて観ているうちに、刺さるところが変わってきた。私が目を離せなくなったのは、主人公が黙って準備している場面だったの。解釈

ハル

準備?

ミサ

そう。大きなことをやろうとしている人が、壁を見て、時間を測って、人の動きを覚えてる。ひとつずつ確かめて、ひとつずつ積んでいく。焦った顔をしないの。とんでもなく大きな目標なのに、今日やることは小さい。解釈

ミサ

あのころの私は逆だった。振付の仕事を本業にする、あなたを育てる、暮らしを立て直す。目標が大きすぎて、毎晩ノートの前で全部いっぺんに考えようとしてた。そりゃ、何も出てこないわよね。解釈

ハル

母さん、自分にも厳しいもんね。

ミサ

厳しいのは、悪いことだと思ってなかったの。モデルの仕事をしてきたから、鏡の前で自分に厳しくするのは当たり前。でもあのころは、厳しくする相手が自分しかいなかった。誰かに見てもらって直されるんじゃなくて、自分で自分を直し続ける。それ、けっこう削れるのよ。

ハル

ドラマの主人公も、ひとりで全部背負ってる感じ?

ミサ

背負ってる。でもね、あの人は自分を責めてる顔をしないの。うまくいかないことがあっても、次に確かめることを探してる。責めるより、確かめる。それを見ていて、私は毎晩自分を責めるのに時間を使いすぎてたって気づいたの。責めても振りは出てこない。確かめれば、少なくとも次の一歩は分かる。解釈

ハル

責めるより、確かめる。なんか母さんっぽくない言葉だな。

ミサ

失礼ね。……でも、そうね。もとの私の言葉じゃない。あのドラマから借りてきた言葉よ。

ノートの書き方を変えた

ハル

それで、どうしたの?

ミサ

ある夜、ドラマを止めて、ノートの書き方を変えたの。来週の振付全部、じゃなくて、明日やる準備を三つだけ書く。音源を切る、最初の八カウントを決める、スタジオの鏡の前で一回通す。それだけ。

ハル

三つだけって、母さんにしては少なくない?

ミサ

少ないのよ。最初は物足りなくて、自分に腹が立った。私はもっとできるはずなのに、って。でも、三つなら必ず終わる。終わったら、ご褒美に一話観ていい。そう決めたら、不思議と振りが出てくるようになったの。

ハル

ご褒美の一話は、一話で止まったの?

ミサ

……止まらない日もあった。そこは聞かないで。

夜中の台所

ハル

あ、思い出した。夜中に水を飲みに起きたら、母さんが台所でノートに何か書いてて、テレビが止まってたことがある。「何してるの」って聞いたら、「準備してるの」って。

ミサ

覚えてたの。……そう、あれよ。テレビの中の人が準備してたから、私も準備してたの。あなたにはドラマを観てるって言えなかったけど。

ハル

言ってくれればよかったのに。僕、そのとき「準備」って、なんかかっこいい言葉だなって思ったんだよ。

ミサ

そうだったの。……知らなかったわ。

ミサ

あの夜のこと、私も覚えてる。あなたが寝ぼけた顔でコップを持って立ってて、私は慌ててテレビを消そうとして、リモコンを床に落としたの。あなたは何も言わずに水を飲んで、「おやすみ」って戻っていった。あの「おやすみ」で、なんだか肩の力が抜けたのよ。そのあと書いた三つは、いつもより早く終わった。

「で、準備は?」の本当の意味

ハル

じゃあさ、僕が何か始めるって言うと、母さんが褒める前に「で、準備は?」って聞くのって。

ミサ

たぶん、あの夜からね。厳しく聞こえるのは分かってる。期待している相手ほど、先に直すところを言っちゃうの。私の悪いくせよ。

ミサ

でもね、あれは「やめなさい」じゃないの。準備さえしていれば、大きなことをやろうとしても怖くない。私はそれを、あのドラマと、あの台所で知った。だから聞くの。あなたが怖くないように。解釈

ハル

……それ、もっと早く言ってほしかったな。

ミサ

言わないのも準備のうちよ。……なんて、いまのは格好つけすぎね。ごめん。

いまの小さな習慣

ハル

いまも三つ書いてる?

ミサ

書いてる。レッスンの前の晩に、明日の準備を三つだけ。生徒ひとりずつにも、ひとつずつ書くようになった。イロハには「音を信じる」、アカリには「強く見せる」、リリィには「一拍目を褒める」。最後のは、私の準備ね。

ハル

母さんの準備なんだ。

ミサ

そう。私、すぐ直すところから言っちゃうから。褒める準備をしておかないと、間に合わないのよ。

ハル

僕の本番の日は?

ミサ

いちばん前の席を取る。それが私の準備。あなたは、集合時刻くらい守りなさい。

暮らしを立て直している最中は、目標が大きすぎて、何から手をつければいいか分からなくなることがあります。そんな夜は、明日やることを三つだけ書いて、あとは好きなものを一話だけ観て眠る。それくらいの準備から始めても、いいのかもしれません。解釈

大きなことをやる人ほど、今日の準備は小さい。三つ書いたら、一話だけ観て寝なさい。

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