助けられた話をせよ、と言われた。余は大帝である。助けられた覚えなど……一つだけある。城下に灯りを通したころの話だ。聞き手は竜山殿。夜通し起きていた余と、夜明け前に稽古を済ませた竜山殿とでは、同じ時刻でも一日の端と端におる。
夜明けの道場と寝椅子
おう、起きとったか。こっちは稽古が済んで、茶を淹れたところじゃ。
余は寝ておらぬ。寝ると回線が切れるのでな。竜山殿、今朝は一つ、聞いてもらいたい話がある。
ほう。頼みごとをされるとは、珍しい朝じゃ。
城の水車で電気を起こして、城下に電灯を引いた話は、前にしたな。夜にも市が立つようになり、民にずいぶん讃えられた。困ったのは、その後である。讃えられてひと月もせぬうちに、灯りが一つ、また一つと消えはじめた。
そりゃいかん。市が暗うなったか。
端から順にな。民は何も言わぬ。何も言わぬのが、いちばんこたえた。余は夜ごと、水車小屋の脇の機械の箱の前に座りこんだ。
どのくらい続いた。
十日ほどだ。昼は政、夜は箱の前、その合間に研究。目の下に影ができて、家臣どもが余の顔色をうかがうようになった。余は機械を前にすると、つい力で押し通そうとする。画面を叩く加減が分からぬのと同じでな。箱の蓋を何度も開け閉めして、留め金を一つ曲げた。
直すつもりで、壊しとるのう。
説明書は付いとらんかったんか。
箱には説明書が付いておった。細かい図と、人間界の細かい字でな。……余は、字幕なら読める。説明書は読めぬ。
字幕と説明書は、別ものじゃからのう。
笑いごとではない。家臣に見せれば済む話だと、頭では分かっておった。だが讃えられたばかりの王が、紙一枚を前に『読めぬ』とは言えぬ。夜は箱の前、明け方は寝椅子。じいやが『お休みなされ』と言うたびに、余は『普請の最中である』と返した。返事が日に日に短くなっていった。じいやも、余もだ。
なんで、その場でじいやどのを呼ばんかった。
呼べば、讃えられた余が崩れる気がした。城の者は、余が何でもできると思うておる。そう思わせてきたのは、ほかならぬ余だ。
思わせとくのも、骨が折れるのう。俺も道場で、弟子の前では膝が痛うても顔に出さんようにしとる。
秘書の机の前で止めた再生
その普請の合間に、余は一本の海外ドラマを観ておった。灯りがともった夜から始めた、交渉術の研究である。『SUITS/スーツ』は、ニューヨークの法律事務所が舞台の弁護士ドラマだ。並はずれた記憶力をもちながら大学を追われた青年マイクが、学歴を偽ったまま、腕利きの弁護士ハーヴィー・スペクターの部下として働く。事実[1]
そのハーヴィーのそばには、秘書を務めるドナ・ポールセンがいる。人の内側を見抜くことに長けた、腹心の秘書である。事実[2]
最初は、交渉の手並みを盗むつもりで観ておった。だが疲れておると、目は主役の顔ではなく、その後ろに控える者のほうへ行く。余が見ておったのは、弁護士より、その机の前に座る秘書のほうでな。好み
秘書か。疲れとるときほど、脇におる人間がよう見える。道場でも、へばった者ほど、人の稽古をよう見とる。
あの弁護士は尊大である。勝つことしか頭にない、と顔に書いてある。それでいて、自分の目の届かぬところは、あの秘書に預けてしまう。預けることを恥とも思うておらぬ顔でな。余にはそう見えた。解釈
強い者ほど、上手に人をあてにしとるもんじゃ。解釈
その夜、余は再生を止めて、しばらく暗い画面を眺めておった。尊大な男が、見えぬものを見える者に預けておる。大帝ともあろう者が、紙一枚を抱えこんで夜を明かす。どちらが王らしいか、考えるまでもなかった。……あれは、効いた。解釈
明け方に渡した一冊
で、どうした。
明け方、じいやを呼んだ。説明書を差し出して、ひと言だけ言うた。『読んでくれ』と。
それだけか。
それだけだ。じいやは何も聞かずに受け取って、昼までに読み通した。どの留め具が緩んでおるか、何を替えればよいか。余に分かる言葉に直して、帳面に書きつけてくれた。三晩のうちに、市の端から灯りが戻った。
じいやどのは、何も言わんかったか。
一つだけ言うた。「十日前にお渡しくだされば」と。……余は返す言葉がなかった。あの十日、余が守っておったのは灯りではなく、讃えられた余の顔のほうであったのだな。解釈
戸も同じじゃ。建て付けを知っとる者が触れば、すっと閉まる。俺も戸を直しとったころ、細かい金具だけは得意な仲間に回しとった。頼むのは負けやない。段取りじゃ。
段取り、か。兵站と同じだな。民の前では、讃えられたときと同じく『普請である』とだけ言うた。照れ隠しでもあったが、手柄の大半が余のものではなかったからだ。
灯りが戻った晩、余は塔の上から市を見下ろした。端の屋台から順に灯って、最後に広場の真ん中が明るくなった。民が上を見て手を振っておったが、余は塔の陰に引っこんだ。手を振り返すのは、帳面を書いた者のほうがふさわしい。
じいやどのを塔に上げりゃよかったんじゃ。
上げようとした。腰が痛いと断られた。
そりゃ、じいやどのらしい。
盆になった五台目
礼のつもりで、五台目のタブレットをじいやに渡した。余と同じものを観られるように、とな。
ええ礼じゃないか。
ところがじいやは、それを茶を運ぶ盆にしておる。毎朝あの板の上に湯呑みが載って、余の部屋まで運ばれてくる。画面は一度も点けておらぬらしい。
ははは。そりゃ、じいやどのの一本勝ちじゃ。平らで、軽うて、よう働く盆じゃろう。
うむ。盆としては、余の四台よりよく働く。
画面は点けんでも、毎朝お前さんの部屋まで茶を運んできとる。それで十分じゃろう。
……そうであるな。あの盆が来ると、余は寝椅子から起きて、マントの襟くらいは直す。一日のうちで、余がいちばん行儀のよい刻限だ。
その弁護士のドラマは、いまも観とるんか。
研究は済んだ。だが、あの秘書が出てくる場面だけは、ときどき観なおしておる。じいやの盆が来る刻限に合わせてな。好み
いまは、説明書が来たらどうしとる。
開く前に、じいやに渡す。余は図だけ眺めて、分かったような顔をするだけだ。それと、もう一つ。渡すときに『読んでくれ』ではなく、『頼む』と言うようにした。
そうか。それで、じいやどのは何と。
聞こえぬふりをする。ただ、盆に載ってくる茶が、前より少し熱い。……竜山殿、茶をかたじけない。余はこれから、熱いのを一杯もらってくる。
読めないものを抱えこまず、読める人に「頼む」と渡す。尊大な弁護士の秘書の机は、余にそれを見せてくれた。