あの作品に助けられた

膝を痛めた冬に座布団の芸を観た

毎朝だれより早く道場に立つ竜山にも、道場へ行けなかった冬がある。膝を痛め、弟子に任せることもできず、茶の間で腐っていた夜に観たのが『昭和元禄落語心中』だった。聞き手は弟子のエマ。道場では内緒の話です。

こんな人に
体が思うように動かず、自分の居場所が遠くなったように感じている人へ。人に任せるのが下手な人にも。
ネタバレの範囲
ネタバレなし 『昭和元禄落語心中』の導入(与太郎が八雲の落語に出会い、弟子入りを願うところ)と、高座の場面の雰囲気まで。師弟の行く末や過去の出来事には触れません
話している人
竜山 × エマ
主張の種類: 事実 作中の観察 根拠のある推測 解釈 好み
目次 全7節・約6分
  1. 道場に行けなかった冬
  2. 茶の間に届いた宿題
  3. 座ったままの芸
  4. 師匠の背中
  5. 電話の次の朝
  6. 毎晩一話ずつ
  7. いまの小さな習慣

朝稽古のあと、道場の隅でエマが帯を結び直しながら聞きました。「師範、何年か前の冬、しばらく道場に来なかったって先輩から聞きました。何があったんですか?」。竜山は湯呑みを二つ出して、少し笑ってから話し始めました。

道場に行けなかった冬

エマ

師範が朝稽古を休むなんて、想像できないです。風邪ですか?

竜山

風邪なら這ってでも来とる。膝じゃ。八十を過ぎたころの冬に、道場の前の凍った道で足を滑らせてのう。大したことはないと思うとったら、しばらくは歩くのもやっとじゃった。医者には、当分は道場に立つなと言われた。

エマ

……それは、つらかったですね。

竜山

体の痛みは、まあ我慢できた。困ったのは心のほうじゃ。十代から六十年以上、毎朝道場に立ってきた。立てんとなったら、自分が何者か分からんようになった。朝五時に目が覚める。行くところがない。茶の間で、時計の針ばかり見とった。

エマ

道場は、どうしてたんですか?

竜山

そこがな、俺の悪いところでのう。古い弟子が「朝稽古は私らで回します」と言うてくれたのに、俺は首を縦に振らんかった。休みにせえ、と言うた。俺のおらん道場で、俺の知らん稽古をされるのが、どうにも嫌じゃったんじゃ。

エマ

……意外です。師範って、何でも笑って任せる人だと思ってました。

竜山

ははは、ええ年をして、肝っ玉の小さいことじゃ。勝ち方の策ならいくらでも練れるのに、自分の手を離す策だけは、どうしても練れんかった。

茶の間に届いた宿題

竜山

そんなある日、若い弟子が見舞いに来てのう。帰りぎわに、テレビで観られるようにしてくれて、「師範、これ観てください。師範の話です」と言うて置いていった。それが『昭和元禄落語心中』じゃった。

エマ

アニメ、ですか? 師範が?

竜山

俺も最初は、アニメなんぞ孫の世代のもんじゃと思うた。じゃが、ほかにすることもない。夜の十時ごろ、膝に毛布をかけて、湯呑みを片手に一話目を観た。

公式サイトの紹介によると、物語は、刑務所の落語慰問会で見た大名人・八雲の「死神」が忘れられず、出所した与太郎が真っ先に寄席へ向かうところから始まる。与太郎は八雲を拝み倒して、住み込みの弟子になる。事実[1]

座ったままの芸

エマ

何がいちばん効いたんですか? 教えて?

竜山

最初に効いたのは、高座の場面じゃ。噺家は座布団に座ったまま、一歩も動かん。それなのに、声と顔と手だけで、町も人も天気も、全部こっちに見せてくる。俺は毛布の下で、動かん膝をさすりながら観とった。作中の観察

エマ

動けないのに、全部見せる……。

竜山

そうじゃ。俺はそれまで、立って動いて見せることしか、教え方を知らんかった。立てん俺には何もできん、と思い込んどった。ところが画面の中では、座ったままの人間が、客席をまるごと持っていきよる。……座っとっても、声と目は使える。そう思うたら、ずいぶん久しぶりに、腹の底があったかくなった。解釈

師匠の背中

竜山

もうひとつは、師匠と弟子の話じゃ。展開は言わんぞ。じゃが、師匠が弟子に芸を渡すときの、あの不器用さ。全部は教えん。教えたくても教えられんこともある。弟子は弟子で、師匠の写しになろうとして、なれんで、もがく。解釈

エマ

師範も、全部は教えてくれないですよね。型の理由、聞いても半分しか言わないし。

竜山

ははは、ばれとったか。……あれを観ながら、俺は気づいたんじゃ。道場を休みにしたのは、弟子を守るためじゃない。俺がおらんでも道場が回ってしまうのが、怖かったんじゃとな。師匠が手を離さんかったら、弟子は自分の芸を見つけられん。俺は、自分の弟子から朝稽古を取り上げとったんじゃ。

エマ

……。

竜山

それで、三話目か四話目を観た夜じゃったか、古い弟子に電話をかけた。「明日から朝稽古を頼む」とな。電話の向こうで、あいつが黙ってしもうて、こっちまで何も言えんようになった。

電話の次の朝

エマ

次の日の朝稽古、どうだったんですか?

竜山

俺は行けんからのう。朝の五時に目が覚めて、茶の間で時計を見とった。六時、いまごろ礼をしとる。六時半、基本の突きじゃ。七時、そろそろ型か。行っとらんのに、体のほうが勝手に稽古の順番をなぞっとった。

エマ

……師範らしいです。

竜山

昼過ぎに、古い弟子から電話が来た。「無事に終わりました。子どもらも元気でした」とな。ほっとした。ほっとしたのと同じくらい、ちょっと悔しかった。俺がおらんでも、道場はちゃんと回る。分かっとったことじゃが、耳で聞くと堪えるもんでのう。

エマ

悔しかったんですか。

竜山

悔しかった。じゃがその夜、また一話観て、座布団の上の噺家を見とったら、だんだん腹が据わってきた。芸は、演じる者が替わっても続いていく。道場も同じじゃ。俺の道場が、俺のものでなくなっていくのは、たぶん、ええことなんじゃとな。解釈

エマ

私、引っ越しが多かったから、どの国の道場でも、先生が替わっても型は同じでした。それで安心してたんです。いま、ちょっとその理由が分かった気がします。

竜山

ははは、ええじゃないか。型が続くのは、誰かが手を離して、誰かが受け取ったからじゃ。お前さんは、その受け取る側の名人じゃな。

毎晩一話ずつ

エマ

そのあとも、ずっと観てたんですか?

竜山

毎晩一話ずつと決めた。一気に観たら、膝が治る前に終わってしまうからのう。昼は道場から届く稽古の様子を聞いて、夜は高座を一席聞く。そのうち、椅子に座ったままでも、口で型の注意ができるようになった。復帰したのは、春になってからじゃ。

エマ

泣きましたか?

竜山

……それは内緒じゃ。弟子どもには言うとらん。エマ、ここだけの話にしとけよ。

エマ

大丈夫です。秘密を守るのは、得意なので。

竜山

……そうじゃろうのう。お前さんは、そういう足運びをしとる。

エマ

えっ、空手ですよ? 空手!

いまの小さな習慣

竜山

いまも毎朝、だれより早く道場には来る。じゃが、週に一度は、朝稽古の号令を古い弟子にかけさせて、俺は隅で座って見とる。座って見とると、立っとったときには見えんかったものが見えるんじゃ。誰の足が疲れとるか、誰が今日は気が乗っとらんか。

竜山

もし今、体が思うように動かんで、自分の場所が遠くに行ってしもうたように感じとる人がおったら、無理に立たんでええ。座ったままでできることを、ひとつ探してみなされ。それと、手を離すのは負けじゃない。次の者に席を譲るのも、立派な技のうちじゃ。

立てん日は、座ったままできることをひとつ。手を離すのも、立派な技のうちじゃ。

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