土曜の午後一時。模型店の奥の作業スペースには、換気扇の低いうなりだけが響いていた。タカシは約束の十分前に着いて、長机の端に新聞紙を敷き、その上に箱を一つ置いた。作業着の胸ポケットには、いつもの手帳とペンが差してある。
この作業台で、二人は何度か隣り合わせになったことがある。先週、タカシが帰りぎわに、ためらいながら声をかけた。汚しの塗り方を、一度見ていただけないでしょうか。ユナの返事は短かった。いいよ、土曜に持ってきて。
一時ちょうどに、ユナが工具箱を提げて入ってきた。上着の袖には、どこかで飛んだ錆色の点がいくつも散っている。年上のタカシを前にしても、口調はいつもの店先と同じだった。
おつかれー。それ? 開けていい?
はい。お休みの日に、お時間をいただいてすみません。こちらです。
箱の中には、緑に塗ったザクが一機、緩衝材にくるまれていた。脚から腰にかけて、茶色の筋が何本も入っている。丁寧な仕事だった。丁寧すぎるくらいに。
資料を見ながら、汚れを足してみたんです。ところが、何度見ても、あとから描き足した模様にしか見えなくて。どこが違うのか、自分では分からないんです。
ユナは返事をしなかった。ザクを手のひらに載せ、天井の照明の下で、ゆっくり回す。脚の裏をのぞき、肩の角を親指でなでて、もう一度正面に戻した。タカシは手帳を開いたまま、息をひそめて待った。
タカシさん、筆、下から上に動かしたでしょ。
……はい。下のほうがよく汚れるはずなので、足元から始めて、上へ。
始める場所はそれで合ってるよ。でもさ、雨とか砂ぼこりって、空から落ちてきて、上から下へ流れてくじゃん。筆の向きが逆だと、筋の太いほうが下に来て、細いほうが上で終わる。だから、流れてきた汚れじゃなくて、誰かが描いた線に見えちゃうの。
タカシのペンが止まった。それから、手帳の新しいページの一行目に、ゆっくりと書きつけた。流れは上から。
口で言うより、やったほうが早い。ちょっと待ってて。
ユナは自分の工具箱から、プラ板の切れ端を一枚出した。ふだんは塗料の試し塗りに使っている、しおりほどの大きさの板だ。そこに薄い灰色を吹いて、乾くのを待つあいだに、筆先に茶色をほんの少しだけ含ませた。余分な色は、ティッシュでしつこいくらいに落とす。
筆を板の上の端に当てる。すっと下ろす。途中で力を抜いて、筆を板から離す。それだけの動きを、間を空けて五回くり返した。上は濃く、下へ行くほど細くかすれて、最後は板の色に溶けていく筋が五本並んだ。
同じ茶色なのに、まるで別の色に見えますね。
でしょ。上で色を置いて、下で手を抜く。汚れって、最後は消えてくもんだから。消えてくところまで描くと、描いた感じがなくなるんだよ。
一本、引かせていただいてもいいですか。
ユナが板と筆を差し出す。タカシは筆を握りしめるように持ち、上から下へ一気に引いた。筋は最後まで同じ太さで、板の下の縁まで茶色が届いてしまった。二本目は、ユナが黙って指さした筆の持ち方をまねて、少し軽く握る。途中で力を抜くと、筋の先がかすれて、灰色の中に消えた。
それ。いまのは、ちゃんと空から降ってきた。
握りすぎていました。力を抜いたところに、汚れが生まれる。
では、足元の汚れも、上から下へ引けばよいのでしょうか。
そこは逆。足元の泥は、地面から跳ね上がってくるでしょ。だから膝から下だけは、下から上に、ぽんぽんって叩くみたいにのせる。上から降ってくるものと、下から跳ねてくるもの。向きが二つあるって気づいてから、あたしはだいぶ外さなくなった。
タカシは手帳に矢印を二つ書いた。下向きの長い矢印と、上向きの短い矢印。その横に、小さく「跳ね」と添える。ユナはそれをのぞきこんで、ちょっと笑った。
メモ、きれいすぎ。あたしのメモ、たぶん本人しか読めないよ。
書いておかないと、帰り道で半分忘れてしまうんです。聞いたつもりで何も残っていない、ということが多い人間でして。
ユナさんは、この向きをどこで覚えたのですか。
あたしも最初は、タカシさんと同じことやってたよ。で、ある日、駅の看板の下に雨の筋がついてるのを見て、あ、上が濃いんだって気づいた。それから雨の次の日は、団地の壁とか、ガードレールとか、エアコンの室外機ばっかり見て歩いてる。だいたい答えがそこに書いてあるから。
答えは、外の壁に。明日の朝は、会社の前の雨どいの下を見てみます。
ユナはもう一枚、別の切れ端を出した。今度は板の端を、ザクの肩に見立てて、角の部分だけを細い筆でなでる。色がのるのは角のほんの縁だけで、平らなところには何も残らない。
角はね、ぶつかったり、こすれたりで、塗装がはげて下の色が出てくるとこ。ここは、ちょっとだけ明るくする。……ちょっと待って、いま乾く前。
そう言ったきり、ユナは黙った。筆を持つ手首は動かさず、指先だけで線を引いている。爪は、その週に塗っている機体に合わせた錆色だった。タカシは何かを聞きかけて、口を閉じた。換気扇の音と、筆が板をこする小さな音だけが、しばらく続いた。
……はい、乾いた。で、なんだっけ。
いえ、見ていただけで十分でした。ユナさんは、筆を持つと別の方になりますね。
よく言われる。しゃべりながらだと、線がぶれるの。
ユナはタカシのザクをもう一度手に取って、肩のスパイクの根元を指さした。
前から聞きたかったんだけどさ、タカシさんって、なんでいつも敵の側ばっかり作んの。ザクとか、ほかにもいっぱいいるやつでしょ。
ええ。ザクは、敵の側のジオン公国軍の主力の量産機で、作中には同じ型が何機も出てきます。そういう機体のほうが、どうしても気になってしまうんです。[1]
ザクは、たくさん作られた兵器として描かれていて、乗っているのは軍の兵士たちです。名前も、ありふれた雑兵、という意味の言葉からつけられたと聞きました。[1]
名前の残らない人が乗る機体の、帰り道を想像してしまうんです。……すみません、話が大きくなりました。
ううん、それ、すごい分かる。同じ形が何機もいるならさ、どの一機かを決めるのって、汚れなんだよ。どこを歩いてきて、どこで雨に降られたか。汚しを入れた瞬間に、その子だけのザクになる。
……その子だけの、ですか。
そう。タカシさんのは、いま、みんな同じ日に同じ汚れ方をしてる感じ。だから、ちょっと描いた模様に見えるのかも。
タカシはしばらく黙って、箱の中のザクを見ていた。それから手帳に、もう一行書き足した。一機ずつ、違う天気。
家にあるものを、全部やり直したくなってきました。
あたしは全部いっぺんにやろうとすると、だいたい途中で嫌になっちゃうんだよね。だから最初は一機だけにしてる。いちばん気に入ってるやつを、一機だけ上から。
おっしゃる通りです。私も会社で、一度に全部を変えようとして、現場をすっかり疲れさせてしまいました。一か所ずつ、ですね。
模型も一緒。全部いっぺんに汚すと、どれもおんなじ天気になっちゃうから。
一機だけ。分かりました。今度の日曜にやってみます。
帰りぎわ、ユナは試し塗りのプラ板を二枚、タカシの手帳のあいだに挟んだ。いいよ、それ見本にして。タカシは礼を言って、それが曲がらないように、手帳を両手で胸ポケットに戻した。
次の日曜の朝。タカシは書斎の机に新聞紙を広げ、棚に並んだ敵の機体の中から、ザクを一機だけ選んだ。ユナの板を横に立てかけ、筆の先の色をティッシュで落とし、肩の上から、すっと下ろす。途中で力を抜く。膝から下だけは、下から叩く。
昼すぎ、塗り終えた一機を棚に戻した。隣に並ぶほかのザクと、形は同じだった。ただ、その一機だけが、どこかから雨の中を歩いて帰ってきたように見えた。タカシは眼鏡のつるを中指で押し上げ、手帳の矢印の横に、今日の日付を小さく書き入れた。