日常

文化祭の教室で走るのはゲームの中だけ

ネタバレの範囲 ネタバレなし どの作品も、紹介文と設定で分かる範囲まで。物語の展開と結末には触れません

三年の教室は、ハンドル付きのレースゲーム体験。説明係のハヤテのもとへ、作業着のタカシと、ギターケースを背負ったジンが続けてやってくる。ナンバープレートのない名車と、峠の走り屋の漫画をめぐって、教室の後ろで小さな論争が始まる。

こんな人に
文化祭の教室に、知り合いの大人が来ると少し照れる人へ。速さの話が好きなのに、公道ではいちばん慎重な人にも。
話している人
ハヤテ × ジン × タカシ
学校 高校の三年の教室(文化祭の出し物「レースゲーム体験」) 土曜の昼過ぎ、文化祭の一般公開の日

机を後ろに寄せた教室に、ハンドルとペダルの付いたゲームの席が三つ並んでいる。窓には段ボールで作ったチェッカーフラッグ。黒板には「ハンドルを握る前に、シートの位置を合わせてください」と、ていねいな字で書いてあった。書いたのはハヤテだ。

ハヤテはクラスで一つ年上だ。説明係を任されたのは、そのせいではなく、去年の文化祭の準備の日に、ハンドルの配線を一人で全部直したからだった。

最初に入ってきたのは、作業着の男の人だった。胸に小さな花束を抱えている。

タカシ

ハヤテくん。お邪魔します。……教室の入口に飾ってもらえればと思いまして。店の余りものですが。

ハヤテ

タカシさん。来てくださったんですね。……ありがとうございます。チェッカーフラッグの横に置きます。

花を飾り終えたところで、廊下がざわついた。黒い革ジャンに、ギターケース。どう見ても文化祭の客には見えない男が、教室の入口で足を止めた。

ジン

……ここか。師匠のクラス。

教室の空気が止まった。受付の机にいた同じクラスの女の子が、ハヤテのほうを振り返った。

同じクラスの子

ハヤテくん、……師匠って、なに?

ハヤテ

……カートの、少し知り合いの方です。気にしないでください。

ジン

気にしろよ。周回遅れにされたんだぞ、俺は。

ジンは教室の奥に作業着の男を見つけて、眉を上げた。タカシのほうも、少し驚いた顔で会釈した。

ジン

……社長もいんのかよ。

タカシ

ジンさん。こんにちは。隣の家の子の文化祭ですので。……ジンさんこそ、どうしてこちらに。

ジン

偵察だ。師匠が教えてる走り方を、一回ちゃんと見とこうと思っただけだ。別に、応援じゃねえ。

ハヤテ

では、お二人とも、一周ずつどうぞ。……その前に、シートの位置を合わせてください。

ジンは座るなりアクセルを踏みこんだ。最初のコーナーで壁に当たり、二つ目のコーナーでも壁に当たった。

ハヤテ

ジンさん。ブレーキは、速く走るためにあります。

ジン

……知ってる。最初に教わった。分かってても、足が勝手に行くんだよ。

ハヤテ

コーナーの手前で、一回だけ、ちゃんと減速してみてください。頭の中で、曲がる先を先に見てから。

二周目、ジンは言われたとおりにした。タイムは三秒縮んだ。ジンは画面をにらんだまま、何も言わなかった。それから、小さく「……おう」とだけ言った。

いつのまにか、教室の入口に一年生が何人か集まっていた。そのうちの一人が、おずおずとハヤテに声をかけた。

一年生

先輩、一周だけ走ってみてもらえませんか。お手本で。

ハヤテ

……では、一周だけ。

ハヤテはシートの位置を合わせ、ミラーの代わりに画面の角度を確かめた。ハンドルを両手で一度握って、目を閉じる。三秒。それから目を開けて、アクセルを踏んだ。

画面の車は、音もなく最初のコーナーに吸いこまれていった。減速して、曲がって、また伸びる。それを繰り返しているだけなのに、見ている全員が黙った。

ジン

……な。師匠だろ。

タカシ

ええ。……目を閉じたのは、何をしていたんですか。

ハヤテ

頭の中で、先に一周しました。曲がる場所を全部、先に見ておくと、手が迷わないので。

次はタカシの番だった。タカシのマシンは、驚くほど遅く、驚くほど一度も壁に当たらなかった。

タカシ

……ハヤテくんの運転を助手席で何度も見てきましたので。曲がる前に、必ず減速する。

ジン

遅えよ。ゲームだぞ。

タカシ

ゲームでも、私には昔のことが浮かびましてね。ハヤテくんが小さいころ、マッハGoGoGoのDVDをお貸ししたことがあるんです。

ハヤテ

いまも全部、覚えてます。1967年にタツノコプロが作ったテレビアニメで、フジテレビで、1967年の4月から翌年の3月まで、全52話。[1]

ハヤテ

主人公の剛が乗るマッハ号には、ハンドルにAからHまでのボタンが付いてて、それぞれの頭文字の特殊機能が出るんです。Aはオートジャッキ。タイヤ交換が楽になるうえに、路面を蹴ってジャンプもできる。[1]

ジン

ジャンプする車。いいじゃねえか。

ハヤテ

ただ、一つだけ、子どものころから気になっていることがあって。……マッハ号、ナンバープレートが付いていないのに、ふだん公道を走ってるんです。[1]

ハヤテ

あれは、だめです。

ハヤテがあまりにも真剣な顔で言ったので、受付の女の子が吹き出した。タカシも、口元を押さえた。

タカシ

……DVDをお返しいただいたとき、ハヤテくん、八歳くらいでしたが、同じことを言っていましたよ。

ハヤテ

好きなのは本当なんです。いまでも、ボタンの順番は全部言えます。でも、好きだからこそ、そこは言っておきたくて。

ジン

俺は頭文字Dだな。豆腐屋の息子が、とっくに作られなくなった古いハチロクで峠を走る。あれは痺れる。[2]

ハヤテ

峠道で車を速く走らせる、走り屋の若者たちの話ですね。しげの秀一さんの漫画で、アニメにもなっています。[2]

ハヤテ

あの作品、作中の技を本当に真似しようとする人が出てきたので、連載の途中とテレビアニメで、道路交通法を守って安全運転を、っていう呼びかけが出るようになったそうです。[2]

ジン

……知ってる。俺も、師匠に言われてから、公道は法定速度だ。

ハヤテ

はい。峠で競うのは、物語の中か、サーキットでやることです。

ジンは腕を組んで、窓のチェッカーフラッグを見上げた。それから、タカシのほうに顔を向けた。

ジン

でもよ。ああいう話は、一人で速くなるから痺れるんだろ。誰にも頼らねえで、自分の腕だけで上に行く。

タカシ

私は、少し違う見方をしてしまいます。速い人のまわりには、たいてい、その人を速くした人たちがいる。……昔の城攻めでも、名前が残るのは大将ですが、勝敗を分けたのは、道を整えた人たちだったりしますので。

タカシ

……また歴史の話にしてしまいましたね。

ジン

出たよ。一人でのし上がるか、人を集めてのし上がるか。社長とはいつもそこで割れんだよ。

二人の目が、そろってハヤテに向いた。ハヤテは少し考えてから、ハンドルの配線を指でなぞった。

ハヤテ

走るのは、一人です。コースの上では、誰も代わってくれません。……でも、走る前の日に、整備を手伝ってくれた人の顔は、コーナーの手前で必ず浮かびます。ブレーキを踏むとき、とか。

ハヤテ

だから、どっちも、だと思います。

ジン

……ずりいな、その答え。

タカシ

ええ。ずるいですね。……ハヤテくん、そういえば、来年のシーズンのことですが。もし必要でしたら、私の会社で、少し……

ハヤテ

ありがとうございます。でも、自分で走りたいので。

タカシ

……そうでした。何度目でしょうね。

ジン

断られてんのかよ、社長。

帰りぎわ、ハヤテは受付の机から、クラスで作った丸いシールを一枚取って、タカシに差し出した。「ベストタイム賞」と「安全運転賞」の二種類のうち、ジンがもらえなかったほうだ。

ハヤテ

安全運転賞です。今日、一度も壁に当たらなかったのは、タカシさんだけでした。

ジン

……おい。ベストタイム賞は。

ハヤテ

ジンさんは、三秒縮んだので、次の大会でお渡しします。サーキットで。

ジンは鼻を鳴らして教室を出ていった。廊下の角を曲がる前に、一度だけ振り返って、ハヤテに向かって軽く手を挙げた。タカシは作業着の胸ポケットにシールを貼り、そのまま次の教室の展示を見に行った。ハヤテは黒板の字を見直して、「シートの位置を合わせてください」の下に、一行だけ書き足した。「ブレーキは、速く走るためにあります」。

この記事の作品

話した人 ハヤテ 空を夢見る、心やさしいレーサー高校生 ハヤテの記事をもっと読む →

次に読む

記事一覧へ

ページの先頭へ