机を後ろに寄せた教室に、ハンドルとペダルの付いたゲームの席が三つ並んでいる。窓には段ボールで作ったチェッカーフラッグ。黒板には「ハンドルを握る前に、シートの位置を合わせてください」と、ていねいな字で書いてあった。書いたのはハヤテだ。
ハヤテはクラスで一つ年上だ。説明係を任されたのは、そのせいではなく、去年の文化祭の準備の日に、ハンドルの配線を一人で全部直したからだった。
最初に入ってきたのは、作業着の男の人だった。胸に小さな花束を抱えている。
ハヤテくん。お邪魔します。……教室の入口に飾ってもらえればと思いまして。店の余りものですが。
タカシさん。来てくださったんですね。……ありがとうございます。チェッカーフラッグの横に置きます。
花を飾り終えたところで、廊下がざわついた。黒い革ジャンに、ギターケース。どう見ても文化祭の客には見えない男が、教室の入口で足を止めた。
……ここか。師匠のクラス。
教室の空気が止まった。受付の机にいた同じクラスの女の子が、ハヤテのほうを振り返った。
ハヤテくん、……師匠って、なに?
……カートの、少し知り合いの方です。気にしないでください。
気にしろよ。周回遅れにされたんだぞ、俺は。
ジンは教室の奥に作業着の男を見つけて、眉を上げた。タカシのほうも、少し驚いた顔で会釈した。
……社長もいんのかよ。
ジンさん。こんにちは。隣の家の子の文化祭ですので。……ジンさんこそ、どうしてこちらに。
偵察だ。師匠が教えてる走り方を、一回ちゃんと見とこうと思っただけだ。別に、応援じゃねえ。
では、お二人とも、一周ずつどうぞ。……その前に、シートの位置を合わせてください。
ジンは座るなりアクセルを踏みこんだ。最初のコーナーで壁に当たり、二つ目のコーナーでも壁に当たった。
ジンさん。ブレーキは、速く走るためにあります。
……知ってる。最初に教わった。分かってても、足が勝手に行くんだよ。
コーナーの手前で、一回だけ、ちゃんと減速してみてください。頭の中で、曲がる先を先に見てから。
二周目、ジンは言われたとおりにした。タイムは三秒縮んだ。ジンは画面をにらんだまま、何も言わなかった。それから、小さく「……おう」とだけ言った。
いつのまにか、教室の入口に一年生が何人か集まっていた。そのうちの一人が、おずおずとハヤテに声をかけた。
先輩、一周だけ走ってみてもらえませんか。お手本で。
……では、一周だけ。
ハヤテはシートの位置を合わせ、ミラーの代わりに画面の角度を確かめた。ハンドルを両手で一度握って、目を閉じる。三秒。それから目を開けて、アクセルを踏んだ。
画面の車は、音もなく最初のコーナーに吸いこまれていった。減速して、曲がって、また伸びる。それを繰り返しているだけなのに、見ている全員が黙った。
……な。師匠だろ。
ええ。……目を閉じたのは、何をしていたんですか。
頭の中で、先に一周しました。曲がる場所を全部、先に見ておくと、手が迷わないので。
次はタカシの番だった。タカシのマシンは、驚くほど遅く、驚くほど一度も壁に当たらなかった。
……ハヤテくんの運転を助手席で何度も見てきましたので。曲がる前に、必ず減速する。
遅えよ。ゲームだぞ。
ゲームでも、私には昔のことが浮かびましてね。ハヤテくんが小さいころ、マッハGoGoGoのDVDをお貸ししたことがあるんです。
いまも全部、覚えてます。1967年にタツノコプロが作ったテレビアニメで、フジテレビで、1967年の4月から翌年の3月まで、全52話。[1]
主人公の剛が乗るマッハ号には、ハンドルにAからHまでのボタンが付いてて、それぞれの頭文字の特殊機能が出るんです。Aはオートジャッキ。タイヤ交換が楽になるうえに、路面を蹴ってジャンプもできる。[1]
ジャンプする車。いいじゃねえか。
ただ、一つだけ、子どものころから気になっていることがあって。……マッハ号、ナンバープレートが付いていないのに、ふだん公道を走ってるんです。[1]
あれは、だめです。
ハヤテがあまりにも真剣な顔で言ったので、受付の女の子が吹き出した。タカシも、口元を押さえた。
……DVDをお返しいただいたとき、ハヤテくん、八歳くらいでしたが、同じことを言っていましたよ。
好きなのは本当なんです。いまでも、ボタンの順番は全部言えます。でも、好きだからこそ、そこは言っておきたくて。
峠道で車を速く走らせる、走り屋の若者たちの話ですね。しげの秀一さんの漫画で、アニメにもなっています。[2]
あの作品、作中の技を本当に真似しようとする人が出てきたので、連載の途中とテレビアニメで、道路交通法を守って安全運転を、っていう呼びかけが出るようになったそうです。[2]
……知ってる。俺も、師匠に言われてから、公道は法定速度だ。
はい。峠で競うのは、物語の中か、サーキットでやることです。
ジンは腕を組んで、窓のチェッカーフラッグを見上げた。それから、タカシのほうに顔を向けた。
でもよ。ああいう話は、一人で速くなるから痺れるんだろ。誰にも頼らねえで、自分の腕だけで上に行く。
私は、少し違う見方をしてしまいます。速い人のまわりには、たいてい、その人を速くした人たちがいる。……昔の城攻めでも、名前が残るのは大将ですが、勝敗を分けたのは、道を整えた人たちだったりしますので。
……また歴史の話にしてしまいましたね。
出たよ。一人でのし上がるか、人を集めてのし上がるか。社長とはいつもそこで割れんだよ。
二人の目が、そろってハヤテに向いた。ハヤテは少し考えてから、ハンドルの配線を指でなぞった。
走るのは、一人です。コースの上では、誰も代わってくれません。……でも、走る前の日に、整備を手伝ってくれた人の顔は、コーナーの手前で必ず浮かびます。ブレーキを踏むとき、とか。
だから、どっちも、だと思います。
……ずりいな、その答え。
ええ。ずるいですね。……ハヤテくん、そういえば、来年のシーズンのことですが。もし必要でしたら、私の会社で、少し……
ありがとうございます。でも、自分で走りたいので。
……そうでした。何度目でしょうね。
断られてんのかよ、社長。
帰りぎわ、ハヤテは受付の机から、クラスで作った丸いシールを一枚取って、タカシに差し出した。「ベストタイム賞」と「安全運転賞」の二種類のうち、ジンがもらえなかったほうだ。
安全運転賞です。今日、一度も壁に当たらなかったのは、タカシさんだけでした。
……おい。ベストタイム賞は。
ジンさんは、三秒縮んだので、次の大会でお渡しします。サーキットで。
ジンは鼻を鳴らして教室を出ていった。廊下の角を曲がる前に、一度だけ振り返って、ハヤテに向かって軽く手を挙げた。タカシは作業着の胸ポケットにシールを貼り、そのまま次の教室の展示を見に行った。ハヤテは黒板の字を見直して、「シートの位置を合わせてください」の下に、一行だけ書き足した。「ブレーキは、速く走るためにあります」。