六時を回ると、休憩室の窓の外はもう暗かった。イロハはソファの端で片膝を抱え、帰りの電車で読むつもりの漫画を一冊、膝に立てていた。表紙の青が、蛍光灯の下で少し沈んで見える。
ドアが開いて、上着をはおったエマが顔をのぞかせた。今日のインターンが終わったところだった。
イロハさん、まだ帰らないの? ……それ、なに?
『BLUE GIANT SUPREME』。BLUE GIANTの第二部で、舞台がヨーロッパに移るの。[1]
BLUE GIANT、映画なら観た! 去年、友達と部屋の壁に映して、床に寝ころんで。サックスの人でしょ。
その人。宮本大。漫画は、映画のあともずっと続いてるの。[1]
待って、そんなに遠くまで行くの? 教えて?
……長くなるよ。それに、先のことまで話すとネタバレになる。
平気。私、先を知ってても楽しめる人。今日はもう、訳す相手もいないし。
私は逆の人。だから、大事なところは畳んで話すね。開けるかどうかは、エマちゃんが決めて。
Deal。
エマはソファには座らず、床にクッションを一つ置いて腰を下ろした。イロハは漫画を膝から下ろし、表紙を指でなでた。
大は、仙台の高校生。最初は、将来なにをしたいのか分からないまま過ごしてるの。ある日ジャズを聴いて、初めて入ったライブハウスで演奏を目の前で見て、サックスを吹く人になるって決める。[1]
決めるの、速い!
速いの。でもサックスは高くて、アルバイトしてもお金がなかなかたまらない。それを知ったお兄さんが、ローンを組んで買って、大にくれる。[1]
お兄さんの雅之さんは、一人で三人の子を育ててきたお父さんのために、高校を出てすぐ働きはじめた人。[1]
いいお兄さん。……ずるいくらい、いいお兄さん。
私が最初に大を好きになったのは、そこなの。大がまだ一音も鳴らしてないところ。ケースの留め金が開く音を、紙の上で勝手に想像して、一ページずっと止まってた。
鳴る前の音が好きなの、イロハさんっぽい。
妹の彩花ちゃんは、頭の中がダンスでいっぱいの五年生。私もダンスの教室に通ってるけど、振りを覚えるのが遅いから、あの子がちょっとうらやましい。[1]
イロハさん、リズムは体で分かるのに、順番が出てこないって言ってたもんね。
大の最初のステージの話、していい? ここから畳む。
中盤まで仙台での最初のステージ押すと開きます
イロハ「大がリードを買いに毎回通う楽器屋の店長が、大のことを気にかけて、雨の日に練習できる場所を教えてくれる。その店長が地元のジャズバーにかけあって、大は小さな店で、出演するバンドのゲストとして吹くことになる。でも常連のお客さんに、でかい音を出してるだけでうるさい、と怒鳴られる。大はぼうぜんとしたまま舞台を降りて、そのまま帰る。
それでも大は、毎日の練習をやめない。あの店のマスターが、音楽教室をしている由井という人を紹介してくれる。由井さんは大の演奏に、あれもこれも落第点をつける。それなのに、次からは家に来い、と言う。通ううちに、大の音は力強さを増して、細やかなところも育っていく」[1]
大きいだけって、きつい。でも、分かる。道場でも、気合いの声は大きければいいわけじゃないの。
私は、そこで大の音の色が変わったと思って読んでる。最初は塗りつぶしたみたいな赤。由井さんのところに通ってから、赤の中に細い線が一本入る。
線! 描く人としては、そこ分かる。強い色ほど、細い線が一本あると締まるの。
由井さんは、子どものころからサックスを吹いてきて、学生のときにアメリカへ渡ってジャズに打ちこんで、そこで自分の限界を知った人。そういう人が、大にはお金を一円も取らずに教える。[1]
自分が届かなかった場所に、誰かを送り出す人なんだ。
大が東京に出るときも、気持ちよく送り出すの。[1]
仙台を出る前の話も、畳んでおく。私がこの漫画でいちばん長く止まったところ。
中盤まで仙台を出る前押すと開きます
イロハ「東京へ出る前に、大は、最初のステージで自分を怒鳴ったあの常連のお客さんを店に呼んで、いまの音を聴いてもらう。その人は眉間にしわを寄せたまま、それでも終わりまで席にいて、帰っていく。
もう一人、中学の同級生の周平くん。お医者さんの家の子で、ピアノが趣味だった。中学を出る記念にって、大をジャズのライブに連れていったのが周平くん。大とジャズを出会わせた人。別の高校でジャズピアノを始めるつもりだったのに、大のサックスを聴いて、自分は医者になると決める」[1]
しかめ面のまま最後まで! そこ、すごく好き。
私も。拍手より、席を立たなかったことのほうが大きな音に聞こえる。あのしかめ面は、焦げたパンの茶色。苦いけど、あったかい。
周平くんのほうは、ちょっと泣きそう。大は、人の進む道を変えようなんて、思ってもいないのに。
音は、鳴らした人が思ってもいない所まで届いちゃう。
彩花ちゃんは、大が東京に行くって知って大泣きするの。それから、東京の大から届いたフルートを抱えて、由井さんの教室に通いはじめる。[1]
フルートを送ったの? 音を、送ったんだ。
あとね、宮本って名字は、宮本武蔵のイメージから来てるんだって。作者の二人は黙ってたのに、糸井重里さんに直接言い当てられて、それで初めて明かしたらしい。[1]
武蔵! 日本の道場の本棚に、二刀流の人の本があった。……大、刀は一本も持ってないけど。
ふふ。持ってるのはテナーサックス一本。この漫画を描くとき、ブルーノートっていう名門のジャズのレーベルの、昔のレコードのジャケットのデザインを、すごく手本にしたんだって。[1]
1950年代から1960年代のアルバムジャケット
だから表紙が、レコードの棚に並んでても分からなさそうなんだ。
そのブルーノートの社長が、作者との対談で言ってたの。日本語は全然分からない、でもこの本からジャズクラブの匂いがする、って。[1]
その感じ、分かる。私、知らない喫茶店の前でスケッチしてると、中の音楽が外まで漏れてくるの。描き終わるころには、入ったこともないのに、その店のことが好きになってる。
描いてるうちに、匂いまで写っちゃうんだ。
うん。だから、絵から匂いがするって言われたら、描く側にはいちばんの褒め言葉。
第二部の一冊目は、高校二年が終わる春休みに出たの。最後の一冊は、大学の授業がほとんど画面越しだった秋。それまで四年近く、大と一緒にヨーロッパにいた。[1]
『BLUE GIANT SUPREME』単行本は2017年3月〜2020年10月、全11巻
四年! 長い旅。
中盤までヨーロッパでの最初の街押すと開きます
イロハ「大は一人で、ドイツのミュンヘンに乗りこむ。でも飛びこみで頼んだジャズバーには、アジアの人のジャズなんて聞いたことがない、と全部断られる。最初のホテルで相部屋になったのは、ウクライナから来た青年のセルゲイ。最初は大を妙なやつだと思ってた。でも、消灯のあとまでぶつぶつドイツ語を練習する大に、セルゲイは一度も文句を言わずに、そっとしておいてくれる。
行き場がなくてコーヒーショップに座りこんでいた大に、隣で本を読んでいた大学生のクリスが声をかける。わけを聞いたクリスは、自分の家の空き部屋に大を泊めて、吹かせてくれる店まで探して話をつけてくる。大という名前は、DIEと同じ響きで縁起が悪いからって、Dという呼び名をつける。初めてのライブのお客さんは十人で、みんなクリスの友だち。ジャズをほとんど聴かない人たちが、大の音に、なぜだか圧倒される」[1]
……断られた理由、音じゃないんだ。
うん。まだ一音も聴いてもらってないのに。
セルゲイのところは、好き。私も最初の街で、夜中に新しい単語を声に出して覚えてた。同じ部屋の子は、うるさいって一度も言わなかった。今でも、あの子の寝息のリズムを覚えてる。
私、そういうの知ってる。でも、クリスみたいな人も、どの街にも一人はいた。
私は、Dって呼ばれるところで少しさびしかった。だい、っていう音が消えちゃうみたいで。
そこは、私は逆。あだ名って、つける人がその相手をちゃんと見た印だと思う。この前、学食で知らない子に「スケッチの人」って呼ばれて、一日うれしかった。
……そうなんだ。
変な呼び方をくれる人とは、だいたい長く仲よくなる。
じゃあ、Dは、クリスが最初にくれた贈りもの。
ここから、仲間がそろうまで。これも畳む。
中盤まで仲間のこと押すと開きます
イロハ「大はミュンヘンのライブハウスで、ハンナという小柄なウッドベースの人の、強くて激しい音に心をつかまれて、バンドに誘う。でも、どこの誰とも分からない相手の誘いだから、断られる。大はハンブルクへ移る。
ハンナは別のツアーバンドの手伝いに入るけれど、自分とほかのメンバーとの熱の差に、ずっと苦しむ。ツアーが終わって、大がハンブルクまで自分を探しに来ていると、知り合いから聞かされる。駅で出会った老舗の楽器屋の店長、ボリスに案内されて、夜のライブハウスで初めて大の音を聴いて、一緒にやると決める。ボリスはお客さんのいない時間だけ、店の試奏室を二人の練習場所に貸してくれる。
ベルリンには、ポーランド出身のピアノのブルーノ。一緒に演奏する相手の音が気にくわないと、ステージの最中でも相手に水をぶちまけるか、さっさと出ていってしまう人。それでも大たちの演奏を聴いて、仲間になる。フランス出身のドラムのラファエルは、どのバンドにも入らない主義で、うまさを見せびらかさずに、周りが楽しく演奏できるように叩く人。一度は誘いを断るけれど、自分にとって楽しい演奏って何だろうと考えて、加わる。ブルーノとは性格が合わなくて、しょっちゅうぶつかる」[1]
水をかけるのは、なし! でも、ラファエルとはフランス語で話せる。
エマちゃん、ラファエルの隣に座りそう。
ブルーノの隣には、タオル持って座る。
それとね、マネージャーで運転手のガブっていう人がいるの。ボリスさんの甥っ子で、スポックって名前の犬を連れてる。この人が、五人目のナンバーファイブ。[1]
楽器を一つも鳴らさない人まで、数に入ってる。私、そこがすごく好き。
最高じゃん。運転する人も、バンドの一人。
大は、まっすぐな音の人。ずっとそう思って読んできた。
私は、ちょっと違う読み。大って、まっすぐなだけじゃなくて、着いた街の言葉を、寝る前まで声に出して覚える人でしょ。まっすぐ行くために、ちゃんと曲がれる人。
……合ってる。私、音ばっかり見てて、そこを読み落としてた。
第二部の終わりと、その次の始まり。最後のひとつ。
結末・正体第二部の終わりと、その先押すと開きます
イロハ「ヨーロッパの最後に、大はナンバーファイブでの活動に区切りをつけて、車の免許を取るために日本へ帰ってくる。そこで玉田と再会する。次はアメリカへ一人で行くと話すと、雪祈がもう病院を出て、曲作りを学びにアメリカの音大へ進んだと聞かされる。ジャズの本場と言われる東側ではなく、反対の西側にあるシアトルの町に、大は降りる。
ミュンヘンで大を拾ったクリスは、それから十数年たって、ベルリンの研究所で研究員として働いている」[1]
開けた。……日本に帰る理由、ちょっと笑った。
この漫画、単行本の一冊ごとのいちばん最後に、何年も、ときには十何年もあとの人たちが、聞き手の質問に答えるかっこうで、大の思い出を話すページがついてるの。だから読んでるあいだ、いまの大の音と、ずっと先から聞こえる大の音が、二重に鳴ってる。[1]
未来から証言が届くの? ずるい作り方。続きを読むしかなくなる。
ずるいの。先を知りたくない私でも、そのページだけは待っちゃう。
給湯ポットが、保温に切り替わる小さな音を立てた。エマは窓の外を見てから、イロハの膝の上の漫画に手をのばした。
決めた。次の上映会、壁に映すのはお休みして、この漫画をみんなで床で回し読みする日にする。第一部の一冊目から、借りていい?
うん。私のは、背が少し割れてるけど。
Nice。読んだら、どのページで音が鳴ったか報告する。
鳴らなかったページのことも、聞かせて。……そこにも、何か残ってるから。