最終回の上映が終わり、ロビーに明かりが戻った。前から三列目の端の席を立ったイロハは、長椅子に見覚えのある茶色のコートを見つけた。膝の上に文庫本が一冊。ページのあいだから、折りたたんだ地図の角がのぞいている。
ガクも、同じ回だったんだ。
水曜は早く上がれる日だから、ときどきね。上映の前に、これを一章だけ読んでた。
しおりが、地図。何の本?
『十二国記』の『風の万里 黎明の空』、下巻。中一の秋に出たばかりのを本屋で買って、それから何度読み返したか。実はこの下巻から、表紙に『十二国記』という名前が載るようになった。それまでは読む側が『十二国』と呼んでいて、正式な名前は編集部の頼みで後から付いた。[1]
『風の万里 黎明の空』下巻は1994年9月刊。シリーズ名はこの巻から
名前が、後から。
みんなが呼んでいた呼び名に、あとから判子が押される。僕はそういう順番の話に弱くてね。続きは向かいでどうかな。十一時まで開いてる店がある。
向かいの喫茶店には、客が二組しかいなかった。ガクはブレンド、イロハはホットミルク。イロハはカップを両手で包んだまま、テーブルに置かれた文庫の表紙をのぞきこんだ。
僕は本で読む側だから、アニメの話は聞かせてもらう番だ。誰が好きだった?
……陽子。
僕もだ。
ガクは地図のしおりを指でなで、それから後ろ頭を一度かいた。
好き、と口に出すのは、この歳になると少し照れる。でも、十代のころから同じ人を追いかけ続けてるのは確かだから。
僕は、あの国の音を本の中でしか聞いたことがない。
陽子って、最初はずっと下を向いてる子だった。人の顔色ばっかり見て。[2]
そう。周りに合わせて、怒られないように暮らしてた子が、知らない世界に放り出される。一作目はそこから。アニメは、どこまで観た?
アニメの陽子はそこで止まってる。脚色した人の脚本集によると、続きの構想では『黄昏の岸 暁の天』まで作って、まだ完結していないその話に、アニメなりの決着をつけて終えるつもりだったらしい。[1]
全45話。当初は全39話とされ、第2シリーズの放送が発表されたが第45話で終了
観たかった。……聞いたら、もっと観たくなった。
小説には、その先の陽子がいる。先の巻の話までしていいかな。ネタバレになる。
私、ふだんは先を知りたくない人なの。
知ってる。だから大事なところは畳んで話すよ。開けたくなければ、閉じたままでいい。
うん。畳んでくれるなら、聞く。
ガクは紙ナプキンを一枚取り、縦に線を一本引いて、左に「作中」、右に「僕」と書いた。
先に、一作目の終わりと二作目の始まりを畳んでおく。ここを知らないと、あとの話が全部ずれるから。
結末・正体一作目の結末と二作目の始まり押すと開きます
ガク「最初に跪いた男、ケイキは、慶という国の麒麟の景麒だった。その景麒が主と呼んだ陽子は、慶の王になるべき人だった。陽子は長く迷ったすえに、隣の雁の王の力を借りて偽の王を討ち、自分が王になる道を選ぶ。帰ると言い続けてきた子が、帰らないほうを選んだ。ここまでが一作目」
ガク「『風の万里 黎明の空』は、陽子が王になって一年たったところから始まる。宮廷を実際に回しているのは昔からいる官吏たちで、とくに冢宰の靖共に頭が上がらない。陽子は、玉座にいながら官吏の顔色をうかがっている。一作目の、人の顔色ばかり見ていた子に、立場だけ変わって戻ってしまったみたいに。
僕が胸をつかまれたのは、陽子が何に苦しんでいたかだった。みんなが自分に向かって平伏する。自分が通りかかるたびに、そこにいる人の仕事の手が止まる。それが理屈に合わない。しかも、ひれ伏した人の顔は見えない。顔の見えない相手を、どう信じればいいのか分からなくて、怖い。
陽子は謀反の疑いの件で、言われるままに処分を下す。けれどそのあと、監督を怠ったとして靖共の位も下げ、二つの派閥の両方から力をそぐ。そして、本来は政治の実権を持たせないはずの景麒に、次の冢宰が決まるまで実権を預ける。景麒のほうがこの国をよく分かっているから、と言って。
それから陽子は、何も知らない自分に腹を立てて、自分の足で町へ降りていく。景麒に勧められて固継という村の里家に身を寄せ、遠甫という老人に教わりながら、蘭玉と桂桂という姉と弟のそばで、日本とは当たり前からして違う暮らしを覚えていく。和州では、重い税を取り立てられて疲れ果てているのに、声も上げられない人たちを、自分の目で見る」[1]
僕が陽子を本気で好きになったのは、二作目のほう。畳んだ先の、立場が変わったあとの陽子なんだ。
アニメでも、そこからの陽子は、声が低くなった気がした。
本の中でも、陽子の言葉はどんどん短くなっていく。
町に出るときの陽子は、名前を少し変えて名乗る。着慣れた地味な服のほうが好きで、男の子に間違えられることも多い。僕はこの陽子が、いちばん目に浮かぶ。[2]
畳んだところ、開けて読んだ。手が止まるのが嫌だった、っていうところ。
職場でね、僕が机の島のあいだを歩くと、若い人がキーボードから手を離して顔を上げる。会釈してくれてるだけなのに、自分が通るたびに仕事が止まるのが落ち着かなくて、給湯室の側を遠回りしてた時期がある。
止まる音、聞こえる。キーボードの音が、近いほうから一列ずつ消えていくの。ガクが歩いたところだけ、音のない道ができる。
音のない道、か。陽子があの廊下でどんな音を聞いてたのか、考えたことがなかった。
私なら、衣ずれが一斉に鳴って、そのあと全部が静まる音を想像する。冷たい白の音。
王になってからの陽子の話で、短いのが一本ある。陽子と楽俊の手紙の話。アニメにもなってたはずだ。[1]
覚えてる。鳥が出てくる回。
中盤まで短編「書簡」押すと開きます
ガク「慶にいる陽子と、雁で学生をしている楽俊。一作目で一緒に旅をした二人が、離れてからは鸞という鳥で近況を送り合っている。陽子は、官吏とも問題なくやっていると伝える。本当は、問題が起きるほど意見を言うこともできていない。楽俊は、学生も先生もみんなよくしてくれると伝える。本当は、半獣で、よその国から来た荒民で、苦労の絶えない毎日を送っている。二人とも、相手の背伸びに気づいてる。気づいたうえで、背伸びのまま励まし合う」[1]
私も、母との電話で「なんか、いい感じ」って言っちゃう。具体を言うと、心配されるから。
背伸びの手紙だね。楽俊は分かってて、分かってることを書かない。僕は楽俊の返事の書き方が好きで、あの二人の距離の取り方は……いや、今日は陽子の話だった。
ふふ。いいよ、寄り道しても。
戻るよ。二作目は、陽子のほかに、同じくらいの年の女の子二人の旅が並んで進む。
中盤までほかの二人の少女押すと開きます
ガク「一人は鈴。陽子より百年ほど前に日本から流れてきた海客で、仕えた先の仙に長いあいだいじめ抜かれてきた。命がけで才の王に訴えて、ようやく自由になる。もう一人は祥瓊。芳という国の、先代の王の娘。王が討たれて公主の身分をなくし、名前を伏せたまま里家で暮らしている。
鈴は、女で海客なのに王になった景王という人に会ってみたくて、祥瓊は、同じ年ごろで王になった景王を妬んで、どちらも慶を目指す。旅の途中で知り合った少年の清秀は、鈴に向かって、自分をかわいそうがってばかりで周りを見ていないと言う。祥瓊は途中で楽俊と出会って、公主として自分は何の務めも果たしてこなかったと思い至る。三人は別々の道から、同じ和州へ流れ着く」[1]
アニメで観たとき、三人の足音が別々に聞こえた。鈴は小走り、祥瓊はかかとから、陽子は大股。私の耳には、そう残ってる。
足音で分けるのか。僕は三人を、それぞれ別の制度の外に落ちた人として分けてた。同じ三人を、違う大きさで見てる。
結末・正体二作目の結末押すと開きます
ガク「陽子が留守のあいだに里家が襲われる。蘭玉は殺され、桂桂は大けがを負い、遠甫はさらわれる。陽子はその行方を追ううちに、止水郷を治める昇紘という郷長を倒そうと動いている、虎嘯という侠客たちと出会う。鈴は、ここまで支えてきた清秀を昇紘の馬車にひかれて失い、昇紘をかばう者のいちばん上にいる景王を殺そうとまで思いつめるけれど、虎嘯たちになだめられて仲間に加わる。祥瓊は州都の明郭で、むごい刑罰に石を投げて追われ、桓魋という侠客に助けられて、同じ乱に身を投じる。
郷城は落とせた。でも州の軍が来て、そのあとには王の直属の禁軍まで出てくる。悪い役人をかばっていたのは、宮廷の靖共だった。禁軍を見て皆がひるんだとき、鈴と祥瓊は、自分たちが何者かを打ち明けて、王を信じてほしいと人々に訴える。そこへ陽子が、景麒の背にまたがって禁軍の前に姿を現し、この反乱は王の意思だと示す。
宮殿に戻った陽子は、遠甫を太師に、桓魋を禁軍の将軍に、桓魋の主だった浩瀚を冢宰に据える。どちらの派閥かではなく、一人ずつを見て決めると言い切る。そして最初に出す勅令で、ふだんの平伏をやめさせる。民の一人ひとりが、自分自身を治める王であってほしい、と」[1]
そこは開けた。アニメの陽子の話も、そこで終わってた。
そこから先、僕とイロハさんで読みが分かれた。それも畳んでおこう。
結末・正体畳んだ最後のところの読み押すと開きます
ガク「僕はずっと、陽子のあの最初の勅令を、決まりの書き換えとして読んできた。大きな法律じゃなくて、毎日の動作を一つ変える。町内会で言えば、役員をしてたころの総会がそうでね。役員だけ前の長机に並んで、住民はパイプ椅子で見上げてた。机を輪にしたら、手を挙げる人が倍に増えた。規約は一行も変えてないのに」
イロハ「私は、違う読み。陽子は、決まりを書き換えたかったんじゃなくて、人の顔が見たかったんだと思う。目を見て、話したかった」
ガク「制度の話にしか見えなかったところに、急に一人分の体温が入ってきた」
イロハ「ガクの読みも、半分合ってる。机を輪にしたのも、顔を見るためでしょう」
そう言われると、自分が何の話をしてたのか分からなくなる。
そこも、畳むの?
畳む。開ける?
……開ける。
結末・正体『黄昏の岸 暁の天』の陽子押すと開きます
ガク「和州の乱から一年。戴という国から、李斎という女の将軍が、死にかけた体で慶の宮殿の門に現れる。王と麒麟の行方が分からなくなった戴を救ってほしい、と。陽子は心を動かされて、雁の王と麒麟に助けを求める。けれど雁の王は、その国の王に頼まれてもいないのに軍を他国に入れれば王が死ぬ罪になると告げて、決して犯すなと釘を刺す。
そこで陽子が出した案が、各国の麒麟に呼びかけて、行方の知れない泰麒を探してもらうことだった。前例がないから、天の決まりを相談しに蓬山まで行く。陽子はそこで、天という仕組みが本当にあって、その罰がひどく杓子定規だと知って驚く。見つかった泰麒を連れ戻すために最後に使うのは、条文の隙間だ。泰麒を雁の戸籍に入れて、三公をいったん罷免し、その席に泰麒を就けて仙にする。
そのあとで陽子は、泰麒の見舞いの最中に、自分の宮殿の内宰と門番に殺されかける。よそ者に肩入れしすぎると恨まれていた。泰麒は、自分たちが慶の重荷になっていると悟り、戴を救えるのは戴の民だけだと、李斎と夜明け前に国へ帰ることを決める。二人が持っていく旌券には、陽子の裏書きがあった。見送るのはつらい。それでも陽子は、そのつらさを引き受けるのは自分が先だ、と考える」[1]
畳んだ中で、僕が声を出して笑ったところがある。陽子が、日本で身につけたものさしのまま、とんでもなく大きな数を見積もろうとする場面。
……急に、放課後の匂いがした。
僕はああいう見積もりをしょっちゅうしてる側だから、笑いながら少し泣きそうになった。数え方を知らないまま、それでも数えようとする。その手つきが好きでね。
私は、畳んだ最後のところ。消さない線みたいだった。
読み返すたびに止まるのは、いつもそこだ。
陽子、最初は人の顔色ばっかり見てたのに。
うん。顔色を見ていた子が、ここまで来る。その道のりを、僕は……ごめん、またやった。三行で済む話を、閉店まで。
店の人が、看板の明かりを一つ落とした。時計は十時五十分を回っていた。
閉店まで聞けて、よかった。その下巻、借りてもいい?
どうぞ。しおりはそのままにしておく。中一の僕が、最初に顔を上げたページに挟んである。
地図、どこの?
荒川の土手のあたり。古い地図だから、もう無くなった道が一本載ってる。
じゃあ、その道のところから読む。
続きは、来週の水曜に。