居間のテレビの前で、ソウタとおねえちゃんが、それぞれリモコンの端を握ったまま動かない。台所からお母さんの声が飛んでくるが、二人とも手を離さない。
二人とも、手を離しなさい。ルカーノが来たら、決めてもらうから。
ぼく、アナ雪がいい。今日はブランコのとこが観たいの。
アナ雪、先週も観たじゃん。今日は私の番。
玄関のチャイムが鳴った。大きな体に、色の多いシャツ。脇にスケッチブックを抱えたルカーノが、靴をそろえてから居間に入ってくる。
Ciao! ……おや、リモコンの綱引き。今日の試合は何対何?
ルカーノおじさん! ねえ、アナ雪のブランコのとこ、見たことある?
あるよ。ソウタくんは、どうしてブランコのところが観たいの?
スカートがね、ふわってなるの。ブランコが前に行くと、うしろが広がって、うしろに来ると、前が広がるの。なんでそうなるのか、ぼく見たいの。
ルカーノの目が、一瞬で仕事の目になった。スケッチブックを開いて、ソウタの前の床に座る。
それはね、とってもいい質問だ。実はあの場面には、もとになった絵があるんだよ。
え、なんで? 絵の、まねっこなの?
まねっこ、というより、お手本かな。昔の画家が描いた、ぶらんこの絵があってね。映画のブランコの場面は、その絵をもとに描かれたんだって。
『アナと雪の女王』は、ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオなどが製作したアメリカの映画で、日本では2014年3月14日に公開された。アナが歌う「生まれてはじめて」の場面で、ブランコを漕ぐところは、ジャン・オノレ・フラゴナールの絵『ぶらんこ』をもとに描かれている。[1]
ふらごなーる。……ねえ、その絵のドレスも、うしろが広がるの?
どうだったかな。今度、本で一緒に見てみよう。今日は、ソウタくんのドレスを描いてみようか。ソウタくん、ドレスの色は何色がいい?
うーんとね、上が水色で、下にいくと白くなるの。雪みたいに。それで、すそのところだけ、ちょっとだけ重いの。
すそだけ重い。……ソウタくん、それは仕立て屋も使う考え方だよ。すそが少し重いと、ふわっと広がったあと、ちゃんと戻ってくるんだ。
ルカーノの鉛筆が、ブランコと、水色から白に変わるドレスを描いていく。すそには、小さな丸い重りがいくつも並んだ。ソウタはそれを見ながら、自分の手をぶらぶらと前後に揺らしている。
……それで、テレビは?
ごめんごめん。お姉さんの観たいのは何?
ポケモン。昔のやつ。お母さんが子どものころに観てたのを、配信で最初から観てるの。
ぼくもポケモンすき! でもね、ぼくはバトルより図鑑がすき。つかまえたら、その子のことが一個ずつ分かるの。戦わなくても、ポケモンのことは分かるんだよ。
戦わないで、知っていく。それはすてきな遊び方だね。
昔のポケモンなら、私も歌えるわよ。オープニングの歌。
「めざせポケモンマスター」は松本梨香のシングルで、1997年6月28日に発売された。テレビ東京系列のテレビアニメ『ポケットモンスター』初代のオープニングテーマ。作詞は戸田昭吾、作曲はたなかひろかず。[2]
えっ、お母さんも観てたの? お母さんも子どもだったの?
誰だって子どもだったのよ。ルカーノおじさんもね。
ルカーノおじさんも? なんで? おじさん、ずっとおじさんだと思ってた。
Mamma mia……。ソウタくん、おじさんにも八歳の日があったんだよ。お母さんのスカートの丈を、勝手に測って怒られた日もある。
あったわね。メジャーを持って追いかけてきたの。
ソウタとおねえちゃんが、そろって笑った。リモコンは、いつのまにかテーブルの上に置かれている。
それだったら、こうしようよ。先にポケモンを一話観て、そのあとアナ雪のブランコのとこだけ観るの。ブランコのとこだけなら、すぐ終わるから。
……ブランコのとこだけね。最後まで観ないでよ。
Bellissimo! いい作戦だ。ソウタくん、交渉が上手だね。
こうしょうって、なに?
二人とも、ちょっとずつうれしくなる決め方のこと。
お母さんが、切ったりんごの皿をテーブルに置いた。ソウタは一切れ取って、ルカーノの顔をじっと見上げる。
ねえ、ルカーノおじさんは、なんで服が好きなの?
うーん。服はね、着る人がいないと、ただの布なんだ。誰かが着て、歩いて、ブランコに乗ったときに、やっと服になる。そのやっとの瞬間を、裏側から作るのが好きなんだと思う。
うらがわ?
服の裏を見てごらん。縫い目がいっぱいあるでしょう。表からは見えないけど、あれがあるから、すそはちゃんと戻ってくるんだよ。
ソウタは自分のトレーナーのすそを裏返して、縫い目を指でなぞった。おねえちゃんも、つられて自分の袖口をのぞいている。
ほんとだ。ぼくの服にも、うらがわがある。
ポケモンの一話のあいだ、お母さんは小さく歌い、おねえちゃんは「ちょっと、聞こえない」と言いながら、自分も口を動かしていた。ソウタは知っているポケモンが出るたびに、画面に顔を近づけた。
ソウタ、近い。目が悪くなるよ。
だって、ポケモンが出てくるとこ、見のがしたくないんだもん。
じゃあ、ポケモンが出てきそうになったら、おじさんが教えてあげよう。ソウタくんは、そこに座って待っていて。
ルカーノが「ほら、座って待っていて」と言うと、ソウタは座ったまま身を乗り出した。知っているポケモンが出てきたときは、「それ知ってる」と小さく言った。知っているときのほうが、うれしそうだった。
それから、約束のブランコの場面。ソウタはルカーノのスケッチブックを膝に置いて、画面と絵を何度も見比べた。
ねえ、ここ。いま、すそがうしろに広がった。それでね、戻ってくるとき、ちょっとだけおくれて戻るの。
……本当だ。布は、体より少し遅れて動くことがあるんだ。おじさんも、いまソウタくんに言われて気づいたよ。
おくれてくるの、なんかすき。待っててくれる感じがする。
ルカーノは何も言わずに、スケッチブックの端に「おくれてくるすそ」と書き足した。それから、そのページを丁寧に切り取って、ソウタに渡した。
これはソウタくんのデザインだから、ソウタくんが持っていて。いつか本当に縫ってみよう。
ほんと? じゃあね、おねえちゃんのも描いて。ピカチュウの色のやつ。
……いらないけど。描くなら、黄色は少なめで。
夕方、ルカーノが帰ったあとの冷蔵庫には、ブランコのドレスの絵と、黄色の少ないワンピースの絵が、マグネットで並んで貼られていた。