十時十分。待合室のソファには、色のちがう丸いクッションが七つ並んでいる。ソウタは、そのうち三つを自分のまわりに集めていた。隣には、オレンジの格子柄のジャケットに深緑のスカートを合わせた、大きな男の人。ソウタのお母さんの弟、ルカーノだ。
受付で、ルカーノは問診票を出す前に、受付の女の人の髪留めを褒めた。
ありがとうございます。保険証と問診票をお願いします。
はい、ただいま。
ルカーノは上機嫌のまま引き下がって、ソファに戻ってきた。
ルカーノおじさん、いまの、ながされてたよ。
うん。流されるのも、礼儀のうちさ。
ふうん。……ねえ、ちゅうしゃ、何番目?
ソウタの前に、三人。
あとちょっと?
あとちょっとだね。
あとちょっと、いらない。
いつもは「あとちょっと」を延ばす側のソウタが、今日は縮まないでほしいほうに回っていた。
そのクッション、どうして三つだけ集めたんだい?
なかまわけ。赤と、オレンジと、黄色。ちかい色だから、となりがいいの。
ほう。じゃあ、残りの四つは?
青と、水色と、みどりと、むらさき。あっちはあっちで、なかよし。
Bellissimo. 色の並べ方が、もうデザイナーだ。
おじさんの服は、ぜんぶの色がなかよし。
……それは、今日いちばんうれしい言葉かもしれない。
自動ドアが開いて、黒いパーカーの女の人が入ってきた。受付をすませて待合室を見回し、ソウタと目が合う。
あ、レイさん!
ソウタ。……ルカーノさんも。
やあ、レイ。
ルカーノは、いつものように何か褒めようと口を開きかけて、閉じた。
この前の衣装、袖口の始末はどうなった?
三つ折りにしました。表に縫い目を出したくなかったので。
いい判断だ。
レイさんも、ちゅうしゃ?
そう。予防接種。毎年この時期に打ってる。
こわくない?
こわくはない。好きでもない。
それ、どっち?
どっちでもない、のまま行く。
ねえ、レイさん。きのう、おねえちゃんとプリキュア観た。へんしんする前にね、「やる」ってきめるの。きめてから、へんしんするの。
うん。
へんしんしてから強くなるんじゃないんだよ。きめるほうが先。
……Bellissimo. そこに気づくのは、なかなかだよ。
それは、私も分かる。
レイさんも、プリキュア観てたの?
観てた。いちばん最初のプリキュアは、二〇〇四年の二月に始まったの。私は四歳だった。[1]
二〇〇四年……レイさん、おばあちゃん?
ルカーノがむせた。
それは違う。
ちがうの?
私が四歳のときに始まったものを、いま、八歳のソウタが観てる。それだけ長く続いてる、ってこと。
ずっと?
ずっと。だから私は、おばあちゃんじゃなくて、先輩。
せんぱい!
ソウタは、なぜか背筋をのばした。
おじさん、ドレスかいて。きのうのやつ。
ルカーノは鞄から小さなスケッチブックを出して、ソウタの目の高さまで膝を折った。
どうぞ。今日のデザイナーは、ソウタだ。
そで、ふくらんでるの。肩のとこでいっかい、きゅってなって、そこからふわってなる。
こう?
ちがう、もっとふわってなる。
こうかな。
そう! で、色はね、うえが白で、下にいくほど水色。
その袖、作るとしたら難しいよ。きゅってなるところに、ギャザーを寄せないといけない。
ぎゃざー?
布を細かく寄せて、ふくらみを作るやり方。
レイの言うとおり。しかも、左右で同じふくらみにするのが、いちばん難しい。
じゃあ、むずかしいドレスなんだ。
むずかしいドレス。だから、かっこいい。
ソウタは、ほめられたというより、仲間に入れてもらった顔をした。
名前を呼ばれて、レイが立ち上がった。診察室の戸が閉まる。ソウタはクッションを一つ、ぎゅっと抱えた。
レイさん、だいじょうぶかな。
だいじょうぶさ。
三分ほどで、レイは戻ってきた。左腕の、肩に近いところを、右手で軽く押さえている。
どうだった?
痛かった。でも、短かった。
どれくらい短い?
ソウタが「あとちょっと」って三回言うより、短い。
それ、すごく短いよ。
うん。短かった。
レイのポケットで、スマートフォンが二回震えた。画面を見たレイは、表情を一つも変えずに、三行だけ返信を打って、またポケットにしまった。
仕事かい?
サーバーが一台、少し機嫌が悪いみたいです。手順どおりで直るので、大丈夫。
サーバーって、マイクラの?
マイクラのも、サーバーで動いてることがある。私が見てるのは、もっと大きいのだけど。
ぼくね、マイクラでエンダードラゴンにあいにいくとき、じゅんびがいちばん楽しいの。
エンドの、真ん中の島にいるボスだね。[3]
そう! エンダーアイを投げて、とんでくほうに歩いていくの。そしたら、ようさいがあるの。[3]
準備が楽しい、か。僕も、本番より、仮縫いのほうが好きなときがあるよ。
ちゅうしゃも、じゅんび?
ここから私の解釈だけど。……冬の前の、準備の一つ。そう思ってもいいと思う。
じゃあ、ルールひとつたす。なかないでできたら勝ち……じゃなくて。
じゃなくて?
ないても、つぎのじゅんびに行けたら勝ち。
La vita è bella. いいルールだ。
そのルールなら、私も勝ってる。
レイさん、ないたの?
ないてない。
エルサもね、まほうがこわかったんだと思う。
アナと雪の女王の?
うん。さわったものをこおらせたり、ゆきや氷をつくったりする魔法を、うまれたときから持ってるの。[2]
ぼくは、エルサがうたうところがすき。おねえちゃんと歌うとき、ぼくはひくいほうなの。
ソウタの低いほう、聴いてみたいな。
ここではうたわない。びょういんだから。
正しい。
ソウタくん、どうぞ。
ソウタは抱えていたクッションをソファに戻した。三つとも、もとの場所に。それから、ルカーノの手をにぎって立ち上がった。
いってくる。……「やる」ってきめた。
いってらっしゃい。
五分後。診察室から出てきたソウタは、腕に小さな絆創膏、胸にドラゴンのシールを貼っていた。目のふちが、少しだけ赤い。
ちょっとないた。
うん。
でも、つぎのじゅんびに行けたから、勝ち。
勝ちだ。完璧な勝ち。
おじさんは、ないてた?
僕は、ソウタの手をにぎってただけさ。
でも、診察室から出てきたとき、スケッチブックで顔を半分かくしてた。
レイ。
待合室の反対側で、小さな女の子が、お母さんのひざに顔をうずめて泣いていた。順番を待っているらしい。ソウタはしばらくそっちを見ていたが、やがて、そろそろと近づいていった。手の届かないところで止まって、先にお母さんのほうを見る。
あの、はなしかけてもいい?
いいよ。ありがとうね。
これ、ドラゴン。ちゅうしゃのあとにもらえるの。
女の子は、顔を半分だけ上げて、ソウタの胸のシールを見た。
ぼく、ちょっとないた。でも、勝ったよ。ないても、つぎのじゅんびに行けたら、勝ちなの。
女の子は、泣くのを少しだけ休んで、シールのドラゴンの尻尾を指でなぞった。ソウタはそれ以上何も言わずに、ルカーノのところへ戻ってきた。
いまの、ルールの説明、短くてよかった。
ながいと、こわくなるから。
……ソウタ。いまのは、今日二番目に美しい場面だった。
一番は?
それは、これから見せるよ。
ルカーノは、ソウタが女の子のところへ行っているあいだに描いていたページを開いた。さっきのドレスの横に、腕をまっすぐ上げて立つ男の子の絵が増えていた。へんしんする前の、きめるポーズだった。
これ、ぼく?
今日いちばん美しかった場面だよ。
……そで、もっとふわってなる。
それは、ドレスのほうの話だね?
ぼくのほうも。
ルカーノはうれしそうに、男の子の絵の袖を描き直した。レイは会計の順番を待ちながら、その袖のギャザーの数を、黙って数えていた。