日常

出張先のホテルのバーで陪審員の話を

ネタバレの範囲 ネタバレなし どの作品も、紹介文と導入の設定で分かる範囲まで。評決や真相、物語の結末には触れません

駅前のホテルの、カウンターだけの小さなバー。白い外套の人は炭酸水を頼み、革の手帳を開いた。隣に座った旅の途中のノアが、テレビの法廷ドラマの話をふると、その人は返事より先に、ノアの言葉を書き取りはじめた。正しい手続きと、正しい結論の話。

こんな人に
出張先のホテルで、ひとりの夜をどう過ごすか考えている人へ。正しさについて、知らない誰かと少しだけ話してみたい人にも。
話している人
トキワ × ノア
バー 駅前のビジネスホテルの一階、カウンター六席のバー 水曜の夜、九時半から十一時まで

カウンターの端の席に、季節に合わない白い外套の人が座っている。白い手袋を外して重ね、革の手帳と万年筆を、グラスの横にまっすぐ並べた。

トキワ

炭酸水をお願いします。氷は二つです。

一つ空けた隣の席に、大きなリュックを足元に下ろしたノアが座る。古い文庫本を三冊、カウンターに積んだ。

ノア

この町のウイスキーを、一杯だけ。いちばん軽いのを。……あ、すみません、本、邪魔ですね。

トキワ

邪魔ではありません。三冊とも、背が日に焼けています。長く持ち歩かれた本です。

ノア

よく見てますね。旅の途中で、古本屋に寄るたびに増えるんです。出張ですか?

トキワ

出張です。古い記録を預かる役所に勤めています。この町に来るときは、毎回このホテルの同じ部屋を取ります。

ノア

同じ部屋。落ち着きますか?

トキワ

落ち着きます。机の位置と、テレビの位置が同じだからです。今夜は、法廷のドラマを字幕つきで最後まで観る予定です。

ノア

法廷ものが好きなんですね。……いちばん好きなのは?

その人は答える前に、手帳を開いた。ノアの質問を、そのまま一行書き取っている。書き終わるまで、返事はない。ノアは少し首をかしげて、待った。

トキワ

十二人の怒れる男です。ほとんどの場面が、一つの部屋の中です。それでも、最後まで目が離せません。

『十二人の怒れる男』は、レジナルド・ローズ原作の1954年のアメリカのテレビドラマと、それを原案とする作品。1957年にリメイクされた映画は、監督がシドニー・ルメット、主演がヘンリー・フォンダ。父親殺しの罪に問われた少年の裁判で、陪審員が評決に達するまで一室で議論する様子を描く。発端は、ローズが実際に殺人事件の陪審員を務めたことだという。[1]

ノア

観たことあります。長い飛行機の中で、英語の音声で。字幕なしだったから、半分くらいしか分からなかったけど、声の調子で、誰が迷ってるかはなんとなく分かった。

トキワ

声の調子。……書き取ってよろしいですか。

ノア

どうぞ。冗談半分ですけど。

その人は、冗談半分、まで手帳に書いた。ノアはそれを見て、グラスで口元を隠して笑った。

トキワ

私があの作品に引っかかるのは、手続きのところです。手続きが正しくても、結論が正しいとは限りません。けれど、正しい結論にたどりつく道も、手続きの中にしかありません。あの部屋の十二人は、その両方を一室でやっています。

ノア

日本だと、あの作品は陪審の制度を説明するときによく引き合いに出されるんですよね。制度の教科書みたいに。

日本では、アメリカの陪審制度の長所と短所を説明するものとして、この作品がよく引用されている。[1]

ノア

でも、ほかの国で観ると、また違って見えるんです。陪審のない国の人と観たら、知らない人どうしが一つの部屋で決めるってこと自体に驚いてた。制度の話より先に、部屋の話になる。

トキワ

部屋の話。……それは、書き取る価値があります。

手帳のページが一枚めくられた。バーテンダーが、ノアの前に小皿のナッツを置く。その人は、自分の炭酸水の氷が一つ溶けたのを確かめるように、グラスを照明にかざした。

ノア

日本のドラマだと、何を観ますか?

トキワ

HEROです。検事のドラマです。冒頭で音楽が鳴ると、背筋が伸びます。検事が現場へ向かう音だと、私は理解しています。

『HERO』はフジテレビ系列の月曜21時台(月9)で放送されたテレビドラマで、第1期は2001年1月8日から3月19日まで。木村拓哉が演じる型破りで正義感の強い検察官と、松たか子が演じる検察事務官のコンビによる捜査を描いた。音楽は服部隆之。[3]

ノア

現場へ向かう音。いい言い方ですね。法廷じゃなくて、現場なんだ。

トキワ

記録は、机の上だけでは確かめられません。足で確かめに行く人の話が、私は好きです。だから靴だけは、毎晩磨きます。

ノアがカウンターの下をのぞくと、その人の靴は、外套よりも古く、外套よりもよく光っていた。

ノア

その靴、何年くらい履いてるんですか?

トキワ

数えていません。靴の年数を記録する決まりは、ありませんので。領収書は、一枚残らず取ってあります。

ノア

法廷もののゲームは、やりますか? 飛行機で、英語版の逆転裁判をやったことがあるんです。英語のタイトルは、Ace Attorney。

『逆転裁判』はカプコンの法廷バトルのゲームシリーズで、1作目の発売は2001年10月12日。英語の題名は『Ace Attorney』。[2]

トキワ

やります。犯人は、最初の証言の段階で分かります。

ノア

最初の段階で? すごいな。

トキワ

すごくはありません。そのあとの、動機の章になると、手が止まります。なぜその人がそうしたのか。そこには、正しい答えが一つではないからです。

ノア

誰がやったかは分かるのに、なぜやったかで止まる。……それ、たぶん、いい止まり方だと思います。

その人は返事をしなかった。手帳を閉じ、外套のポケットから小さな小物入れを出して、ふたが閉まっているかを一度、二度と確かめた。

ノア

……すみません。変なこと言いました?

トキワ

言っていません。私が、少し困っただけです。いい止まり方だと言われたのは、初めてです。

ふたを確かめる手が、止まった。その人はもう一度手帳を開き、いい止まり方、と書いて、その下に線を一本引いた。

ノア

そういえば、さっきから「たぶん」とか「かも」とか、一回も言ってないですね。

トキワ

言いません。記録に残る言葉は、言い切るように教わりました。あなたは、よく使います。たぶん、と、思います、を。

ノア

旅をしてると、言い切れないことばかりなので。道も、言葉も、ご飯の値段も。言い切らないでおくと、誰かが教えてくれるんです。

トキワ

言い切らないでおくと、誰かが教えてくれる。……それは、記録には向きません。けれど、間違ってはいません。

十一時少し前。ノアのグラスは空になり、その人の炭酸水には、氷が一つだけ残っていた。

ノア

今夜のドラマ、間に合いますか?

トキワ

間に合います。十一時十五分からです。部屋まで、歩いて二分です。

ノア

Good night. ……あ、おやすみなさい。今度、陪審のない国の人と観たときの話、続きをしますね。

トキワ

記録しておきます。次に、このホテルに泊まるときに。

白い手袋をはめ直し、その人は伝票に自分の名前ではなく、部屋の番号を書いた。領収書を受け取って、手帳のあいだにまっすぐ挟む。ノアは文庫本を一冊、カウンターに置き忘れたふりをしようとして、やめて、三冊ともリュックにしまった。

この記事の作品

HERO
ドラマ 2001
話した人 トキワ 正しさを最後まで記録したい、白い外套の役人 トキワの記事をもっと読む →

次に読む

記事一覧へ

ページの先頭へ