「しおりのある部屋」の昼下がり。おにぎりを食べ終えたアカリに、ナギがたずねました。「作品に助けられたな、って思うのはいつ?」。アカリが選んだのは、学校を移ったばかりのころの話。支えになったのは漫画の『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-』です。物語の展開には触れていません。
全部、自分で決めていい
学校を移ったころ、っていうと、ついこのあいだ?
うん。前の高校をやめて、通信制に移った。理由の話はしない。今日はそのあとの話。
うん、そのあとの話を聞きたい。
通信制って、いつ何を勉強するか、けっこう自分で決めるの。最初にもらった説明の紙を読んで、「全部自分で決めていい」ってわかったとき、正直わくわくした。説明もなく従えって言われるのが一番嫌いだったから。
アカリにぴったりに聞こえるけど。
でしょ。で、最初の週に、すごい時間割を作った。朝七時起床、八時から国語、九時から数学、昼は二十分、午後は英語と理科、夕方は稽古、夜は復習。一枚の紙にぎっちり。台所の冷蔵庫に貼った。
わあ。それ、前の学校より詰まってない?
詰まってた。自由になったんだから、そのぶん頑張らなきゃって思ったの。周りに「やめた子」って思われたくなかったのもある。
昼の十二時に起きた日
三日もたなかった。四日目、起きたら昼の十二時だった。母はもう仕事に出てて、台所の机に、ラップしたおにぎりが二つ置いてあった。
……そのとき、どんな気持ちだった?
自分に、めちゃくちゃ腹が立った。冷蔵庫の時間割を見たら、もう国語も数学も終わってる時間で。全部バツをつけたくなった。おにぎり食べながら、なんか泣きそうだった。泣かなかったけど。
泣いてもよかったのに。
……そう言われると、ちょっと困る。
それから一週間くらい、毎日同じだった。決めた時間に始められなくて、始められないから怒って、怒ってるから集中できない。机に向かうたびに、自分と試合してるみたいだった。しかも毎回負ける。
誰かに相談はしたの?
しなかった。人見知りだから、新しい学校の先生にどう話しかけていいかわからなくて。困ってる人にはすぐ声をかけられるのに、自分が困ってるときは声が出ない。変でしょ。
変じゃないよ。私も、自分のことになると一番言えない。
逆向きの刀
そのころに、『るろうに剣心』を読んだの?
うん。勉強がいやで、午後に近所の図書館へ逃げた。漫画の棚の前に座りこんで、第1巻を開いた。前から名前は知ってたけど、ちゃんと読んだのはそのとき。
集英社の第1巻のページの紹介文は、逆刃刀を腰に下げ、不殺を誓う流浪人・緋村剣心が、かつて「人斬り抜刀斎」と呼ばれた人だった、という設定から始まります。事実[1]
剣心って、すごく強いのに、相手を斬らないための向きで刀を持ってるの。読んでて、最初はただ「かっこいい」って思った。でも、何話か読んだところで、手が止まった。解釈
どうして?
私、自分のことは毎日斬ってたなって。時間割を守れない自分を、力ずくで黙らせようとしてた。剣心は、相手を力で終わらせない道を選ぶのに、私は自分を力で終わらせようとしてた。解釈
……それ、すごく大事な気づきだね。
大げさに言うとね。図書館の床で、ちょっと笑った。私、刃のほう向けてたじゃん、って。
刃のほう、ってアカリらしい言い方。
笑ってるの、図書館の人に見られてた気がする。恥ずかしかったけど、あの日からちょっとだけ楽になった。
一拍おいてから選ぶ
もうひとつ効いたのは、剣心が動く前に一拍おくところ。勝てる場面でも、どう終わらせるかを選んでから動く。私はいつも、考える前に動くほう。時間割も、考えるより先に埋めてた。解釈
アカリの速さは、いいところでもあるよ。
うん、それはわかってる。速いのをやめたいわけじゃない。ただ、一拍おいてから速く動けばいいんだって思った。道場でも、礼をしてから始めるでしょ。あれも一拍なんだよね。解釈
礼が一拍。いい言い方。
それでね、図書館の帰りに、勇気を出して学校の先生にメールした。時間割の作り方がわからないって。返事に、最初はみんな詰めすぎるって書いてあって、ちょっと笑った。説明してくれる大人って、こんなに助かるんだって思った。
アカリが一番ほしかったのって、それかもね。
うん。説明があれば、私はちゃんと従える。
説明がある決まりなら、守るのも得意そう。
得意。礼と約束には、私、誰よりうるさいよ。
それと、剣心は流浪人で、決まった場所に属してない。でも、自分の筋だけは外さない。学校からは外れても、筋からは外れなくていい。それがわかって、ちょっと息ができた。解釈
時間割を作り直した
そのあと、時間割はどうしたの?
冷蔵庫からはがして、作り直した。一日の勉強は二コマだけ。どの教科でもいいから、二つやったら勝ち。夕方の稽古は変えない。それと、週に一日、何も書かない日を作った。
何も書かない日。私、それ好き。好み
ナギなら言うと思った。最初は、空いてるマスを見るとそわそわしたけど。母が「その日は何するの」って聞くから、「何もしない練習」って答えたら、すごい笑われた。
お母さん、その答え気に入ったんじゃない?
たぶんね。母は私がどんな顔で帰ってきても、まず「ごはん食べた?」って聞く人だから。そういう人なの。勝手にかわいそうな家とかって決めないでほしいけど、うちはそういう、ちゃんと見てくれる家。
いまの小さな習慣
いまも、その時間割?
だいたいね。あとひとつ増えた。勉強を始める前に、机の前で一回だけ礼をする。誰も見てないけど。
机に礼。アカリらしい。
礼をすると、一拍おける。で、二コマできなかった日も、終わりにもう一回礼をする。できなかった自分を斬らないで、今日はここまで、って区切るため。
それ、ちょっと真似したいな。私は礼じゃなくて、お茶をいれるとかにするかも。
いいじゃん。区切れるなら何でもいいと思う。
稽古は?
続けてる。稽古の帰りに大盛りを食べながら、剣心の巻をたまに読み返す。食べてるときだけ、なんか自分にやさしくなれるから。
新しい場所では、自由になったぶん、自分にきびしくしすぎてしまうことがあります。自分を力ずくで動かそうとしている日は、刀の向きを一度だけ確かめてみるのもいいかもしれません。休む日をつくることも、前に進むための一部です。解釈
できなかった日の自分を斬らなくていい。礼をひとつして、今日はここまでと区切ればいい。