朝稽古が終わった道場の縁側。竜山は湯呑みを二つ並べ、片方を、卓に立てたタブレットの前に置きました。画面の向こうでは、夜通し起きていた魔王がマントを羽織ったまま座っています。竜山の膝の上には、旅先の駅の売店で買って、帰りの電車で読みかけになっていた将棋の漫画が一冊ありました。
題に隠れた数
おう、まだ起きとったか。まずは茶じゃ。画面越しで悪いがのう。
大儀である。……かたじけない。して竜山殿、膝の上のそれは何であるか。
将棋の漫画じゃ。題が変わっとる。『ハチワンダイバー』という。
『ハチワンダイバー』は柴田ヨクサルの将棋漫画で、2006年から2014年まで『週刊ヤングジャンプ』に連載されました。題の「ハチワン」は81のこと。縦横9マスずつ、81マスの将棋盤に「潜れ」という昔の師匠の言葉から、主人公は自分を「ハチワンダイバー」と名乗るようになります。事実[1]
八と一で、八十一。余は数を数えるのが好きである。第一に、盤のマスが八十一。第二に……第二は無い。見事な題である。好み
ははは、一つで足りとる。俺も将棋は毎日指すが、盤に潜るとは考えたことがなかった。好み
潜るのであれば、息が続かねばならぬ。解釈
そこよ。稽古でいちばん大事なのも息じゃ。深う潜る者ほど、上がってくる道筋をよう覚えとる。解釈
負けて目が覚める
主人公の菅田健太郎は、子どものころから20年を将棋にささげながら、プロになれる四段に上がれず、その道をあきらめた青年です。いまは素人を相手に、お金を賭けた将棋で日々をしのいでいる。そんな菅田が、秋葉原で「アキバの受け師」と呼ばれる若い指し手に完敗し、もう一度本気で将棋に向き合い始めるところから、物語は動きだします。事実[1]
賭けの将棋は、俺は好かん。じゃが、この男が負けて目を覚ますところは、ええ入り方じゃ。勝っとるうちは、人は稽古をせんもんでな。解釈
負けて目が覚める、か。戦でも同じである。勝ち戦のあとほど、兵站が緩む。解釈
お前さんの話は、いつも兵糧に戻るのう。
盤の上の手は本物
作中の将棋の監修を務めたのは、棋士の鈴木大介です。事実[1]
本職の棋士が後ろについとる、ということじゃな。盤の上の手が本物なら、話がどれだけ跳ねても骨は折れん。解釈
余の城には、将棋を指す臣がおらぬ。手が本物かどうか、余には見分けがつかぬ。だが竜山殿がそう申すなら、余は信じる。好み
俺は、気に入った局面があると、自分の盤に並べてみるのが癖でな。紙の上の手でも、駒を置くと急に重うなる。好み
並べ直す、か。余も気に入った回は三度観る。一度目は筋、二度目は顔、三度目は後ろに控える者を見る。好み
物語の早いうちに、菅田を鍛えるために向き合わされる最初の相手が、年老いた真剣師の二こ神です。二こ神は「雁木」という構えを得意にしています。事実[1]
構えに名がついとるのがええ。空手の型と同じじゃ。名を呼べば、体のほうが先に思い出す。好み
余の軍にも、陣の名はある。……と申しても、誰も信じぬがな。
漫画から盤へ出てきた策
菅田は戦いを重ねるうちに、「ハチワンシステム」という自分だけの戦法を編み出します。漫画のために作られた戦法ですが、ゲーム版の発売を記念した催しで、作者の柴田ヨクサル自身がこれを使い、女流棋士の藤田綾と指して勝ちました。事実[1]
見たか! 紙の上で生まれた策を、描いた本人が、催しの対局で指して通したのである。そこである! 余は、こういう大将を好む。解釈
策はのう、紙の上で終わらせたら、ただの絵じゃ。指して通して、はじめて策になる。……俺も近ごろは将棋ウォーズで、若い者の見たこともない手にころっとやられとる。好み
竜山殿が負けるのか。
負ける負ける。負けた日は、その手を朝稽古の前に盤へ並べ直す。盤に潜る、いうのは、案外そういうことかもしれん。解釈
……いい話であった。
その一冊、読み終えたら画面の前で開いて見せてやろう。お前さんは、そろそろ寝なされ。
寝ぬ。名乗りから読むゆえ、表紙から見せよ。
『ハチワンダイバー』の「ハチワン」は将棋盤の81マス。作中の将棋は棋士の鈴木大介が監修し、漫画で生まれた戦法「ハチワンシステム」は、ゲーム版の発売記念の催しの対局で作者自身が指して勝った。