土曜の昼、朝の漁から戻ったゲンは、昼ごはんのあと、縁側で網を繕っていました。庭の物干しでは洗濯物が揺れていて、海のほうから風が来ます。その横で、イトはクロッキー帳を開いたまま、さっきから一枚もめくっていません。文化祭の準備が続いていたころ、クラスのポスターのことで小さく引っかかっていたイトが、父にその話をした日のことです。
縁側の網
おう、イト。さっきからそのページ、一枚もめくってねぇな。四コマか?
四コマ。最後のコマだけ、三日描けてない。
何の四コマだ。
家族の。母ちゃんが、雨が降りだす前に洗濯物を全部取りこむ話。三コマ目まではできてて、オチだけ決まらない。
三日も。お前にしちゃ長ぇな。網のほうが先に直っちまうぞ。
網と比べないで。……止まってるの、たぶん四コマのせいじゃない。文化祭のポスターのこと、母ちゃんから聞いた?
いや、聞いてねぇ。なんかあったのか。
クラスのポスター、AIで作った案に決まった。クラスの子が作ったやつ。
そうか。で、お前はどう思った。
きれいだと思った。ほんとに。空の色とか、私には出せない感じだった。だから、そこは引っかかってない。
じゃあ、何が引っかかってんだ。
本当に言ったのに
決まったあと、作った子に「きれいだね」って言った。ほんとにそう思って言った。
いいじゃん、それ! 言えたんならよ。
その子、一回こっちを見て、何も言わなかった。私の言い方、たぶん平らだった。帰りの自転車でも、ずっと頭の中で自分の「きれいだね」を巻き戻して聞いてた。何回聞いても、平らだった。
……平らだと、まずいのか?
私、声に色がつかないの。うれしいときも、ほめるときも、同じ平らな声になる。ほんとのことを言っても、ちがう意味に取られたら、言わなかったのと同じじゃん。
それで四コマが止まってんのか。
たぶん。何を描いても、あの平らな声で描いてる気がして。最後のコマで、オチの顔が決まらない。
描けねぇ日は、描けねぇでいいだろ。網だって、天気の悪い日は干せねぇ。
分かってる。でも、そのあとの部活のとき、あの子の顔を思い出して描こうとしたら、描けなかった。目と口の形が、どうしても出てこない。毎日同じ教室にいるのに。
お前でも、そういうことあんのか。
ある。見てると思ってたのに、見てなかったってこと。それがいちばん、こたえた。
やっと手に入った次の巻
その週、何読んでた? お前のことだ、何かしら読んでんだろ。
『君に届け』。中古で、やっと次の巻が手に入って。日曜の昼に、ここで読んだ。父ちゃん、船の掃除でいなかったとき。
爽子は、中身はすごくいい子なのに、ぱっと見の印象で、ぜんぜん違う子だと思われてる。読んでたら、なんか、今週の私の話みたいに見えてきて。
ああ、お前が前に表紙を見せてくれたやつか。表紙に出てた子だな。
そう。今回は、爽子より、爽子と話してる人のほうをずっと見てた。
話してる人?
爽子のまわりにいる人。最初は、爽子のことをこわがってたり、遠くから見てるだけだったりする。その人たちの顔が、どこで変わるのか、ずっと探してた。
話している相手の顔
爽子が誰かと話す場面で、私、爽子じゃなくて、相手の顔のほうばっかり見てたの。話しかけられる前と、話したあと。そこが、いちばん変わるから。
お前らしい読み方だな。俺なら、しゃべってるほうの顔しか見ねぇ。
それで気づいた。私、「きれいだね」って言ったとき、自分の声ばっかり気にしてて、あの子の顔、ちゃんと見てなかった。こっちを見たのは覚えてるのに、どんな顔だったか、思い出せない。
漫画のどの場面がそうだったかは、ここでは書かない。イトの話では、爽子が話しかけたあと、相手の表情が少しずつほどけていくように見えるコマが、何度もあったという。解釈
網と同じだな。破れたとこを直すときは、手元より先に、網の目のほうを見る。どこがどう破れてるか見ねぇで糸を通すと、目がずれて、かえって穴が広がる。
だから網と比べないでって。……でも、そう。先に見る。
で、どうしたんだ。
今度は、言うだけじゃなくて、聞いてみることにした。あの空の色、どうやって決めたのって。
月曜の休み時間
月曜の休み時間に聞いた。ポスターの、空のいちばん下のほうの色、どうやって決めたの、って。
おう。
そしたらその子、あそこ、何回も作り直したんだって。AIに何回も頼んで、出てきた中から色を選んで、選んだあとも自分で少し直したって。すごく早口で、うれしそうだった。今度は、顔、ちゃんと見てた。
機械に頼むのも、手間かかってんだな。
うん。私が「きれい」って思ってたのは、機械の絵じゃなくて、その子が選んだ色だった。それが分かったら、急に楽になった。二人とも、空の色で悩んでたんだって。
……いい話じゃねぇか、おい。
泣くとこじゃない。網、ずれてる。
おっと。……で、その子とは、それからどうだ。
べつに、急に仲よくなったりはしてない。でも、昨日、美術の時間に、私の絵の空を見て、その色どうやって出したのって聞かれた。絵の具を三つ混ぜた、って言った。
今度は向こうから聞いてきたか。網の目、一つつながったな。
その日の部活で、あの子の顔、もう一回描いてみた。今度は描けた。早口でしゃべってるときの、口がちょっととがる顔。
ほう、そりゃよかった。見せてもらえるのか、それ。
だめ。クラスの子は、家族の四コマより見せられない。
作品が何かを解決してくれたわけではない、とイトは言います。ポスターはそのまま貼られ、イトの声もたぶん平らなまま。変わったのは、言ったあとに相手の顔を見て、一つだけ聞いてみたことでした。
最後のコマ
で、四コマの最後のコマは描けたのか。
ゆうべ描いた。父ちゃんが泣いてるとこ。
なんで俺が泣いてんだよ! そもそも俺、その四コマに出てこねぇだろ!
出てこないけど、最後は父ちゃんが泣いてると、話が終わるの。うちの四コマは、そういう決まり。
……便利に使いやがって。ほれ、日当だ。
手伝ってないよ。
話、聞かせてもらった分だ。母ちゃんには内緒な。
……もらっとく。あと、最近、ホマレの宿題の丸つけで、丸をつけたら、ホマレの顔を一回見るようにしてる。うれしいのか、照れてるのか。
ああ、ホマレがやけに機嫌いいと思ったら、それか。
言ったあとに、相手の顔を一回見る。届いたかどうか分からなかったら、一つだけ聞いてみる。同じ言葉が、それで別の顔で届くことがある。