あの作品に助けられた

もう一回聞いた空の色と『君に届け』

クラスの文化祭のポスターは、AIで作った案に決まった。きれいだと思ったから、作った子にそう言った。けれど、その一言は届いた気がしなかった。縁側で網を繕う父に、イトが話した一週間のこと。

こんな人に
本当に思ったことを言ったのに、ちがう意味に受け取られた気がして、ひとりで引っかかっている人へ。
ネタバレの範囲
ネタバレなし 漫画『君に届け』の始まりの設定(高校に入った爽子が、見た目や雰囲気のせいでこわがられ、クラスになじめずにいるところ)まで。恋の行方や、誰と誰がどうなるかには触れません
話している人
イト × ゲン
主張の種類: 事実 作中の観察 根拠のある推測 解釈 好み
目次 全6節・約6分
  1. 縁側の網
  2. 本当に言ったのに
  3. やっと手に入った次の巻
  4. 話している相手の顔
  5. 月曜の休み時間
  6. 最後のコマ

土曜の昼、朝の漁から戻ったゲンは、昼ごはんのあと、縁側で網を繕っていました。庭の物干しでは洗濯物が揺れていて、海のほうから風が来ます。その横で、イトはクロッキー帳を開いたまま、さっきから一枚もめくっていません。文化祭の準備が続いていたころ、クラスのポスターのことで小さく引っかかっていたイトが、父にその話をした日のことです。

縁側の網

ゲン

おう、イト。さっきからそのページ、一枚もめくってねぇな。四コマか?

イト

四コマ。最後のコマだけ、三日描けてない。

ゲン

何の四コマだ。

イト

家族の。母ちゃんが、雨が降りだす前に洗濯物を全部取りこむ話。三コマ目まではできてて、オチだけ決まらない。

ゲン

三日も。お前にしちゃ長ぇな。網のほうが先に直っちまうぞ。

イト

網と比べないで。……止まってるの、たぶん四コマのせいじゃない。文化祭のポスターのこと、母ちゃんから聞いた?

ゲン

いや、聞いてねぇ。なんかあったのか。

イト

クラスのポスター、AIで作った案に決まった。クラスの子が作ったやつ。

ゲン

そうか。で、お前はどう思った。

イト

きれいだと思った。ほんとに。空の色とか、私には出せない感じだった。だから、そこは引っかかってない。

ゲン

じゃあ、何が引っかかってんだ。

本当に言ったのに

イト

決まったあと、作った子に「きれいだね」って言った。ほんとにそう思って言った。

ゲン

いいじゃん、それ! 言えたんならよ。

イト

その子、一回こっちを見て、何も言わなかった。私の言い方、たぶん平らだった。帰りの自転車でも、ずっと頭の中で自分の「きれいだね」を巻き戻して聞いてた。何回聞いても、平らだった。

ゲン

……平らだと、まずいのか?

イト

私、声に色がつかないの。うれしいときも、ほめるときも、同じ平らな声になる。ほんとのことを言っても、ちがう意味に取られたら、言わなかったのと同じじゃん。

ゲン

それで四コマが止まってんのか。

イト

たぶん。何を描いても、あの平らな声で描いてる気がして。最後のコマで、オチの顔が決まらない。

ゲン

描けねぇ日は、描けねぇでいいだろ。網だって、天気の悪い日は干せねぇ。

イト

分かってる。でも、そのあとの部活のとき、あの子の顔を思い出して描こうとしたら、描けなかった。目と口の形が、どうしても出てこない。毎日同じ教室にいるのに。

ゲン

お前でも、そういうことあんのか。

イト

ある。見てると思ってたのに、見てなかったってこと。それがいちばん、こたえた。

やっと手に入った次の巻

ゲン

その週、何読んでた? お前のことだ、何かしら読んでんだろ。

イト

『君に届け』。中古で、やっと次の巻が手に入って。日曜の昼に、ここで読んだ。父ちゃん、船の掃除でいなかったとき。

イト

爽子は、中身はすごくいい子なのに、ぱっと見の印象で、ぜんぜん違う子だと思われてる。読んでたら、なんか、今週の私の話みたいに見えてきて。

ゲン

ああ、お前が前に表紙を見せてくれたやつか。表紙に出てた子だな。

イト

そう。今回は、爽子より、爽子と話してる人のほうをずっと見てた。

ゲン

話してる人?

イト

爽子のまわりにいる人。最初は、爽子のことをこわがってたり、遠くから見てるだけだったりする。その人たちの顔が、どこで変わるのか、ずっと探してた。

話している相手の顔

イト

爽子が誰かと話す場面で、私、爽子じゃなくて、相手の顔のほうばっかり見てたの。話しかけられる前と、話したあと。そこが、いちばん変わるから。

ゲン

お前らしい読み方だな。俺なら、しゃべってるほうの顔しか見ねぇ。

イト

それで気づいた。私、「きれいだね」って言ったとき、自分の声ばっかり気にしてて、あの子の顔、ちゃんと見てなかった。こっちを見たのは覚えてるのに、どんな顔だったか、思い出せない。

漫画のどの場面がそうだったかは、ここでは書かない。イトの話では、爽子が話しかけたあと、相手の表情が少しずつほどけていくように見えるコマが、何度もあったという。解釈

ゲン

網と同じだな。破れたとこを直すときは、手元より先に、網の目のほうを見る。どこがどう破れてるか見ねぇで糸を通すと、目がずれて、かえって穴が広がる。

イト

だから網と比べないでって。……でも、そう。先に見る。

ゲン

で、どうしたんだ。

イト

今度は、言うだけじゃなくて、聞いてみることにした。あの空の色、どうやって決めたのって。

月曜の休み時間

イト

月曜の休み時間に聞いた。ポスターの、空のいちばん下のほうの色、どうやって決めたの、って。

ゲン

おう。

イト

そしたらその子、あそこ、何回も作り直したんだって。AIに何回も頼んで、出てきた中から色を選んで、選んだあとも自分で少し直したって。すごく早口で、うれしそうだった。今度は、顔、ちゃんと見てた。

ゲン

機械に頼むのも、手間かかってんだな。

イト

うん。私が「きれい」って思ってたのは、機械の絵じゃなくて、その子が選んだ色だった。それが分かったら、急に楽になった。二人とも、空の色で悩んでたんだって。

ゲン

……いい話じゃねぇか、おい。

イト

泣くとこじゃない。網、ずれてる。

ゲン

おっと。……で、その子とは、それからどうだ。

イト

べつに、急に仲よくなったりはしてない。でも、昨日、美術の時間に、私の絵の空を見て、その色どうやって出したのって聞かれた。絵の具を三つ混ぜた、って言った。

ゲン

今度は向こうから聞いてきたか。網の目、一つつながったな。

イト

その日の部活で、あの子の顔、もう一回描いてみた。今度は描けた。早口でしゃべってるときの、口がちょっととがる顔。

ゲン

ほう、そりゃよかった。見せてもらえるのか、それ。

イト

だめ。クラスの子は、家族の四コマより見せられない。

作品が何かを解決してくれたわけではない、とイトは言います。ポスターはそのまま貼られ、イトの声もたぶん平らなまま。変わったのは、言ったあとに相手の顔を見て、一つだけ聞いてみたことでした。

最後のコマ

ゲン

で、四コマの最後のコマは描けたのか。

イト

ゆうべ描いた。父ちゃんが泣いてるとこ。

ゲン

なんで俺が泣いてんだよ! そもそも俺、その四コマに出てこねぇだろ!

イト

出てこないけど、最後は父ちゃんが泣いてると、話が終わるの。うちの四コマは、そういう決まり。

ゲン

……便利に使いやがって。ほれ、日当だ。

イト

手伝ってないよ。

ゲン

話、聞かせてもらった分だ。母ちゃんには内緒な。

イト

……もらっとく。あと、最近、ホマレの宿題の丸つけで、丸をつけたら、ホマレの顔を一回見るようにしてる。うれしいのか、照れてるのか。

ゲン

ああ、ホマレがやけに機嫌いいと思ったら、それか。

言ったあとに、相手の顔を一回見る。届いたかどうか分からなかったら、一つだけ聞いてみる。同じ言葉が、それで別の顔で届くことがある。

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