十月の日曜、昼すぎ。路地の奥の古い一軒家で、竜山が湯を沸かしていた。卓の上には商店街の和菓子屋の栗まんじゅうが四つと、ノアが先月貸していった映画のディスクが一枚。
ノアはいつも、月に一度、旅の土産話をメッセージで竜山に送る。返事はたいてい一行か、電話だ。今月は電話のほうが先に来た。あの猫の映画、観たぞ。それだけ言って切れたので、ノアはディスクを受け取りがてら、直接たずねることにした。
おう、来たか。まずは茶じゃ。熱いぞ。
いただきます。……竜山さん、電話、ほんとに一言でしたね。
長う話すと、会うたときに話すことが無うなる。
今日は、私が長く話す番です。シャオヘイの話、どこまでしていいですか。
最後まで観とる。弟子に機械をつないでもろうて、吹き替えで二晩かけた。好きなだけ話しなされ。
結末まで話しちゃいますよ。大事なところは畳みますけど。
ええよ。先を知っとっても、茶は冷める。冷める前に始めい。
入口から話しますね。人間が森を切り開いて、住んでいた森をなくした黒猫の妖精。それがシャオヘイです。小さいのに、一人で次の居場所を探して歩いてる。[1]
公式の紹介だと、まだ六歳です。[4]
六つで一人旅か。肝が据わっとるのう。
それに、姿をいくつも持ってる子で。猫の耳がついた人間の男の子にもなれるし、化け猫みたいな姿にもなれる。[1]
しっぽからはヘイシュウっていう生きものが出てきて、シャオヘイとは、いる場所をお互いに入れ替えられる。旅人としては、少しうらやましい力です。[1]
入れ替われるなら、旅先から道場へ一瞬で戻れるな。
台詞は半分も追えなかったのに、あの子がずっと、自分の置き場所を探してるのだけは伝わってきた。私が好きになったのは、そこからです。
俺は人の足もとから見る癖がある。あの子は、着いた先でもなかなか腰を下ろさん子に見えた。
最初にあの子に手を差し出すのは、人間嫌いの妖精のフーシー。仲間のいる島へ連れていってくれます。故郷の森に似た島に。[1]
そこで仲間の一人のロジュが、シャオヘイの歓迎会をやろうって言い出す。私、一回目の涙はそこでした。[1]
歓迎会でか。まだ何も起きとらんじゃろう。
旅をしてると、知らない町で、ようこそって言われることはほとんど無いんですよ。言われるのは、どこから来たの、のほう。
……道場もそうじゃ。入門の日に、名前より先に、どこの町の子かを聞いてしまう。あれは直さにゃいかん。
それにあの島は、今の言葉でいう、ととのう場所じゃな。
それ、たぶんお風呂の言葉です。……でも、言いたいことは伝わりました。
そこへ、人間なのに妖精の側で働く執行人、ムゲンが来る。フーシーたちは逃げて、シャオヘイだけが捕まってしまう。[3]
無口で、顔のほとんど動かん男じゃった。ああいうのは、腹の中でいちばんしゃべっとる。
公式の紹介にも、表情はあまり変えないけど、情がないわけじゃない、って書いてあります。[5]
人間なのに、本人いわく、妖精に近い。この映画の時点で四百三十七歳。[1]
吹き替えでムゲンを演じた宮野真守さんは、人と妖精のあいだに立とうとする、その立場を大事にして演じた、と話しています。[6]
私、あいだに立つ人を見ると、つい自分の肩にも力が入ります。仕事でも、いつも二つの側の真ん中にいるので。
あいだに立つ者は、両側から押される。戸と同じよ。両側の柱が少しでも狂うと、真ん中の戸から建付けが悪うなる。
公式の紹介を並べて、気づいたことがあって。シャオヘイの力の性質は、金属性と空間系。[4]
ムゲンのほうにも、そっくり同じ二つが書いてある。最初から、同じ道具箱を持ってる二人です。[5]
ほう。体の向きの同じ者どうしは、組むと強い。
ここから先は、捕まったあとの話です。畳みますね。
中盤まで中盤の展開(前半のあたり)押すと開きます
ノア「ムゲンは、シャオヘイが捕まえるべき相手じゃなかったと気づくと、そのお詫びに、力の使い方を教えようと言い出します。シャオヘイは、その申し出を、逃げるのに使おうとする。そして、そのたびに捕まる。何度も、何度も」
ノア「最初は、お互いに疑ってばかりの二人です。でも、二人で旅を続けるうちに、シャオヘイは世界がどれだけ広いかを少しずつ知っていく。それにつれて、二人のあいだが変わっていく」
ノア「お詫びから始まる師匠と弟子って、私はほかにあまり知りません。教える側が、先に謝ってる。ここが、この映画でいちばん好きなところです」[1]
ははは。畳んだところ、読んだぞ。俺の弟子には、あそこまで手を焼かせる者は、まだおらんのう。
竜山さんは、ムゲンのどこを覚えてました?
間じゃな。逃げられても、捕まえても、同じ顔で同じ間を取る。俺には、そう見えた。
ノアは手帳を開き、綴じ目のきわに一行書いた。左手の字が、いつものように綴じ目に少し吸いこまれる。竜山は何を書いたのかは聞かず、栗まんじゅうを一つ、ノアの皿に移した。
シャオヘイの声の花澤香菜さんは、住んでいた場所を追われるところが、あの子の成長の始まりだと話しています。誰が味方で誰が敵かを、自分なりに決めようとする子だ、って。[6]
私がシャオヘイを好きなのは、そこなんです。大人が二人、それぞれの正しさを持って立ってて、その真ん中で、六歳の子が迷いながら、自分の目で決めようとしてる。[1]
私は、決めるのが遅いほうなので。迷ってる時間ごと、あの子が描かれてるのがうれしい。
迷うのは、ちゃんと両方を見とるからじゃ。片方しか見ん者は迷わん。
今日、竜山さんに聞きたかったのは、フーシーのことで。
あの男の策は、好かん。
そう言われると思ってました。理由は、畳んだあとで聞かせてください。でも、フーシーにも、追われた故郷があります。龍游っていう土地を追われて、放浪してた。[1]
吹き替えでフーシーを演じた櫻井孝宏さんは、やり方が正しいとは言い切れなくても、本人の中には大きな筋がある、だから悪者の芝居にはしなかった、と話してます。[6]
大きな筋、か。……仲間と、なくした森のために打った手じゃ。そこまでは俺も分かる。
私が背中が冷えたのは、設定の説明を二つ並べたときです。そこも畳みます。
中盤まで中盤の展開(後半のあたり)押すと開きます
ノア「フーシーには、ほかの者の能力を奪う力があります。奪われたのが空間系の力だと、霊域ごとなくしてしまうので、命まで落とす。そして、シャオヘイが持っている力の一つが、空間系の領界。自分の霊域を外に広げて、その中のものを思いどおりにできる力です」
ノア「この二つを並べたとき、私は島の歓迎会を思い出して、背中が冷えました。それでも、ロジュが歓迎会をやろうと言ったときの顔まで、作戦の一部だったとは思えない。それは、私がそう信じたいだけかもしれないけど」
竜山「子どもを仲間に入れておいて、その子の知らんところで策を進めとったとしたら、誰のために打つ手か、で線を引くと、俺はあの男を線の向こうに置く」[1]
……畳んだところ、読んだぞ。あの歓迎は本物じゃった。俺にも、そう見えた。
よかった。そこが二人で割れたら、今日の茶は苦くなるところでした。
窓の外で、路地を自転車が一台通りすぎた。竜山は急須に湯を足し、ノアの湯呑みに二杯目をついだ。
この映画、もとは、ウェブで公開されていた短いアニメのシリーズなんです。監督のMTJJさんが、最初の一本を半年かけて、一人で作った。[2]
そのとき使ったお金が三千元。当時の銀行の残高で、暮らしのお金そのものだったそうです。[2]
有り金を全部、一本に。……道場を借りたころを思い出す。明日の米より、床板が先じゃった。
観に来たのも、はじめは九割が中国の人。それが、いつのまにか日本の人がほとんどになった。[1]
パンフレットは、向こうでは売る習わしが無いから、上映が始まって二、三週間たってから作ったんだそうです。[1]
パンフレットを売ってる映画館って、実は日本くらいで、よその国の映画館ではまず並んでないらしいです。[1]
ほう。映画館の売店で買うのが当たり前と思うとった。俺は毎回買うとるぞ。
竜山さんの家の本棚、たしかにパンフレットの背がずらっと並んでますね。あれ、いつか一冊ずつ見せてください。
私、こういう話に弱くて。同じ映画が海を渡ると、渡った先の当たり前に合わせて、持ち物が一つ増える。
その題の話は、最後まで聞いてからじゃな。
はい。ここからは結末です。
結末・正体結末押すと開きます
ノア「続編の公式の紹介文は、この映画の二年後から始まります。シャオヘイは、師匠のムゲンと一緒に、小さな村で穏やかに暮らしている。前の映画で、二人は心を通わせた、とも書いてあります」
ノア「ということは、あの最後で、シャオヘイはムゲンを師匠に選んだんだ、と私は読みました。題名の、ぼくが選ぶ未来、とも重なるから」
ノア「それを読んだ日、私はいつもの喫茶店の窓ぎわで、本を閉じたまま、しばらく座ってました。森を追われて一人で歩いてた子が、自分で選んだ場所に、二年たってもちゃんといる。それだけのことが、こんなにうれしい」
竜山「昔は、弟子は師を選べんと言われとった。あの子は、自分で決めた。自分で決めた者は、しんどい日でも自分の足で道場に来る。俺は、あそこがいちばん効いた」[7]
最後のところで俺がどうなったかは……それは内緒じゃ。
ふふ。お弟子さんには言いません。
私は二回目に吹き替えで観たとき、最初に観た旅先の映画館の椅子の硬さまで思い出しました。あの子の行き先と、自分の行き先が、少しだけ重なって見えて。
もう一つだけ。題名の羅小黒の、羅の字の話をさせてください。
結末・正体結末のあと(題名のこと)押すと開きます
ノア「この映画は、ウェブのシリーズの本編より四年前のシャオヘイの話です。だから、この時点のシャオヘイには、まだ羅という名字がついていない」
ノア「題名に書いてある名前を、映画の中のシャオヘイは、まだ持っていない。私はこれを知ったとき、手帳を落としそうになりました」[1]
結末・正体結末のあと(WEBシリーズの設定)押すと開きます
ノア「ウェブのシリーズのほうでは、ひどいけがをして行き場をなくしていたシャオヘイを、羅小白という女の子が拾います。そして、その子の名字をとって、羅小黒と名づけられる」
ノア「森を出て、島を出て、師匠のもとに落ち着いた子が、そのあとで、拾ってくれた人の名字をもらう。題名のほうが、あの子の行き先を先に知ってるみたいで」[8]
話半分で聞いてくださいね。私は言葉の専門家じゃないので。でも、名前が本人より先に旅をしてる題名って、めったにないと思います。
看板が先に掛かって、店があとから育つ。そういう店は、長う続く。
窓の外が、いつのまにか夕方の色になっていた。竜山は柱の時計を見上げた。日曜の夜は大河の前に正座すると決めている。ノアはそれを知っていて、湯呑みを空けた。
大河の前に帰ります。ディスク、預かっていきますね。
いや、もう一晩貸してくれ。今度は元の言葉で観る。字が小さかったら、弟子に読ませる。
じゃあ来月は、元の言葉のシャオヘイが竜山さんにどう聞こえたか、電話じゃなくて、ここで聞かせてもらえますか?