十月の金曜、夜九時すぎ。友だちの部屋で夕飯を食べた帰り、レイの終電までには一時間ほどあった。駅のほうへ歩きながら、どちらからともなく、明かりのついたファミレスに入った。
ミコは変な柄のパジャマの上に、くるぶしまであるダウンを羽織っている。席に着くと、レイは迷わず店員さんを呼ぶボタンを押した。ミコはメニューの陰で、それを見なかったことにした。
ミコ、それ、パジャマのまま来たでしょう。
上着、着てる。
上着の下の話をしてる。
……ドリンクバー、二つで。
ミコはメロンソーダ、レイはホットの紅茶を持って戻ってきた。レイがスマホを伏せて置く。
前に送ってくれたリストの、カイジのアニメ。二期まで観終わった。
最後まで?
最後まで。先を知りたくないから、通知を全部切って観た。
じゃあ、全部話していい? 私は漫画のほうで話すけど。
どうぞ。今日はもう、何を聞いても大丈夫。
第2シリーズの『賭博破戒録カイジ』。アニメの二期と、だいたい同じところ。[1]
『賭博破戒録カイジ』は2000年〜2004年に連載、全13巻。アニメ第2期『逆境無頼カイジ 破戒録篇』は2011年放送、全26話
始まりから、もうだめなんだよ。カイジ、自分は追いつめられないと動けない人間だって、自分で言ってる。で、また危ない勝負を紹介しろって頼みに行って、地下に放りこまれる。[2]
自分の弱点の説明が正確なのに、対策が最悪。
そう。私はそこで、もう好き。
地下の給料、ひどいでしょ。一日三千五百円って言いながら、借金の返済と食費と施設の利用料で九割を先に引かれる。手元に残るのは三百五十円分。それも、地下でしか使えないペリカっていうお金で。[1]
待って。九割を先に引くなら、残りの一割の使い道も、向こうが決めてるのと同じ。
うん。缶ビールが一本五百円する世界だから。[1]
外に一日出られる券もある。でも、値段が五十万ペリカ。[1]
一日三千五百ペリカで、五十万。……計算したくない。
カイジは、その券のために貯めようとする。最初は本気で。[1]
ここから先、畳むね。
中盤まで中盤の展開(地下に来てすぐのあたり)押すと開きます
ミコ「同じ班の班長が、大槻。いつも笑ってて、新入りのカイジに、地下でやっていくコツを教えて、気をつかってくれる。いい人に見えるんだよ。でも裏では、地上から仕入れたお酒やおつまみやお菓子を高く売って、みんなのペリカを吸い上げてる」
ミコ「甘い言葉で、カイジも周りの人も、だらしなくして、使わせて、食い物にする。前借りした人の給料からは、上前もはねる。カイジは大槻のいかさまに負けて、大きな借金を負って、四十五組に落ちる」
ミコ「四十五組っていうのは、前借りを重ねて、手取りがずっと削られたままの人たちの呼び名。私、ここは読みながら、計算の仕方を知らない人から順に食べられていく感じがして、ずっと胃が痛かった」[2]
畳んだところの班長。最初のうち、ほんとにいい人だと思って観てた。
私も。読んでて、ちょっと好きになりかけた。……悔しい。
最初に優しくしてくる人って、だいたい、あとで何か取りにくるよね。
大槻はそう。でも、それを全員に広げるのは雑。
取らない人だって、ちゃんといる。四十五組の人たちは、みんなだめだけど、人から取る側には回ってない。ひとくくりにしたら、その人たちまで同じ箱に入る。
……取り消す。大槻を嫌うのはいい。優しい人を全部、同じ箱に入れるのは違う。
嫌いでいいけど、雑に扱うのは別。って、私も途中までは全員を疑って読んでたけど。
隣の席の家族連れが会計に立った。レイは紅茶にスティックの砂糖を一本だけ入れて、残りをミコのほうへ寄せた。ミコは二本とも、メロンソーダに入れかけて、やめた。
で、私がいちばん好きなのは、四十五組の人たち。一人ずつ、ちゃんとだめで。
三好。出目を全部メモしてた人。
そう。三好は、びくびくしてるくせに、すぐ浮かれる。賭けから抜けられなくて、カイジにまで人格破綻者って呼ばれてる人。[2]
なのに、チンチロの出目を毎回記録してるの。几帳面に。自分では、そのメモを何にも使ってないんだけど。[2]
それ、ログ。取ってるだけで、誰も読まないログ。うちの仕事にも山ほどある。
ここ、畳むね。
中盤まで中盤の展開(地下の勝負のあたり)押すと開きます
ミコ「大槻のいかさまに気づく大きなきっかけになったのが、三好の、あの出目のメモ。大槻たちがやってたのは、四・五・六しか目のないサイコロを使ったいかさま」
ミコ「カイジは四十五組の仲間と一緒に立ち上がって、地下チンチロで、大きく張って勝ちにいく。最後に使うのは、一の目しか出ないサイコロ。大槻が貯めこんでた千八百二十五万二千ペリカを、ほぼ全部吐き出させる。大槻の手元に残ったのは、千八百ペリカだけ」
ミコ「私、ここで三好のメモのところまで戻って読み直した。役に立たないって言われてた几帳面さが、いちばん効いてる。だめな人のだめなところが、そのまま武器になる話、私はほんとに弱い」[2]
勝った瞬間より、そのあとの四十五組の顔のほうを、私は巻き戻して見た。
私は勝ったページより、その前が好き。立ち上がるとき、手持ちが千三百ペリカしかなくて、加わるのをためらった人がいる。カイジに声をかけられて、その人も加わる。そこで毎回、ちょっと息が止まる。[2]
ここから私の解釈。前田の呼び方が変わるところ、あそこが一番いい。
……そこ、拾うんだ。
前田は最初、カイジのことをカイジくんって呼ぶ。地下から出たあとは、尊敬してカイジさん。カイジのほうも、前田さんだったのが、助けたあとは呼び捨てになる。[2]
年上の前田が、さんを付けて、年下のカイジが、さんを外す。二人のあいだの距離が、言葉の一文字で入れ替わってる。公式に書いてあるのは呼び方の変化まで。そこから先の気持ちは、私の読み。
いや、それは私、気づいてなかった。メモしていい?
それ、私がいつも言うやつ。
前田、短気でさ。大槻のいかさまを知ったとき、殴りこもうとして、カイジに止められてる。[2]
止めたほうが、あとでさん付けで呼ばれる。殴りこんでたら、たぶん、ずっとくん付けのまま。
正しい。
レイは無意識に、ナプキンに二つの名前を書いて、そのあいだに矢印を二本引いていた。ミコはそれを見て、鼻で小さく笑った。
四十五組は、勝ったお金を全部、カイジに預けるの。六人分の借金を返すお金を、外で作ってきてくれって。[1]
人を信じてお金を預けるの、この漫画ではいちばん危ないこと。それを、だめな五人がやる。
預けられたほうも重い。
うん。だからカイジは、あとを託されることになる。
ここから地上の話。畳む。
中盤まで中盤の展開(地上に出てから)押すと開きます
ミコ「カイジは、少しのあいだだけ地下から出て、地上で坂崎さんに出会う。五十二歳。前は大きな建設会社の現場監督で、不況で会社を辞めて、パチンコ漬けになって、奥さんと娘さんに愛想を尽かされた人」
ミコ「坂崎さんは、家族とやり直したくて、退職金や家を売ったお金を元手に、裏カジノのパチンコ台、沼を狙ってた。そこにカイジを誘う。一回目は、店長の一条が台に仕込んだ念入りな邪魔に、まるで歯が立たない」
ミコ「私、坂崎さん、好き。家族に戻りたい理由が、ずっと本気なの。だめな大人が、だめなまま、誰かのところに帰ろうとしてる」[2]
アニメの坂崎、声が大きくて、最初ちょっと苦手だった。最後は好きになってた。
ここは解釈じゃなくて感想。坂崎とカイジ、親子でも友だちでもない距離なのに、並んで台の前に座ると、急に一つの班に見える。
分かる。年も、だめさの種類も違うのに、帰りたい場所がある人と、帰る場所を探してる人が、同じ台を見てる。
店内の音楽が、知らない曲に変わった。ミコはストローの袋を細く折りたたみ、テーブルの端に一本の線のように置いた。レイはそれを見て、何も言わずに自分の袋も隣に並べた。
カイジ、地上に出ても、四十五組の顔を一日も忘れてない。自分のためだと動けない人が、人の借金のためだと、急に頭が回り出す。私はそれを、強さとは呼ばない。好きって呼ぶ。
読んで賭けたくなる漫画じゃないでしょ。沼の仕組みを読むと、むしろ二度と近づきたくなくなる。
うん。あれは、出口に見える穴の話。
で、ここから結末。私が一番しゃべりたいところ。
結末・正体結末押すと開きます
ミコ「カイジは坂崎さんと、それから、上の人の失脚で落ち目になって窮地にいた遠藤まで仲間に引き入れて、もう一回沼に挑む。何度もひっくり返されて、最後に当たりを出す」
ミコ「負けた一条は、会長の怒りを買って、損害の代わりに地下で千五十年働けって言い渡される。連れていかれるとき、カイジは一条に、這い上がって自分に仕返しに来いって声をかけるの。一条は泣きながら、いつかやり返すって誓う」
ミコ「さっきまで殺し合いみたいな勝負をしてた相手に、這い上がってこいって言う。私、カイジのそこが一番好き。負かした相手を、雑に扱わない」[2]
待って。そこ、私も止めた。巻き戻して三回見た。
ここから私の解釈。あの二人、勝負のあいだが一番近かった。終わってから、やっと敵になれた感じがする。
……それは違う、って言いたいけど、言えない。たぶん合ってる。
カイジの上着、ずっと前を開けて着てるでしょう。あれ、作るなら前の打ち合わせを最初から縫わない。閉める気のない服。[2]
衣装の話になった。
なってた。……続けて、最後のところ。
結末・正体結末のあと押すと開きます
ミコ「勝ったあと、ホテルで三人で騒いでたら、遠藤がカイジと坂崎さんに眠り薬を盛る。で、カイジに貸したお金の借用書に、十分ごとに三割ずつ増える、とんでもない利息の条件を書き足して、一億円以上持っていく。ただ、利息より多くは取らないし、坂崎さんの取り分にも手を出さない。ちょっとだけ、仲間だったって気持ちが残ってたみたい」
ミコ「カイジは残ったお金で、四十五組と、それから石田さんの息子を地下から出す。そのせいで、ほとんど無一文。しかも最後の十万円をパチンコで全部すってる。ほんとにだめ」
ミコ「そこに、カイジを見張ってた黒い服の人が来る。カイジをくそヒーローって罵りながら、自分の財布から三万円を出して、四十五組と石田さんの息子に顔を見せてこいって渡すの。カイジはその人を優しいおじさんって呼んで、泣いてお礼を言う」
ミコ「レイがさっき言った、最初に優しくして後で取りにくる人の、ちょうど逆の人。私はこの三万円の場面のために、この漫画を読み返してる」
ミコ「遠藤のことは、許さない。でも、利息より多く取らなかったところと、坂崎さんの分に手をつけなかったところは、数える。悪い人を全部悪いで塗ると、あの人がやらなかったことまで消えるから」
ミコ「十万円をすったところも好き。人のためにお金を全部使ったのに、自分の最後の分は自分で溶かす。立派な主人公なら、そこは残しておく」
レイ「アニメだと、そのあたりで、石田さんの息子が中継を観ながら泣く場面が足されてた。お父さんが言ってたとおりだった、って」[2]
畳んだところ、読んだ。全部、許せる?
全部は許さない。でも、許さない人のやらなかったことまでは消したくない。帳簿の端に、一行残しておきたい。
一行。報告書でも、最後の一行がいちばん正直なことがある。
アニメには、漫画にない場面が一つ足されてた。中身は、畳んだところで話したやつ。[2]
それ、知らなかった。……アニメ、観直す。
だめなところを一個も直さないまま、それでも人を見捨てない。筋だけ通す。私はそういう人を、推しって呼んでる。
……長かった?
それ、レイの台詞でしょ。……長かった。
時計は終電の二十分前を指していた。レイが伝票を取ろうとすると、ミコのほうが先に、伝票ばさみを自分の側へ引き寄せた。
ドリンクバーくらい、自分で払う。
ここは私が出す。紅茶一杯分くらいなら。