店の表では、ルカーノが採寸の客についていた。奥の工房の作業台には、紅茶のカップが二つ。トルソーには黒と赤紫の衣装が一着かかっていて、裾だけがまだ仮縫いの白い糸のままだった。
先に来ていたのはチアキだった。小さなキャリーを壁ぎわに寄せ、トルソーの前にしゃがんで、裾の端を目の高さで見ている。裏口の戸が開いて、衣装袋を両腕で抱えたカノンが入ってきた。
チアキさん! ルカーノさんが、裾を見てくれる人が来るって言ってて。チアキさんのことでした!
こんにちは。昼の公演のあと、夜行バスまで時間があったので。回る前に裾が広がるかどうか、客席の目で見てほしいと頼まれていて。
私は昼に対バンがあって、その足で来ました。まだ顔が舞台のままで、すみません。
座ってください。肩、まだ上がってます。
カノンは丸椅子に腰を下ろそうとして、衣装袋の脇の鞄を膝で倒した。床に、真新しい漫画の単行本が一冊すべり出た。
あっ、落ちた……! 拾います、拾います。
漫画ですね。帯がまだ新しい。
原作・静脈、漫画・依田瑞稀。『少年ジャンプ+』で2022年4月から連載中。既刊19巻(第19巻は2026年10月2日発売)
題だけは知ってます。どんなお話か、聞いてもいいですか。
殺し屋の名家の跡取りの、下呂さんっていう人がいて。女の人とほとんど関わらずに生きてきたのに、家の事情で、どうしても結婚しなきゃいけなくなる。それで、仕事で狙っていた結婚詐欺師に、その場で結婚の手伝いを頼む。そこから始まります。[2]
私の推しは、その結婚詐欺師のほう。城崎メイさん。
殺し屋さんじゃなくて、詐欺師さんのほう。
はいっ。メイさんは、三十秒もらえたら、相手が男の人でも女の人でも、ほとんど落とせるって言い切る人です。[2]
病室に入ると、私も最初の三十秒で顔色と息を見ます。落とすほうじゃなくて、拾うほうですけど。
えっ、同じ三十秒! 私、物販で一人ずつお話しするのが、だいたいそのくらいなんです。メイさんを読んでから、その三十秒で何を見るか、考えるようになりました。
私はその三十秒、いつも手紙を渡すだけで終わってしまって。
全部、ちゃんと受け取ってます。……あ、今日はメイさんの話でした。
チアキは口もとに手の甲を当てて、紅茶を一口飲んだ。カノンは単行本を膝にのせ、表紙の角を指でなぞった。
ルカーノさんに針の持ち方を習いはじめたころで、火曜の夜はレッスンから帰って、袋麺をすすりながら配信を待ってました。[1]
第1期は火曜23時から関西テレビ・フジテレビ系列ほかで放送、配信は同日23時30分以降
冬から。それなら、そこまでに追いつけますね。
なので今日は、アニメの一期の山場までにします。その先は、チアキさんが観るときのために取っておきたいので。……でも、一期の中身はネタバレになっちゃいます。話してもいいですか。
大事なところを畳んでもらえるなら。開けるかどうかは、私が選びます。
はいっ、畳みます! じゃあ、畳まなくていいところから。私が最初に好きになったのは、出会いの場面です。結婚詐欺師なのに、メイさん、そんな申し出をされたのは初めてだ、って言うんです。[2]
何でも知ってて、何でもできる人が、初めて、って口にする。私、その一言で、この人の話を最後まで聞きたくなりました。
仕事の顔のままだと、初めてって、なかなか言えないですね。言えたのは、たぶん相手が予想の外だったから。
私、前に、クールなキャラで売り出してもらってた時期があって。決め台詞を言うたびに、客席から笑いが起きてました。メイさんは相手に合わせて見せ方を変えられる人で、私は変えようとして、転んだほうです。
そのころのカノンさん、私が最初に観た日です。笑ってた人たち、次の曲で、みんな前のめりになってました。
えっ……見られてた。
あと、メイさんは、おいしいものに目がなくて、見た目からは想像できないくらいの大食いです。[2]
私は金欠で、月末はもやしなので、メイさんがいっぱい食べてる場面を、ごはんのかわりに読んでます。
ごはんは、ごはんで食べてください。
最初の作戦のところ、畳みますね。
中盤まで序盤の展開(アニメ第2話のあたり)押すと開きます
カノン「婚活が始まって、メイさんが最初に決めたのは、下呂さんがいちばん輝く婚活のやり方は『人助け』だ、ってことでした。殺し屋にどうやって人助けができるのか、下呂さんは悩むけれど、メイさんは、裏の世界の仕事を仲介してくれるサイトを使えばいい、って言う」
カノン「それで、デートの練習をしに二人で豪華な客船に乗ったら、船の上で絵が盗まれる事件が起きる。そこで下呂さんは、美術品ばかりを狙う、裏の世界では悪名の高い泥棒、姫川杏子さんに出会います」
カノン「私が胸をつかまれたのは、メイさんが、下呂さんのいいところを、本人より先に見つけてたことでした。強いとか、家が大きいとかじゃなくて、困ってる人を放っておけないところ。それを婚活の真ん中に置いた」[3]
見つける人がいて、はじめて、その人のいいところになるんですね。
次のお話では、メイさんが『王子様作戦』っていう婚活の作戦を考えます。名前だけで、もう笑っちゃいますよね。[4]
王子様。作戦の名前を考えてるときの顔が、見てみたいです。
メイさんの話から少しそれますけど、大学のお話に、内気な嬉野さんが出てくる回があって。私、そこで正座しました。[9]
正座。
袋麺の前で。どこで正座したかは、チアキさんが観るときのために取っておきます。
メイさんが人の心を読むところ、私は礼でやってるつもりです。頭を下げる角度と、止めてる長さで、その人が本気か、形だけか、だいたい分かる。メイさんは、それを言葉と顔でぜんぶやってる感じです。
カノンさんの礼、客席からだと、止まってる一秒がいちばんきれいに見えます。
カノンの背中から首までが、すっとまっすぐになった。
く、苦しゅうない……じゃなくて、ありがとうございます!
恋の話をしてもいいですか。大学の合宿の肝試しで、メイさんは、怖い場所で胸がどきどきするのを恋と取り違える、あの吊り橋の効果で、恋が始まるのを本気で期待してるんです。[5]
私、人の恋の話を聞くのが大好きで。メイさんみたいな人に、作戦を立ててもらえたらなあって、読みながら思います。
カノンさんは、作戦を立ててもらう側がいいんですか。
はい。三十秒もいらないです。メイさんに見つめられたら、たぶん十秒で落ちます。
残りの二十秒は。
残りで、深く礼をします。
チアキが、ふっと息だけで笑った。
チアキさんは? 恋の作戦、立ててほしい人、いますか。
勤務表が埋まってるので。
勤務表が、恋の相手より先に埋まってる……! 次のところも畳みます。私がいちばん巻き戻した回です。
中盤まで中盤の展開(アニメ第7話のあたり)押すと開きます
カノン「下呂さんの友だちの、蟲使いの花巻さんが結婚することになって、二人で式に招かれます。メイさんは、結婚式は出会いの場所だって、にんまりしてる。式には、同じく下呂さんの友だちで、三人の子のお父さんの針使い、繋さんも来てる」
カノン「ところが、花巻さんを恨んでいる人が、雇った兵隊を引き連れて、式を壊しに来る。下呂さんは花巻さんの相棒と組んで、式を守りに飛び出していく。そのとき、友人代表のスピーチはメイさんにお願いしていく」
カノン「私、ここを何回も巻き戻しました。託される人です、メイさんは。いちばん大事な友だちの晴れの日のマイクを、走り出す前に、迷わず渡していける相手。舞台で言うと、自分の立ち位置を仲間に預けて、袖から飛び出していく感じ」[6]
夜勤の休憩に入るとき、受け持ちを預ける相手は、私も選びます。この人なら大丈夫、と思える人にしか渡さない。
メイさんの声の人のコメントに、下呂さんが幸せになるために毎回いっしょうけんめいなところが可愛い、ってあって。恋の目線で読むと、私がいちばんときめくのも、そこなんです。自分の恋じゃなくて、誰かの恋のために全力になってる人。[2]
私は、少し違う読みです。誰かの幸せのために一生懸命な人を見ると、病棟の癖で、その人自身はちゃんと休めてるのかな、って先に考えてしまう。
メイさん、休んでるのかな。……でも、ごはんはすごく食べてます!
食べられてるなら、まずは安心です。
ハムスター使いの嵐山さんが出てきたときも、メイさんは、使い手どうしなら案外お似合いかも、って真っ先にわくわくしてました。いつも恋の芽を探してる。[10]
芽を探す人と、芽に気づかない人。下呂さんは、気づかないほうですか。
気づかないほうです! そこがまた、可愛いところで。次も畳みます。
中盤まで中盤の展開(アニメ第10話のあたり)押すと開きます
カノン「獣使いの本拠地を目指す途中で、下呂さんは、血を混ぜて強くされた獣使いの傍系の人たちに、百人がかりで襲われます。多勢に無勢で、どんどん消耗していく。そのとき、メイさんが前もって手配しておいた助っ人が、下呂さんの前に現れる」
カノン「戦いが始まる前から、メイさんは手を打ってた。私、ここで、人の心を読むってこういうことなんだ、と思いました。相手が困る前に、困ったときのことを考えておく。三十秒で落とすのと同じ目で、ずっと先まで見てる」[7]
具合が悪くなりそうな人の枕もとには、悪くなる前に、要るものをそろえておきます。それと同じ手つきですね。
わかります! 私も、転ぶのが前提なので、膝のテーピングをいつも鞄の底に入れてます。
一期の山場も、畳みます。
中盤まで中盤の山場(アニメ第11話のあたり)押すと開きます
カノン「下呂さんたちと離ればなれになったメイさんは、殺し屋狩りの桃壱さんと組んで、木々の奥に隠れた獣使いの拠点にたどり着きます。二人が入りこんだ研究室にいたのは、血の入った試験管を手に実験をしている十四郎さんの姿」
カノン「戦うのが仕事じゃない人が、敵のいちばん奥まで、自分の足で入っていく。私、ここで息を止めました。人の恋の手伝いをする人が、こんな場所にまで来てる」[8]
開けました。一期は、どこまで行くんですか。
私が話すのは、獣使いとの決闘に決着がつくところまでにしておきます。続きは冬から。[11]
最後に、いちばん大事なことを畳みます。チアキさんが一話から観るなら、ここは開けないほうが、きっと楽しいです。
開けます。選んだので。
結末・正体いちばん大事なこと押すと開きます
カノン「メイさんは、ふだん女の人の格好をしているけれど、本当は男の人です」
カノン「それを知ってから、私、一話から読み直しました。そうしたら、三十秒も、たくさん食べるところも、結婚式のマイクも、何ひとつ嘘になってなかった。メイさんの可愛さは、生まれつきの形じゃなくて、毎日選んで、手をかけ続けてる、そのやり方のほうでした」
カノン「私、声が低いじゃないですか。顔も、可愛いより綺麗って言われるほうで。可愛いには向いてないのかなって、ずっと思ってました。でも、選び続けていいんだって、メイさんに言われた気がした」
カノン「恋の目線で言っても、ときめきはひとつも減りませんでした。私がときめいてたのは、たぶん最初から、その手つきのほうだったので」[1]
チアキはしばらく黙って、トルソーの裾を見ていた。それから、カノンのほうへ向き直った。
低い声は、ライブハウスだと、後ろの壁ぎわまでまっすぐ届きます。私、いつも後ろのほうで聴いてるので。……これは、私の勝手な見方です。
後ろまで。……はい。
店の表で、扉の鈴が鳴った。客を見送るルカーノの声が、通路をこちらへ近づいてくる。
ルカーノさん、戻ってきます! 私、衣装を着てきますね。チアキさん、回る前の一歩、数えててください。