日曜は道場が休みだ。夜明け前の土手で、ゴウはひとり型を打っていた。突きのたびに道着の袖が鳴り、その音だけが川風に乗っていく。川向こうの街灯は、まだ水面に映っている。最後の礼を終えたところで、ゴウは振り返らずに口を開いた。
先生。おはようございます。
土手の斜面を、雪駄の音がゆっくり上がってきた。竜山だった。
後ろから来たのに、よう分かったのう。
先生の足音は、存じておりますので。日曜の朝にお目にかかるのは、珍しいです。
年寄りは早う目が覚める。道場の戸締まりを見た帰りじゃ。座らせてもらうぞ。
二人は土手の上のベンチに並んで座った。ゴウは黒いステンレスのボトルの蓋にコーヒーを注ぎ、両手で竜山に差し出した。足もとの道場バッグから、厚い単行本が一冊のぞいている。
黒か。目が覚める。……それは何じゃ。
『ゴルゴ13』です。ゆうべ、寝る前に一話だけと思いまして。
連載が始まったころのゴルゴの顔の手本は、高倉健さんだったと、作者のさいとう・たかを先生が話しております。[1]
健さんか。俺は裕次郎のほうじゃがのう。
お前さんの好きな男の話を、ゆっくり聞かせてくれ。先の話まで構わん。
よろしいのですか。私は、人の楽しみを先回りして明かすのは、好まないほうですが。
俺は先を知っても観る。それに、漫画のほうは読んどらん。
では、大事なところは閉じてお話しいたします。開けるかどうかは、先生のお気持ちで。
うむ。
ゴウは本を膝に置き、背筋を伸ばした。それから、しばらく黙った。
主人公は、デューク東郷と名乗ることの多い男です。本名も、生まれも、年もわかりません。デューク東郷という名前も、偽名だろうと見られております。[2]
名乗る名が偽名か。ふむ。
描いた本人が、決めんのか。
決めないから、読む者がそれぞれの胸に置いておけるのだと、私は思っております。
わからんものを、わからんまま大事にする。それも読み手の礼じゃな。
東郷という姓は、作者の先生が、中学のころに担任だった恩師のお名前から借りたものだそうです。[1]
自分がいちばん長く描くことになる男に、恩師の名を付ける。私はそれを知った日、作戦ノートの表紙の裏に書きつけました。
ほう。師の名を背負うて、弟子が世界を歩くわけか。
押忍。……いえ、失礼いたしました。土手でそれは、おかしいです。
かまわん、かまわん。
私が最初にこの男を好きになったのは、礼の仕方です。依頼人にも挨拶をせず、敬語もほとんど使わない男が、命を救ってくれた人とその身内には、敬語で丁寧に接することがあります。[2]
お前さんの逆じゃな。お前さんは、俺の前でだけ言葉が長うなる。
ゴウは首の後ろに手をやり、川のほうを見た。
今朝は、とくに長くなっております。申し訳ありません。
作者の先生によると、連載の始めのころは、この男にもっと台詞があったそうです。喋らせすぎると綻びが出るので、依頼人のような、まわりの人物に喋らせることにした、と。[1]
お前さんも、喋らせると綻びが出る口か。
今朝は、もう出ております。
ええじゃないか。綻びの出ん話は、聞いとっても面白うない。
そういえば、ゴルゴは後ろに立たれるのを嫌うと聞いたことがある。
はい。不意に背後に立たれると、本人の意思より先に手が出てしまうほどです。話を聞く席でも、背中を壁や柱にあずけて座る場面がよく出てきます。[2]
この癖は、作者の先生のお兄さんが、映画館から出てきたときに足を踏まれたと言って、後ろの人に手を上げた話がもとだそうです。[1]
ははは。今朝、後ろから寄ったのは俺のほうじゃった。手が出んでよかった。
先生の足音でしたので。
土手の下の植え込みから、茶色い猫が一匹出てきて、ベンチの少し先に座った。ゴウは黙ってしゃがみ、ポケットから小袋を出した。猫は一度だけゴウの顔を見て、植え込みに戻っていった。
逃げられたな。
いつものことです。……ゴルゴも、笑う場面は数えるほどしかありません。ある数え方では、四話だけだそうです。[2]
お前さんは、何話笑うた。
数えておりません。
そうか。それで、その笑わん男のどこに、お前さんは惚れとる。
中盤まで第95話の依頼押すと開きます
ゴウ「依頼人は、家を飛び出してきた少年です。少年は、もう長くは生きられない体でした。頼みは、国務長官の命を狙う者がいるので、長官を守ってほしい、というものです」
ゴウ「ゴルゴはその依頼を、少年が差し出せたほんのわずかな現金と、一枚の金メダルで引き受けます」
ゴウ「人を守る仕事を、子どもの持ち金と一枚のメダルで引き受ける。私は、このページに来るたびに、いったん本を閉じます」[3]
竜山は何も言わずに、蓋のコーヒーを一口すすった。
この回で、ゴルゴは自分のことを、ウサギのように臆病だと言います。強すぎるのは、弱すぎるのと同じくらい悪い。強すぎると、自分を過信して命を落とす、と。[2]
強い者ほど、自分を臆病と言う。ええ師匠についたような男じゃ。
先生の、強い者ほど手を出さん、というお言葉と、同じところから出ている言葉だと、私は読みました。
ひとつ言うてええか。俺は、善は善、悪は悪で観る。人を狙う稼業を、手放しで褒める気にはなれん。
存じております。私も、この男の稼業を手本にしているわけではありません。手本にしているのは、引き受けたことを最後まで落とさない姿勢と、その引き受け方だけです。
作者の先生も、この男はヒーローではない、と言っておりました。だから堂々としていないのだ、と。[1]
堂々とせん主人公か。……それなら、俺にも読めそうじゃ。
中盤まで第391話の依頼押すと開きます
ゴウ「ある判事が、自分の罪を隠そうとしています。その証拠になるパッチワークの布が、何者かに持ち去られる。判事は立場を利用して、別の件の容疑者に、布を取り返してくれば罪を軽くしてやると話を持ちかけます」
ゴウ「一方で、隣に住む年配のご婦人が、一部始終を目にしていました。ご婦人はゴルゴに、その布を取り返してほしいと頼みます。ご婦人の亡くなったご主人は医師で、むかしゴルゴの命を救った人でした。それで、この依頼を代金なしで引き受けます」
ゴウ「受けた恩には、手を尽くして報いる。報酬を受け取らないことが、この男なりの礼なのだと思います」[3]
俺は、お前さんに何もしてやっとらんぞ。
入門の日に、笑って受け入れていただきました。それで十分です。
竜山は帽子のつばを少し下げた。川向こうの街灯が、一つずつ消えはじめていた。
三ページか。よほど気に入ったと見える。
中盤まで第213話の依頼押すと開きます
ゴウ「カリフォルニアの郊外にある原子力発電所で、事故が起きます。原子炉の中に高い圧力の蒸気がたまっていて、外へ抜かないといけない。ところが、蒸気を抜くための弁が、働き詰めだった職員の失敗で壊れていました」
ゴウ「このままでは、ロサンゼルスが、二万五千年人の住めない土地になってしまう。偶然ゴルゴの腕前を目にしていた、その発電所を設計した主任が、ゴルゴに頼みます。戦争中の古い対戦車ライフルで、蒸気の通る管を撃ち抜いてくれ、と。撃つ場所は、溶け落ちる寸前の原子炉の中でした」
ゴウ「この回で撃つ相手は、人ではありません」[3]
結末・正体第213話の結末押すと開きます
ゴウ「管のあるあたりは、強い放射能をおびた蒸気でいっぱいで、狙うものが目では見えません。ゴルゴは原子炉の設計図をそっくり頭に入れて、見えないままの一本の配管を撃ち抜きます」
ゴウ「この回は、自分の信念や使命に殉じた人に、ゴルゴが特別な敬意を示す話の一つとして挙げられています。誰がどう殉じたかは、先生がいつか、ご自分の目で」
ゴウ「私が三ページ写したのは、撃つまでの段取りです。何を先に覚え、何を最後に確かめたか」[2]
俺は昔、戸を直しとった。建付けの狂いは、目で探すより先に、手と寸法で当たりをつける。……お前さんがそこを写したのは、ようわかる。
押忍。
眠れんかった回か。聞こう。
結末・正体第532話押すと開きます
ゴウ「ゴルゴには、ときどき右手がしびれて、銃どころか、ペンや葉巻さえ握れなくなる持病があります。原因はわかりません。体よりも心から来ているのではないか、と作中で何度かほのめかされています」
ゴウ「この回で、ゴルゴは修験者のもとに弟子入りします。自律神経を自分で整えて、症状を鎮めようとする。ところが修行の途中で、その師が命を落とし、治りきらないまま修行は途切れてしまいます」
ゴウ「それでも師は、必ず乗り越えられるだろうと言っていました。世界でいちばんの腕を持つ男が、頭を下げて弟子になり、師を途中で失う。私は読み終えたあと、明け方まで型を打っていました」[2]
読み終えて明け方まで型か。お前さんらしいわい。
型を打っていると、読んだ場面が体の中で静かになっていきます。先生の道場で覚えたことです。
俺は教えた覚えはない。お前さんが、勝手に覚えたんじゃ。
先生。最後に一つ、本の外の話を閉じます。連載のことです。
結末・正体連載の節目と最終回のこと押すと開きます
ゴウ「連載が始まったとき、作者の先生は、ごく短く終えるつもりだったそうです。手口を使い切れば、話の種も尽きるだろうと考えて。それが、初めて休むまで、半世紀を超えて一度も休まずに続きました」
ゴウ「最終回は、先生が二十代のころにもう考えてあって、コマ割りまではっきり覚えている、と話していたそうです。けれど、よそのテレビドラマで、先によく似た終わり方が描かれてしまい、その形は描くのをやめた、と伝えられています」
ゴウ「連載が長くなると、先生は、この作品はもう自分ひとりのものではなく、読む人たちのものでもある、と言うようになりました。最終回は自分の頭の中にあるが、自分の一存では終われない。誰かが引き受けてくれるなら、その人に後を任せる、と」
ゴウ「先生は、最終回を描かないまま亡くなられました。けれど生前から、自分がいなくなっても続けてほしいと望んでいて、そのとおりに、絵と脚本を受け持ってきたさいとう・プロダクションの人たちと、雑誌の編集部が力を合わせて、連載はいまも続いています」
ゴウ「誰かが引き受けてくれるなら。……私は、この言葉を読んだ夜、眠れませんでした。いちばん大きな仕事を、最後に人に引き受けてもらう。それも、この男の生みの親らしい流儀だと思っています」
竜山「……終わりの一話は自分の胸にしまうたまま、続けることだけを人に渡したか。師が弟子に渡すもんと、渡さんもんじゃのう」[1]
申し訳ありません。今朝は、一年分喋りました。
一年分か。なら来年の今ごろまで黙っとってもええぞ。
ゴウの口の端が、ほんの少しだけ動いた。
川向こうの空が、白みはじめていた。竜山は空になった蓋を、両手でゴウに返した。
ゴウ。その本、一冊目から貸してくれんか。
押忍。……背表紙の順に、お持ちします。
一話ごとに閉じる話なら、年寄りの朝にちょうどええ。
来週の日曜も、ここで型を打っております。一冊目は、そのときに。