十月の月曜、十一時。待ち合わせは亀有駅の北口、銅像の前だった。カオルが着いて五分たったころ、ゲンは駅の反対側の方角から、首の手ぬぐいで汗をふきながら走ってきた。
ゲンは前の日、漁協の用事で東京に出てきていた。帰りの電車まで半日あると聞いて、定休日のカオルが案内を買って出た。二人は昼の野球中継とギャグ漫画の話で知り合った仲だ。
ゲンさん、なんで向こうから来るん。改札出たら目の前やで。
まっすぐ出たつもりだった。気づいたら知らねぇ口に出てた。都会の駅は出口が多すぎる。……おお、いた! 両さんだ!
駅前の北口には、両津勘吉の像が立っている。ゲンは像の正面に回りこみ、眉のあたりを見上げたまま、しばらく動かなかった。
漫画のまんまだ。眉毛が左右でつながってる。
銅像に感心しすぎやろ。……ほな今日は、両さんの話をなんぼでも聞くで。
最後の回のことまで、全部話していいか。先が気になるとこは畳んで話すからよ。
ネタバレ込みでええよ。私、途中の巻をつまみ食いしたくらいやから、知らんとこだらけやし。
二人は駅前を離れ、商店街のほうへ歩き出した。ゲンは歩きながら、もう話しはじめていた。
両さんは、亀有の公園の前の派出所に勤めてるおまわりだ。生まれは浅草でな、佃煮屋の長男だ。[2]
親父さんに、長男なんだから店を継げってしつこく言われて、腹を立ててな。ゴキブリを佃煮にして店に出しやがった。そりゃ大げんかだ。そのまま家を出ちまった。[2]
最初から最悪やん。それで、なんでおまわりさんになれるん。
喧嘩ばっかりしてた不良の中でも一番強いのを、警察のほうが引っこ抜いたんだと。本人は訳も分からねぇまま試験を受けさせられてな。教官に言わせりゃ、毒には毒をぶつけろってことらしい。[2]
採る方も採る方やな。
俺が両さんを好きになったのは、まずそこだ。金もうけと博打に目がなくて、とんでもねぇ商売を思いついては当てる。なのに欲張って、調子に乗って、最後は自分でひっくり返す。分かってんのに毎回やる。[1]
海にもいるぞ。いい漁場を見つけると欲を出して、網を入れすぎるやつ。たいてい網ごと持っていかれる。両さんを読むと、そいつの顔が浮かぶ。
ゲンさん本人の話ちゃうの、それ。
……一回だけだ。若いころ、親父に黙って網を倍入れて、半分なくした。
正直でよろしい。両さんて、最初から主役やったん?
それがな、違ったんだと。作者の秋本先生がはじめに描こうとしてたのは、中川が主役の、アメリカの警察もののアクションだ。脇に出すつもりだった日系人のキャラを気に入って、そこから両さんができた。[1]
脇役が主役を食うたんや。そういう話、私は大好物やで。
名字のほうはな、作者がデビューする前に入院して、そこで出会った看護師さんの出身地から取ったんだと。いまは佐渡の一地区になってる町の名前だ。[2]
俺、それを知った日から、両さんがちょっとだけ海の向こうの人に見えてる。勝手にな。
勝手すぎるわ。でも、ええ勝手やな。
商店街に入ってしばらく行くと、子どもの姿をした両さんの像があった。ゲンは今度はしゃがみこんで、像と目の高さを合わせた。
両さんがガキのころの話は、だいたい古き良き時代の、泣ける話になる。[1]
おばけ煙突とか、できたばっかりの東京タワーとかが出てくる。あれは作者が自分で見てきたもんが、かなり入ってるんだとよ。[2]
俺のガキのころには、煙突も塔もなかった。浜で拾った漁の浮きが宝物でよ。それでも両さんの子どものころを読むと、自分の浜が出てくるんだ。
しゃがんだまま泣かんといてや、ゲンさん。通る人が見とる。
泣いてねぇ。目に風が入っただけだ。
ガキのころの両さんは、地元の球団のファンでな。球場で声を張り上げて応援してる姿が描かれてる。[2]
大人になってからは、通天閣署の連中に、阪神ファンだって言ってるらしい。[2]
調子ええな! ……まあ、ええわ。阪神て言うてくれる人に、悪い人はおらん。
私な、両さんの話になると、つい大原部長のほうを見てまうねん。
部長か! 毎回、両さんを怒鳴ってる人だろ。
そう。あの人は受ける人やと思うねん。キャッチャー。どんな暴投が来ても体で止めて、止めるたんびに怒鳴る。怒鳴ってるのが、止めてる証拠や。
両さんのほうも、部長のことは本気で認めてるんだよな。部長がずるい手で勝負に勝ったときなんか、両さん、本気でがっかりしてた。[2]
ええ話やん。認めてる人には、ずるしてほしくないんや。
部長のほうは、両さんを息子みたいに気にかけてる。で、両さんのほうが部長をどれだけ信頼してるかが出る回がある。ここから先の話だ。畳むぞ。[2]
中盤まで中盤の一話押すと開きます
ゲン「部長がよその派出所に臨時で行ってるあいだに、代わりの部長が来る。こいつが何も決められねぇ人で、仕事がちっとも回らねぇ。で、派出所で部長の次の立場だった両さんが、仕事を回すために走り回るはめになる」
ゲン「そのなかで両さんは、大原部長の仕事の確かめ方は完璧だって言うんだ。部長を信頼してるのが、そこで分かる」
ゲン「そうやってるうちに、両さんのほうがすっかり部長みてぇな人間になっちまう。ところが部長が帰ってきたら、二人とも元どおりだ。俺はこの元どおりが好きなんだ」[2]
読んだ。……ずるいわ、それは。
俺の親父も、面と向かって褒めたことがねぇ人でよ。漁協の人から、親父が俺のことを自慢してたって聞いたことはある。一回だけな。
はい、ティッシュ。……まだ泣いてへんか。先に渡しとくわ。
先に渡すな。泣く支度ができちまう。
部長の下で、私がもう一人好きなん、寺井さんやねん。両さんに言わせたら、人生送りバント主義の人。[1]
送りバントって、自分はアウトになって、次の人を先の塁に進める打ち方やねん。地味やけど、ベンチはちゃんと見とる。
分からん! ……いや、分かった。船で言うと、網を引くやつの後ろで、黙ってロープを巻いとくやつだな。あいつがいねぇと、網が足に絡む。
それや。ゲンさん、たまにええこと言うな。
両さんは資格の鬼でもあるんだぞ。船の免許も、漁業の免許も持ってる。[2]
漁師になれるやん。
うちの港に来られたら商売あがったりだ。……その資格がちゃんと人のために使われる回があってな。俺は、あれで一番泣いた。これも畳む。
中盤まで後半の一話押すと開きます
ゲン「両さんのガキのころからの友だちが、交通事故で入院する。おふくろさんも病気で寝たきりだ。そいつの代わりに、両さんが東京スカイツリーを建てる現場に入る。工事の資格をいくつも持ってるからな」
ゲン「現場の仕切りがうまくて、しまいには両津隊長なんて呼ばれる。で、そこで稼いだ給料を、全部その友だちのために振り込むんだ」
ゲン「金もうけの鬼が、稼いだ金をそっくり渡す。部長もそれを知って、涙ぐむんだよ。あいつが金もうけ以外で働くとはな、って」
ゲン「うちの港でも、腰をやった年寄りの網を、若いのが代わりに上げる。上がった魚は、そっくりその家に持っていく。誰も礼なんか言わねぇし、言わせねぇ。両さんのあの回は、それなんだ」[2]
……泣けるじゃねぇか……!
ほら、言うたとおりや。先に渡しといて正解やった。もう一枚いる?
ゲンは手ぬぐいで目元を押さえ、八百屋の店先のみかんを眺めるふりをした。カオルは何も言わずに、ポケットティッシュをもう一枚抜いて差し出した。
商店街を抜けて、駅のほうへ戻る。亀有公園は駅の北口からすぐのところにある。ただ、漫画の中の派出所は、本当はこの公園の前にはない。
派出所、ないんや。ちょっとさみしいな。
ないのがいいんだよ。どこの町の公園の前にも、両さんがいそうな気がしてくる。うちの港の前にもな。
二人は公園のベンチに並んで座った。カオルは来る途中のパン屋で買ったコロッケパンを半分に割り、大きいほうをゲンに渡した。ゲンは三口で食べ終えた。
両さんて、昔からあんな感じなん? 私が知ってる両さん、もっと丸い顔やった気がする。
そこだ、カオル。長く続いたもんだから、両さんは少しずつ変わってる。その話も畳んどく。
中盤まで長く続いた中での変化押すと開きます
ゲン「始まったころの両さんは、ただ乱暴で短気な男だった。それが回を重ねるうちに、絵がだんだん丸くなって、中身も人情のほうに寄っていく。カオルが知ってる丸い顔は、そのあとの両さんだ」
ゲン「派出所の電話も変わっていく。黒電話から、ボタンの電話、コードのない電話。そのうち、みんなが携帯を持ってる」
ゲン「作者は、新しいもんを描いたらすぐ古くなるぞって人に言われたことがあったらしい。それなら、いま描いておけば、いつの話か分かるかもしれねぇって、わざと描いたんだとよ」
ゲン「俺は、古い巻と新しい巻を並べて読むと、電話を見ただけでだいたいいつごろの話か分かるようになった。漁の日誌を読み返すのと同じだ」[1]
最後の、作者の考え方が好きやわ。図太くて。
図太いだろ。しかも作者は、始まってから終わるまで、一回も休まなかった。万が一のために、いつも原稿を何本か編集部に預けてたらしい。[1]
『週刊少年ジャンプ』1976年42号から2016年42号まで休載なしで連載。原稿のストックは常に5本
船も同じだ。帰りの燃料は、出る前から積んどく。それに手をつけずに港に戻れたら、いい航海なんだ。
ピッチャーの肩もそうやで。投げられる球の数、最後の回のぶんまで最初から残しとくねん。
最後の回の前に、もう一個だけいいか。俺がまんまとだまされて泣いた回がある。
だまされて? ギャグ漫画で?
中盤まで第69巻の一話押すと開きます
ゲン「この巻に入ってる一話で、いかにも最終回みてぇな話が描かれる。ところが、それはニセの最終回だった」
ゲン「次の巻で、両さんが言ってる。男の読者は笑ってたけど、女の子からは泣いたっていう手紙がいっぱい来た、ってな。ずっとあとの巻でも、うそで連載が終わったことにして、抗議がたくさん来た話だって紹介されてる」
ゲン「俺は男だけど、泣いたほうだ。遠洋に出てたころ、寄港先の本屋の棚の隅で、抜けてた巻をまとめて買ってな。帰りの船で読んで、まんまとだまされた。腹が立って、もう一回読んで、また泣いた」[1]
畳んだとこ、ゲンさんらしいわ。腹立てながら二回読むて。
で、本物の最後だ。俺はもう陸に上がって、近くの海で漁をしてた。港の店で雑誌を買って、同じ日に出た単行本も買った。[1]
2016年9月17日、『週刊少年ジャンプ』2016年42号で連載完結。同じ日にコミックス第200巻が最終巻として発売
両方? なんで。
雑誌と単行本で、途中までは同じなのに、オチだけ違うんだよ。両さん本人が作中で、両方買わせる汚ぇ商売だってぼやいてる。俺は、まんまと両方買った。[1]
売り方まで両さんやな。ほな、最後の回、聞かせて。
網を入れて待つあいだに、船の上で読んだ。……畳むぞ。
結末・正体最終回(第200巻)押すと開きます
ゲン「最後の話で、両さんは日ごろの行いのせいで、周りからの扱いがすっかり悪くなってる。それをよくしようと、自分が本庁に出世して派出所を出ていくっていう芝居を、自分で仕組むんだ」
ゲン「芝居を続けるために、遅刻もしねぇ。制帽のほかは身なりもきちんとして、仕事も人への応対もまじめにやり続ける。最初は気味悪がってた部長たちも、だんだん両さんを信じ直していく」
ゲン「派出所の前で、みんな総出の送別会をやる日に、警視総監から屯田あての電話がかかってきて、うそがばれる。両さんは謝らねぇ。転勤しなくて済んで、ほっとしてやがる。おまけに、みんなに好かれてたんだって分かったもんだから、調子に乗って、わしはずっとここにいる、って大声で宣言する。で、怒ったみんなに追いかけ回されて終わりだ」
カオル「別れの挨拶やなくて、ずっとおるって話で終わるんや」
ゲン「そうだ。俺は、そこで船の上で一人で笑って、一人で泣いた」
カオル「追いかけ回されて終わるの、町じゅうのツッコミやと思うわ。ボケたまま幕が下りたら、さみしいやろ。最後に全員でツッコんで、やっと一本の話が終わる」
ゲン「……そうか。追いかけてくれるやつがいるってのは、幸せなことだな」[2]
有給休暇て。……最後まで、ええ間やな。
で、その休暇、まだ明けてへんの?
ほな私、最後の巻、ちゃんと読むわ。雑誌のほうのオチも気になるし。
いいじゃん、それ! 雑誌のほうは、港の物置に取ってある。帰ったら送る。
公園の時計が一時半を回った。帰りの電車まで、あと一時間あった。
よっしゃ、駅に戻る前に、もう一回両さんに挨拶してく。今度は迷わねぇぞ。
迷うて。来た道を戻るだけやで。……私、前歩くわ。