あの作品に助けられた

舞台を観られなかった日々と『テニスの王子様』

最初の推しが舞台を降りた日、チアキは夜勤の休憩室にいました。生身の人の映像を開けなくなった彼女が、休みの日に再生したのは、十一歳で出会ったアニメの第一話。閉店後の原宿の店で、聞き手は服を仕立てるルカーノです。

こんな人に
好きだった人が舞台や画面からいなくなって、しばらく何も観られなくなったことがある人へ。新しく誰かを好きになるのが、少しこわいと感じている人にも。
ネタバレの範囲
ネタバレなし テレビアニメ『テニスの王子様』(2001〜2005年放送のシリーズ)の放送の長さと、物語の始まりの雰囲気まで。試合の勝ち負けや結末には触れません
話している人
チアキ × ルカーノ
主張の種類: 事実 作中の観察 根拠のある推測 解釈 好み
目次 全6節・約6分
  1. 糸の色を聞かれて
  2. 休憩室の湯のみ
  3. 生身の人を観られない
  4. 見たことのなかった第一話
  5. 休みの日に二話ずつ
  6. 七枚まとめてアイロンを

閉店後のルカーノの店。シャッターを半分下ろした店内で、作業台の上に小さなキャリーが置かれています。持ち手に結んである、チケットの半券の形をしたしおりの縫い糸が、少しほつれかけていました。夜行バスまで、まだ一時間ほどあります。ルカーノは引き出しから針と糸を出して、作業台のランプを点けました。

糸の色を聞かれて

ルカーノ

チアキさん、そのしおり、糸がほどけかけてる。直させてくれるかい。……今日の巻き髪、帰りのバスまでちゃんともちそうだね。

チアキ

助かります。お願いします。その糸、推しの色なんです。推しが変わるたびにハンカチを一枚ずつ足してきて、家の引き出しに、いま七枚あります。

ルカーノ

七枚。服でいえば、七つの季節ぶんの見本帳だ。一枚目は、何色だったの?

チアキ

一枚目は、もう持ち歩いていません。最初の推しは、舞台を降りた人なので。

ルカーノ

おや。……聞いていい話かな。だめなら、今夜は針の話だけしていよう。

チアキ

大丈夫です。ルカーノさんには、いつか話しておきたかった。ただ、その人の名前は言いません。どこの舞台の人だったかも。それでいいですか。

ルカーノ

もちろん。名前の書いてない型紙でも、服は縫える。

休憩室の湯のみ

チアキ

知らせを見たのは、夜勤の休憩のときでした。夜中の休憩室で、湯のみにお茶を入れて、いつもみたいに舞台の情報を開いたら、いちばん上に、引退という字があって。

ルカーノ

一人だったの?

チアキ

一人でした。泣きました。声は出さずに。休憩の終わりのアラームが鳴るまで、湯のみを両手で持ったまま、ずっと。アラームが鳴ったら顔を洗って、髪をひっつめ直して、病棟に戻りました。

チアキ

戻ったら、もう、いつもの声が出るんです。患者さんに呼ばれて返事をする声は、何があっても変わらない。あの夜は、変わらないことが、いちばんこわかった。

チアキ

朝まで、大きなことは何も起きませんでした。申し送りを済ませて、駐車場の車に乗って、エンジンをかける前に、もう一度だけ泣きました。

ルカーノ

仕事の手は、気持ちより先に戻ってくるからね。僕も、ショーの朝に泣いた顔のまま、針だけは真っ直ぐ持てた日がある。ありがたいような、さびしいような感じだった。

ルカーノ

その湯のみ、いまも使ってるの?

チアキ

休憩室の棚の、同じ場所にあります。毎回それでお茶を飲みますけど、あの夜を思い出すのは、たまにだけです。

生身の人を観られない

ルカーノ

そのあとは、どう過ごしていたの。

チアキ

舞台の映像が、観られなくなりました。ほかの人が出ている公演でも、カーテンコールで役者さんが一列に並ぶと、つい端から顔を探してしまう。いないと分かっているのに。新しい公演の知らせも、しばらくは開かずに閉じていました。

ルカーノ

探してしまう、か。

チアキ

推しが休むのも、やめるのも、私は受け入れるのにとても時間がかかります。生身の人は、いつか舞台を降りる。頭では知っていたのに、あの日まで、本当には分かっていなかった。病棟では、退院していく人を見送るのも仕事のうちです。見送ることには慣れているつもりでした。でも、客席の側で見送るのは、まるで別のことでした。

ルカーノ

目は正直だよ。僕も、辞めていった縫い子の作業台を、しばらく見ないようにして歩いてた。椅子を片づけることも、できなくてね。

見たことのなかった第一話

ルカーノ

それで、何が最初のきっかけになったの。

チアキ

知らせから何日かたった、公休の昼です。カーテンを閉めた部屋で、何も観られないまま横になっていて。ふと、十一歳のときに夢中になったテニスのアニメなら、と思いました。生身の人じゃなくて、絵の子たちなら、と。

テレビアニメの『テニスの王子様』は、テレビ東京とその系列で、何年も毎週続いた長いシリーズだ。事実[1]

チアキ

私は子どものころ、放送の途中から観はじめたので、最初のほうの回を知らなかったんです。だから配信で、第一話から再生しました。大人になって初めて観る第一話でした。

ルカーノ

おなじみの物語なのに、知らない一話目。新しい布を、昔の型紙で裁つみたいだね。解釈

チアキ

まだ誰の名前も知らない子たちが、コートの上で、一人ずつ自分の顔を見せていく。絵の中の子たちは、どれだけ観ても、舞台を降りません。次の話を押せば、ちゃんとまたそこにいる。その日は、それだけで息ができました。解釈

休みの日に二話ずつ

ルカーノ

長いシリーズだと、観終わるまでにずいぶんかかったろう。

チアキ

それが、よかった。休みの日に二話ずつと決めました。一晩では終わらない長さがあって、明日もまだ続きがある。夜勤が続く週は、一話も観られない日もあります。でも、置いていかれない。次に再生すれば、同じところから始まる。二話観たら、閉めていたカーテンを少しだけ開ける。それも決まりにしていました。好み

ルカーノ

カーテンを少しだけ。ちょうどいい加減だね。仮縫いも、いきなり全部は縫わない。最初は、しつけ糸で軽く留めておくだけなんだ。

チアキ

それと、私が観ていたあたりでは、勝った子だけじゃなく、負けた子の試合のあとの顔も、ちゃんと映っていました。あの時期の私には、そこがいちばん効きました。終わったあとの人にも、映してもらえる時間がある。解釈

ルカーノ

絵の服は、着ている子がどれだけ走っても、ほつれないしね。……ああ、今のは仕立て屋のひがみだよ。

チアキ

ふふ。でも、ほんとうにそうでした。崩れない人たちを観ながら、少しずつ、崩れる人のほうへ戻る準備をしていた気がします。解釈

ルカーノ

それで、生身の人のほうへは、いつ戻れたの。

チアキ

アニメを半分くらいまで観たころです。そのあいだに、声だけでできた作品にも出会って、それにも助けられました。舞台の映像をもう一度開けたのは、それからまたしばらくあと。最初に観たのは、知らない人ばかりの公演でした。カーテンコールで、端から顔を探さずにいられた。

七枚まとめてアイロンを

ルカーノ

できた。糸は、いまの推しの色のままにしておいたよ。

チアキ

きれい。縫い目って、こんなにそろうものなんですね。

ルカーノ

それで、一枚目のハンカチは?

チアキ

引き出しの、いちばん下にあります。アイロンは、持ち歩く一枚だけじゃなくて、七枚まとめてかけるようにしています。外に出るのは一枚でも、しまってあるほうも、ちゃんと伸ばしておきたいので。好み

ルカーノ

いいね。お世辞で言ってるんじゃないよ。しまってある服の手入れを欠かさない人は、着ていない時間まで大事にしてる人だ。

チアキ

テニスのアニメは、いまも、誰かの休止や卒業の知らせが重なった日に、一話だけ再生します。絵の子たちが変わらずそこにいるのを確かめてから、生身の人の知らせを、もう一度ちゃんと読む。それが、いまの私の順番です。好み

ルカーノ

夜行バスまで、あと何分?

チアキ

四十分です。歩いて行けます。

生身の人を観られない日があってもいい。変わらずそこにいる絵の中の人たちのところで、少し息を整えてから戻ればいい。

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