「しおりのある部屋」の夕方。稽古帰りのアカリが、大きなおにぎりをかじりながら兄にたずねました。「兄ちゃんが作品に助けられたのって、いつ?」。ソウマはしばらく黙ってから、「……お前、たぶん覚えてるやつ」と言いました。選んだのは『中二病でも恋がしたい!』。物語の展開には触れていません。
中三の冬
覚えてるやつって、どれ。
中三の冬。夜中に、俺の部屋からガムテープの音がしただろ。
……した。びりびりびりって、三回。私、泥棒かと思って布団から出られなかった。
あれの話。その前から話す。
中学のころの俺は、まあ、見ての通りじゃなかった。ノートに組織の名前を書いて、階級表をつくって、自分に二つ名をつけてた。教室では無口だったけど、頭の中ではずっと世界を支配してた。
知ってる。私、参謀だったし。
……そこは掘り返すな。で、中三の冬に、急に目が覚めた。きっかけは、たいしたことじゃない。卒業文集の原稿に、うっかりノートの言葉で書いたんだ。先生に「これは何語?」って真顔で聞かれた。笑われもしなかった。それがいちばんこたえた。
笑われないほうが、きついの?
笑われたら、まだ「わかってないな」って思えた。真顔で聞かれると、ああ、これは俺の頭の中にしかない言葉なんだって分かる。世界を支配してるつもりで、誰とも話が通じてなかった。
全部消したかった
それで、どうしたの。
何もできなかった。高校に行ったら、全部なかったことにしたかった。ノートも、二つ名も、あのころの喋り方も。でも、消そうと思えば思うほど、夜になると全部思い出す。布団の中で、昔の自分の台詞が勝手に再生される。眠れなくて、スマホで短い動画をずっと流してた。何も考えなくていいから。
兄ちゃん、あのころ朝ずっと機嫌悪かったもんね。私が「おはよう」って言っても、「……ん」しか言わなかった。
悪かった。あれは機嫌じゃなくて、寝てなかっただけだ。……いや、機嫌も悪かった。自分のことが、すごく嫌いだったから。
嫌いって、どれくらい。
ノートを燃やす方法を調べるくらい。結局やらなかったけどな。燃やしたら、本当にあの三年間がなかったことになる気がして、手が止まった。消したいのに、消えるのが怖い。どっちつかずで、毎晩スマホの光だけ見てた。
深夜一時の第1話
ある晩、短い動画のおすすめに、アニメの切り抜きが流れてきた。必殺技の名前を叫んでる女の子の場面。いつもなら飛ばす。でもその日は指が止まった。叫んでる言葉が、俺のノートの言葉にそっくりだったから。
それが『中二病でも恋がしたい!』?
そう。そのまま配信で第1話を探して、布団をかぶって観た。深夜一時くらい。主人公は、中学のころの自分を封印して、高校では普通に過ごしたいと思ってるやつだった。そこへ、いまも中二病の真っ最中の女の子が現れる。……観ながら、何回も一時停止した。画面の中に、二人とも俺がいたから。作中の観察
京都アニメーションの作品ページでは、『中二病でも恋がしたい!』は2012年の作品の欄に並び、原作は虎虎さん、監督は石原立也さん、アニメーション制作は京都アニメーションとあります。事実[1]
二人とも兄ちゃん、ってどういう意味。
消したい俺と、まだやめたくない俺。その二人が、同じ画面で喋ってた。で、効いたのは、この作品が、どっちの俺も笑いものにしなかったことだ。叫んでる女の子の言葉は、ちゃんときれいに聞こえるように作ってある。封印したい主人公の気持ちも、ちゃんと分かるように描いてある。どっちが正しいって決めないで、二人を同じ部屋にいさせてた。解釈
……それ、兄ちゃんがほしかったやつだ。
たぶんな。俺はずっと、「昔の俺は間違ってた」か「昔の俺は正しかった」かのどっちかに決めようとしてた。決めなくていいって、あの第1話で初めて思えた。解釈
ガムテープを三重に
で、ガムテープ。
そう。観終わって、机の引き出しからノートを全部出して、押し入れにあった空き箱に入れた。燃やすんじゃなくて、しまう。封印、ってやつだ。で、ガムテープを三重に巻いた。一重だと、また開けたくなりそうで。
三重って、兄ちゃんらしい。次の日、箱になんか書いてあったよね。マジックで。
……「開封の儀は、然るべき時に」。今のは忘れて。
忘れない。私、あれ読んでちょっと安心したもん。兄ちゃん、全部やめたわけじゃないんだって。
安心されてたのか。……まあ、そうだな。捨てるのと封印するのは違う。捨てたら、もう二度と会えない。封印なら、いつか会いに行ける。恋の歌みたいなこと言ってるな、俺。
言ってる。でも、いいと思う。
その夜は、久しぶりにスマホを置いて寝た。眠れたかどうかは覚えてない。でも、朝、お前に「おはよう」って言った気がする。
言った。私、びっくりして牛乳こぼした。
高校に入ってから、その話、誰かにした?
しなかった。でも、隠すのはやめた。誰かに昔のことを聞かれたら、「まあ、いろいろあった」って笑えるくらいにはなった。笑えるようになったのは、あの夜、画面の中で誰も笑いものにされてなかったからだと思う。笑いものにされない笑い方がある、って知ったんだ。
それ、むずかしいけど分かる。道場でも、失敗した子を笑うのと、一緒に笑うのは全然ちがう。
いまの小さな習慣
箱、まだあるの?
実家の押し入れの奥。開けてない。そのかわり、高校に入ってから新しいノートを一冊持つようになった。そっちには、自分の言葉じゃなくて、作品の台詞を書き写す。気に入った一語を、一日一行だけ。
一日一行。私の素振りみたい。
似てるかもな。人の台詞を書き写してると、言葉がどこに置かれてるかが分かってくる。昔の俺は、言葉を自分のためだけに並べてた。いまは、誰かに届く場所に置きたいと思ってる。サークルで台本を直したり、裏方でみんなの段取りを整えたりしてるのも、たぶんその続きだ。
私が試合の前に緊張してると、兄ちゃん、何も言わないで好物買ってきて、変な一言だけ置いてくじゃん。あれも?
……あれは、一日一行の応用編だ。長く喋ると、昔の癖が出るからな。
あの一言、だいたい次の日まで覚えてるよ。言わないけど。
……別に。言わなくていい。
昔の自分が恥ずかしくて、全部なかったことにしたくなる夜があります。そういうときは、燃やさなくていいのかもしれません。箱にしまって、少し離れたところに置いておく。いつか開けたくなったら、そのときの自分が決めればいいことです。解釈
捨てたら二度と会えない。封印なら、いつか会いに行ける。