日曜の昼すぎ。少年野球の練習から帰ってきたホマレは、縁側でグローブにオイルを塗っています。となりでは、母のシズカが乾いた洗濯物を畳んでいました。グローブを見ていたシズカが、ふと聞きました。「そのグローブ、二年生のときのでしょう。最初のころ、一回だけ、練習に行きたくないって言った日があったわね」。
おなかが痛い日
……覚えてたの?
ええ。日曜の朝に、おなかが痛いって言って、お布団から出てこなかった日。少年野球を始めて、まだ二か月くらいだったかしら。
あれ、ほんとは痛くなかった。
知ってたわよ。お昼ごはん、二回おかわりしたもの。
……ばれてたんだ。
母ちゃんは、洗濯物のタオルを半分に折りながら笑った。おれはオイルの布を持ったまま、手が止まった。あの日のことは、あんまり人に言ってない。でも、母ちゃんはもう知ってるから、話すことにした。好み
足のあいだを通ったゴロ
その前の土曜に、はじめての練習試合があったんだよ。おれ、ショートで出た。
覚えています。お弁当を持って、グラウンドに見に行ったもの。
最後のほうで、ゴロが来た。まっすぐ、おれのとこ。取れると思った。そしたら、足のあいだを通っていった。
トンネル、っていうのよね。
うん。うしろの外野の人が追いかけてるあいだに、ランナーが帰ってきた。それで一点とられて、負けた。
あのときのことは、いまでも、ボールの音まで覚えてる。土の上を、こすれるみたいな音で来た。おれは、こしを落とすのがちょっと遅かった。グローブの下を、白いのが通っていくのが見えた。ふり返ったら、もう外野のほうに転がってた。好み
そのあと、一塁のほうから、とても大きな声がしたでしょう。
父ちゃんの「ドンマイ!」。グラウンドの全部に聞こえた。相手のチームの人も、こっち見てた。
……あれは、私も少し、帽子で顔をかくしました。
父ちゃんは、はげましてくれたんだと思う。でも、声が大きいと、みんながおれのトンネルを思い出す。帰りの車の中で、父ちゃんはずっと「気にすんな」って言ってた。気にするなって言われるほど、気になった。好み
昼休みの図書室
それで、日曜の朝は、おなかが痛くなった。
グラウンドに行ったら、またゴロが来るでしょ。来たら、またトンネルするかもしれない。そう思ったら、布団から出られなかった。
あの日は、無理に行かせませんでした。父ちゃんは行かせたそうだったけれど。
知ってる。父ちゃん、玄関で三回くらい靴はきなおしてた。
次の週、学校の昼休み、おれはドッジボールに行かなかった。いつもは審判をやりたがるのに、その週は図書室に行った。外にいると、だれかがボールを投げてくるから。図書室なら、ボールは来ない。好み
図書室に行っていたのは、知りませんでした。ドッジボールの話をしなくなったな、とは思っていたけれど。
言わなかったもん。言ったら、なんでって聞かれるから。
聞かれたくないことは、聞かれたくないですよね。私も、子どものころはそうでした。
そこで読んでたのが、科学漫画サバイバル。そのころ、ちょうど借りはじめたところだった。何冊もあって、海のとか、虫のとか、いろいろある。おれは、昼休みのあいだに一冊を半分くらい読んで、つづきは次の日の昼休みに読んだ。好み
主人公の子どもたちが、次々にピンチにあって、それに立ち向かっていくお話でしょう。あなたが毎日一冊ずつ持って帰ってくるから、私も表紙だけは覚えました。事実[2]
韓国で生まれたオールカラーの科学学習漫画のシリーズ。日本では朝日新聞出版が刊行
ピンチは次を考えるところ
あのお話の、どこがよかったの?
ジオが、あきらめないとこ。
あきらめない?
うん。どんなピンチになっても、もうだめだって言わないで、次どうするかに行く。おれは、トンネルしたあと、次のことなんて考えられなかった。
それまでおれは、ゴロがこわくなった自分は、だめなんだと思ってた。でも、ジオを読んでたら、ピンチは終わりじゃなくて、次を考えるところなんだって思えた。おれには、そう見えた。ゴロがこわいのは、ジオじゃなくて、おれ。でも、こわくても、次を考えればいい。こわいのと、だめなのは、ちがうんだって思った。解釈
こわいのと、だめなのは、ちがう。……それは、二年生にはなかなか言えない言葉ですね。
そのときは、そんなちゃんとした言葉じゃなかった。なんか、こわくてもいいんだ、って思っただけ。
もう一つ、思ったことがある。本の中では、ピンチにあうのが一人じゃない。何人かの子どもが、いっしょに立ち向かってる。おれは、トンネルしたとき、だれにも何も言わなかった。ゴロが来る前も、来たあとも。ショートなのに、ずっと一人で取ろうとしてた。解釈
次の日曜の声
次の日曜は、起こす前に、自分で起きてきた。
うん。行く前に、決めてたことがあったから。
何を決めたの?
声を出すこと。ゴロが来たら「おれ!」って言う。来る前は、セカンドの子に「来たら言うね」って言っとく。
練習のノックで、最初のゴロが来たとき、足がちょっとふるえた。でも、「おれ!」って言ったら、体が前に出た。取れた。二つ目は、はじいた。でも、セカンドの子が「こっち!」って言ってくれて、はじいたボールを拾って、そっちに投げた。一人で取るんじゃないって分かったら、ゴロがちょっとだけ、こわくなくなった。好み
その日、帰ってきて、父ちゃんより先に「ただいま」って大きな声で言ったのは、覚えています。
父ちゃんより大きい声、出したかったんだよ。
……あの日は、父ちゃんのほうが静かでした。めずらしく。
トンネルは、そのあとも、何回かした。全部なくなったわけじゃない。サバイバルを読んだから上手になった、っていうのとも、ちょっとちがう。でも、こわくなったときに、どうすればいいかは、あのころの図書室で分かった気がする。解釈
いまのグローブ
いまも、試合のとき、声は出しているの?
出してる。守りにつくとき、セカンドの子に「来たら言う」って言う。四年生になっても、毎回。
毎回。……それは、立派な習慣ですよ。
サバイバルは、いまも図書室で借りてる。ピンチの話を読むと、ちょっと胸がどきどきする。でも、ジオがピンチのなかで次の手を考えはじめると、おれは少しほっとする。あきらめない人を見ると、自分も大丈夫な気がするから。好み
母ちゃんは、こわいときある?
大丈夫ですよ。……さあ、そのグローブ、塗り終わったら日なたに置いておきましょう。
母ちゃんの「大丈夫ですよ」は、ほんとかどうか、おれにはいつも分からない。父ちゃんのうそは声で分かるのに。だから、こんど母ちゃんがこわそうなときは、おれが先に声を出そうと思う。ショートのときみたいに。好み
こわいのと、だめなのは、ちがう。こわいときは、だまって一人で取ろうとしないで、先に声を出す。それだけで、ゴロは少しこわくなくなる。