作業室の明かりは半分だけ点いている。壁の大きな画面には、緑の線が何十本も並んで流れていた。レイの机の上には、紙に印刷した手順書。一行ずつ、緑か青の蛍光ペンで塗り分けてある。
隣の席では、今年入った後輩が、眠気をこらえて目をこすっている。ヘッドセットの向こう、作業用のチャットには、パートナー企業の担当が一人だけ入っていた。アイコンは、黒い猫。
手順14、こっちの切り替え完了。確認どうぞ
確認した。問題なし。15に進む
了解
再起動に入る。ここから十二分、待ち。……画面の数字が全部戻るまで、触らないで。
三十分前、手順9の青い行で、作業は一度止まっていた。設定の値が、手順書と一桁だけ違っていたのだ。気づいたのはクロで、チャットに一行、「9の値、手順書と違う。止めて」と流れてきた。レイがそれを読んで手を止めるまで、二秒もかからなかった。
さっきの手順9、どうしてクロさん、あんなにすぐ分かったんですか。画面、同じものを見てたわけじゃないですよね。
見てない。向こうは向こうの画面。でも、同じ手順書を、同じ順番で読んでる。だから、どこでずれたら困るかも、同じところで分かる。
クロさんとは、会ったことあるんですか。
一度もない。顔も知らない。声も、ほとんど聞いたことがない。
猫で十分
……聞こえてるんですね。
いつも。週末にゲームで組むときも、声は出さない。チャットだけで、誰より指示が速い。
レイは声がでかい。FPSのときだけ
……それは、言わなくていい。
はい。……あの、レイさん。ずっと気になってたんですけど、手順書の緑と青って、何の色分けなんですか。
緑は、その行だけで完結する作業。失敗しても、その行に戻ればいい。青は、ほかの行とつながってる作業。一つ間違えると、あとの青が全部ずれる。
だから、青の行に来たら、手を止めて一回深呼吸。……それだけ。
なるほど……。なんで緑と青なんですか。赤と黄色とかじゃなくて。
レイは一瞬、口を閉じた。それから、目をそらして、チャットの画面に指を置いた。
後輩に色分けの理由を聞かれた
草
言えば。攻殻のS.A.C.でしょ。サブタイトルの背景色。
……攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX、っていうアニメがあって。士郎正宗さん原作の、SFのテレビアニメ。最初の放送は2002年。[1]
全26話で、基本は一話完結。でも、「笑い男事件」っていう大きな事件の話が、あいだに何本も入ってる。一話で終わる話と、その事件につながる話で、サブタイトルの画面の背景の色が違うの。一話完結は緑、事件の話は青。[1]
え、それ、色を見ればどっちの回か分かるってことですか。
そう。観る前に、つながってる回かどうかが分かる。初めて知ったとき、これは手順書だと思った。
一話完結の回をa stand alone episode、事件の回をcomplex episodesって分けてる。作品のタイトルの単語が、そのまま回の種類の名前になってる。
設計がきれい。好き。
クロさん、チャットだと急に長いですね……。
いつも。声だと「……ん」しか言わない。
聞こえてる
画面の数字が一つ、赤から黄色に変わった。レイはそれを目で追いながら、話を続けた。手は動かさない。
あの作品、主人公は公安9課っていうチームそのもの、っていう作りなの。映画版だと顔も出なかった課員まで、ちゃんと仕事をしてるのが見える。[1]
監督は神山健治さんで、アニメーション制作はProduction I.G、音楽は菅野よう子さん。[1]
ここから私の解釈。チームが主人公の話って、誰か一人がかっこいいだけじゃ回らないの。私には、作戦中の何人かが、ほとんど言葉を使わずに相手の次の手を分かってるように見える。……あの距離。あれは、秒単位で見返す価値がある。
仕事でも、言葉より手順が先に往復する相手がいると、障害の夜がぜんぜん違う。
それな
後輩は、チャットの「それな」と、レイの横顔を見比べた。何か言いかけて、やめた。
……今の、長かった?
いえ。……再起動の待ち時間、いつもより短く感じました。
その作品、どこから観たらいいですか。全部で26話って、長いですよね。
緑の回なら、どこからでも入れる。……たとえば第2話の「暴走の証明」。一話完結の回で、文化庁メディア芸術祭のアニメーション部門で優秀賞をもらってる。[1]
ここから私の解釈。賞をもらったのが一話完結の回だっていうのが、あの作品らしいと思う。大きな事件の途中じゃなくて、一本で立ってる回が評価された。単独で成立する部品が強いと、全体も強い。サーバーと同じ。
……レイさん、その話をするとき、ちょっと楽しそうですね。
……仕事中は、顔に出さないようにしてる。
あと一個だけ。タチコマのデザインは原作者の士郎正宗本人。
あの多脚の形を、原作者が自分でデザインしてるのがいい。仕事を機械に任せてる側の人間として、あいつらが画面に出ると、つい目で追う。
それ、自動化の話?
(スタンプ:猫が目をそらしている)
壁の画面の数字が、端から順に緑へ戻っていった。最後の一つが緑になった瞬間、レイは小さく息を吐き、手順書の15行目に、青い蛍光ペンでチェックを入れた。
15完了。全項目正常
こっちも正常。16、17は緑だからまとめて流す
了解。18は青。そこだけ一緒に見て
了解
そこから先は、言葉がほとんど要らなかった。確認と了解の二語が、画面の上を交互に流れていく。後輩は、自分のノートの手順の横に、見よう見まねで緑と青の印をつけ始めた。
作業が全部終わったのは、二時半だった。チャットの最後に、クロから一行届いた。
乙。後輩さん、今度S.A.C.観るなら、緑の回から一本どうぞ。単独で観ても成立するように作ってあるから、入口にちょうどいい。
……観ます。週末に、緑から。
青に入ったら、止まらなくなるから。月曜の朝は、気をつけて。
既読がついたのを確かめてから、レイはパソコンを閉じた。猫のアイコンの緑のランプは、それから一時間たっても、まだ点いたままだった。