土曜の十一時半。百円棚の前でレンがしゃがんだ拍子に、肩の鞄から方眼ノートが滑り落ちた。開いたページには、時刻の数字と、同じ人の名前が何行も並んでいる。帳場から出てきたイツキが拾い、表紙を上にして両手で返した。
レンさん、落ちました。……すみません、ちょっと見えちゃって。岡部、って人の名前ばかりですね。
ゆうべ、また観返してて。二周目……三周目かな。途中から数えるのをやめた。
この時刻の数字は、何ですか。
再生を止めた時刻。左の欄が「岡部が知っていること」、右が「まわりが知っていること」。三周目から、右の欄のほうが長くなった。
誰なんですか、その人。
『STEINS;GATE』の主人公。秋葉原で、小さな発明サークルを仕切ってる大学生です。[1]
僕、観てないです。名前だけは聞いたことあるっす……あります。
ネタバレは気にしないでください。僕、終わりから入るほうが性に合ってるんで。全部どうぞ。
レンは眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。先を言わないことを自分の決まりにしてきた人に、いちばん難しい注文だった。
……全部、か。じゃあ話す。ただ、順番だけは僕に決めさせて。入口から少しずつ。
いいっすね……いいですね。棚に出す順番を考えるのと、似てます。
最初は入口だけ。一話目で、岡部の記憶と、まわりの人の話が食い違いはじめる。[1]
そのあと、仲間と作ったガラクタが、携帯のメールを過去に送れる機械だと分かる。送るたびに過去が書き換わって、みんなの記憶も変わる。変わらないのは岡部の記憶だけ。[1]
一人だけ、前の世界を覚えてるんですか。
うん。僕が推しになったのは、たぶんそこ。ふつうは逆。推理小説なら、読者より探偵のほうが少し先を知ってて、それを最後に明かしてくれる。
岡部は、知ってるのに誰にも分かってもらえない側に、ずっと一人で立ってる。
知ってて言えないの、地味に重いですよね。僕、人に本を渡すとき結末は言わないんですけど、それだけでけっこう疲れるんです。
印刷で言うと、刷り上がったものはもう直せない。直せるのは色校、つまり試し刷りの段階だけ。岡部は、刷り上がった世界をもう一回刷り直そうとする人。
店の前を自転車が一台通り過ぎて、ベルが短く鳴った。レンは少し声を落とし、百円棚の文庫の背に向かって話すような格好になった。
イツキは抱えていた三冊の背を、親指で一冊ずつなぞった。店の奥では、祖父が椅子に深く腰かけて新聞を広げている。
声は、誰がやってるんですか。
宮野真守さん。テレビの最初の収録で、出演者はみんな、自分が主人公のつもりで演じてほしい、と頼まれたんだって。[2]
それを読んだとき、うれしかった。岡部のそばで話が進むあいだも、画面の外のラボの全員に、それぞれの話がある。僕が観たいのは、そっち側なんだ。
それと、僕が笑うところ。岡部は、紅莉栖っていう天才の女の子に、変なあだ名を次々につける。助手、とか、クリスティーナ、とか。[2]
嫌がられません?
嫌がられる。毎回、律儀に言い返される。同じやりとりが何回来ても、僕はそこで声を出して笑う。
言いながら、レンはもう肩を揺らしていた。口の端だけでなく、声まで出ている。イツキは値札シールの台紙を持ったまま、少し驚いた顔をした。
レンさん、そういうとこで笑うんだ。……笑うんですね。
繰り返しに弱くて。仕組みが分かってても、間が完璧だと負ける。
あと、岡部はいつも同じ炭酸を飲んでて、ラボの冷蔵庫に何本も入れてある。僕のコーヒーは、いつも飲む前に冷めるけど。[2]
推しと似てるとこ、つい探しちゃうやつです。
似てない。……似てないところを数えて、安心してるのかもしれない。
もう一つ。この人は、物語の最初と最後で、振る舞いは同じなのに受け取る印象が変わっていくように描かれてる、と紹介されてる。[2]
あ、それ、僕の読み方です。終わりを知ってから最初に戻ると、同じ人が別の顔をしてるやつ。
そう。だからイツキさんに話すのは、少しこわい。……ここから先、畳んで話すね。
中盤まで中盤の展開(ラボの仲間たちの願い)押すと開きます
レン「過去へ送ったメールのせいで、世界は思わぬほうへずれていく。岡部はそれを元に戻すために、送ったメールを一通ずつ取り消して回ることになる。」
レン「漆原るか、岡部がルカ子と呼んでる子は、メールで生まれる前の母親に働きかけて、女の子として生まれた世界にいた。その世界のるかは岡部への気持ちに気づいていて、打ち明けて、二人で出かける。そのあとで、元の世界に帰りたい岡部の姿を見て、自分から取り消すと決める。男の子に戻る」
レン「フェイリスは、亡くなったはずの父親と幸せに過ごす十年を手に入れていた。取り消しには最初ためらう。それでも最後には、本来の時間を受け入れる。そしてそのとき、岡部のほかで初めて、別の世界の記憶をはっきり持つ人になる」
レン「僕がいちばん胸に来たのは、そこ。ずっと一人で覚えていた人の隣に、一瞬だけ、同じことを覚えている人が立つ」[2]
……畳んだところの二人、どっちもつらいです。
僕は、主人公より、その二人のほうが気になります。うちの店に来る本って、全部、誰かが前に持ってた本なんで。
レンはしばらく黙った。ペンの尻を下唇に当てて、目線を少しだけ上へ逃がした。棚の上の文庫の背を、見るともなく見ていた。
そうか。僕はずっと、岡部の側からしか見てなかった。あの二人のほうは、ノートに欄がない。
欄、足しといてください。
でも、岡部さん、あそこはちょっとずるくないですか。
ずるい。僕もそう思う。だから岡部は、あのたびに自分の中の何かも一つずつ削っていく。……僕はそう読んでる。
レンさんは、岡部さんを許してるんですね。
許すっていうより、見届けたい。あの二人が何を選んだか、最後まで書き残しておきたい。
うん、足す。次は、岡部がなぜあんなに騒がしいのか。
中盤まで中盤の展開(大げさな芝居のわけ)押すと開きます
レン「岡部は自分に、狂った科学者の大げさな別名をつけて名乗ってる。一周目の僕は、ただの痛い人だと思って笑ってた。でも、あれには始まりがある」
レン「子どものころ、幼なじみのまゆりは、なついていた祖母を亡くして、言葉をほとんど失いかけていた。岡部はその子のために、当時観ていたロボットアニメの悪役の科学者をまねて、わざと演じはじめた」
レン「それがいまでは、意識しなくても口から出てくるくらい、体に染みついてる。知ってから一話目の高笑いを聞くと、あれは誰かを守るために着てる仕事着に見える」[2]
その話、最初に聞いてたら、たぶん一話目から泣いてます。
それも一つの観方だと思う。僕は、笑ってた一周目の自分も、少しだけ残しておきたい。
結末・正体中盤から終盤(何度でもやり直す)押すと開きます
レン「やがてラボでは、記憶だけを過去の自分へ送り返す機械ができあがる。体はそのまま、記憶だけが跳ぶ。ラボの仲間の一人を待っている悲しい結末を変えようとして、岡部はそれで同じ時間を何度もやり直す。でも、何度やっても、世界のほうが同じ結末へ戻ってきてしまう」
レン「あのあだ名のやりとりも、やり直すたびに、たぶん同じ間で来る。一周目の僕はそこで笑ってた。二周目は笑えなかった。それが何回目なのか、岡部だけが知ってるから。同じ繰り返しが、知っているかどうかだけで、笑いにも、出口のない部屋にもなる」[1]
結末・正体終盤の入口(帰る道)押すと開きます
レン「その悲しい結末を迎えるのは、まゆりだった。仲間の願いがかなった世界の先で、まゆりは、どんな手を打っても、ある日に死んでしまう」
レン「だから岡部は、全部のメールを取り消して、元の世界へ帰ろうとする。るかやフェイリスに手放してもらったのは、このためだった。でも、帰った先の元の世界では、今度は牧瀬紅莉栖が死ぬことが分かる」
レン「ここで僕は、ノートを取るのをやめた。どこに印をつけても、岡部が何かを失う場所にしかならなかったから」[2]
……ノート、取れなくなったんですか。レンさんが。
取れなかった。ペンを持ったまま、次の話を再生してた。
結末・正体終盤の展開(選ぶということ)押すと開きます
レン「どちらの世界に行っても、大切な仲間の一人に悲劇が届く。岡部はそのどちらかを選ばなきゃいけない。迷う岡部の背中を押したのは紅莉栖で、彼女は自分が犠牲になるほうを選ぶ」
レン「一周目の僕は、ここで一時停止を押したまま、しばらく再生できなかった。誰かが選べずにいるとき、隣の人が先に選んでしまう。それがやさしさなのか、相手の荷物を取り上げることなのか、いまもノートのその欄だけ埋まらない」
レン「紅莉栖のいない世界で、岡部は一度、完全に折れる。そこへ思いがけない形で、本物の未来の技術が届く。条件は一つ。過去の岡部が自分の目で見て確定したことは、変えられない」
レン「見たものは変えられない。でも、見たものが全部とは限らない。僕はこの条件がいちばん好きなんだ。答えを書き換えるんじゃなくて、まだ誰も見ていない場所を探しに行くことになるから」[1]
……選ばされる話なんですか。
選ばされる話から、選び直す話に変わっていく。僕が好きなのは、その変わり目。
結末・正体結末(最終話)押すと開きます
レン「苦しむ岡部に、ずっと先の未来の岡部が、メールでヒントを送ってくる。答えじゃなくて、ヒント。それを手がかりに、岡部は、まゆりも紅莉栖も世界も救われる世界へたどり着く。二人とも生きている結末だ」
レン「未来の自分は、全部を知ってる。それでも全部は言わない。次に見る場所だけを渡す。……僕が人に作品を勧めるときに、ずっと真似してるつもりのことを、岡部は自分自身にやってた」
レン「ノートの欄でいうと、最後の岡部は、左の欄だけがやたら長い人になる。知っていることを、まわりに全部は言わないまま、みんなの時間のほうを守る側に回る。……ここは僕の読みだけど」
レン「最終話を観たあとで一話目に戻ると、同じ高笑いが、知っている人の声に聞こえる。それが、僕がこの人を推してる理由の、いちばん奥」[2]
話し終えると、レンは急に口をつぐみ、手元のノートに目を落とした。十五分ほど、一人で話し続けていた。
……長かった。ごめん。また仕組みの話をしてる。
仕組みの話じゃなかったですよ。誰がつらかったかの話でした。
レンさんが一人の人のことをこんなに話すの、初めて聞きました。いつもは作品の仕掛けの話が多いです。
推し、って言葉は照れる。でも、たぶんそう。
レンは眼鏡を押し上げ、もう一度ノートを開いた。右の欄の下に、小さく「あの二人」と書き足して、何も書かずに閉じた。
原作はゲームなんですよね。そっちだと、話は違うんですか。
知らない。僕はアニメしか通ってない。アニメはゲームの筋にほぼそのまま沿って、いちばん奥の結末まで描いた、とは読んだ。[1]
じゃあ僕は、最後の話から観ます。……止めます?
止めない。少し惜しいだけ。僕は一話目の自分に、知らないまま笑わせてあげたかったから。
知らないまま笑うのは、僕は別の本でやってきたんで。今回は、知ってて泣く役をやってみます。
レンは百円棚から推理小説の文庫を一冊抜き、帳場の右側に百円玉を一枚置いた。奥付は見ないまま鞄にしまう。夕方には、ベースを背負って会場へ向かう日だった。
最後の話から観たイツキさんに、一話目の高笑いがどう聞こえたか。……来週の土曜、聞いてもいい?